第33話 腫瘍とCさんとの対話

 看護部長に事情を話し、僕らは大学病院へと向かっているところだ。

 

 すっかり夏らしくなって、車の窓を開けていても暑い。


「エアコンいれようよ。いいかげん」

「やだ。あたいがカーエアコンの匂いが嫌いなの知ってるくせに」


 暑がりのくせに……。面倒くさいやつ。

 横目でみゆきをみるとしっかり額に汗を浮かべている。やれやれ。


「そ、それにしても、よくCさんは風邪じゃないって気がついたわね」


 視線を感じたのか、さりげなく話題を変えてきた。


「そりゃあ、みゆき。彼は休職中とはいえ、県内でも有名な内科医じゃないか。まだ腕は鈍っちゃいないってことさ」


 Cさんがいたような総合病院では内科は重要だからな。


 患者さんが最初に受診するのは内科だ。診療科がいくら増えても、どこに受診していいかわからないからだ。

 だからこそ、内科は最初の見立てが大切だと思う。患者さんのまだCさんはその見立ての勘が鈍ってないのだ。


「あたい、信じられないんだけど……。だってCさんは右半球の半分にダメージがあるんだよ? それなのに現役のあたい達より先に気がつくなんて……」


 少し悔しそうに唇をキュッとかむ。握っている左手にも力がこもる。

 

 脳の四分の一を失ったも同然な人が、障がいを受ける前と変わらない能力を保っているなんて、教科書になんて載っていない。生命力というか、人のたくましさを感じる。

 

「ここに勤めてから思うんだけどさ、みゆき」

「何よ、もったいぶって」

「僕らが考えているよりも、ずっと患者さんってたくましいのかもしれない」

「そうかもね、きっと……」


 目を細めて遠くを見つめるみゆき。

 彫りの深い彼女の横顔をチラリとみると、かすかに微笑んでいるように思えた。

 

***


 Cさんが紹介したのは、大学病院耳鼻咽喉科の大川先生だ。

 前回、健康診断の時に診てもらったからだ。


 大川先生はCさんの書いた紹介状を読んでいる。もっとも休職中だから、紹介状というより書簡に近いのだけれど。


「本当にC先生がお書きになったんですね、これ……」

「はい。そうですが?」


 信じられないと言わんばかりに、書類と僕を交互に見る。

 

「交通事故に遭われたと聞いて、もう医者としてはダメだろうな、って思っていたんです。それが、なかなかどうして……しっかりされているようだ。C先生は元気にされてますか?」

「ええ。かなりご自分で動けますよ」

「それはよかった。あいかわらず口も達者でしょう?」

「そう……ですね、あはは」


 僕らが苦笑すると、大川先生も釣られるように笑った。彼の笑顔はどことなく引きつっていて、きっと苦労したんだろうなと感じさせる。どうやらCさんは元々、口が悪いようだ。


 感慨深げにため息をつくと、大川先生はようやく診察をはじめた。首の根元のリンパに触れ、前回調べてもらった甲状腺の状態も診てくれた。

 

 ううむ、と唸ると、みゆきと僕をみて、


「確かにC先生が書かれている通り、甲状腺ガンだと思います。前回、検査のために組織を採っていませんから、今回は採りましょう。検査結果をみてから、今後の方針を決めましょう」


 と、あっさり告知された。

 分野こそ違えど、同じ医療従事者だ。隠し通せるものじゃないもんな。

 

「浩……」


 みゆきがそっと僕の手を握ってきた。白い指がおずおずと僕の手の甲に触れる。まるで壊れ物のようにそっと……。

 そして不安そうに僕の瞳を覗き込んできた。瞳に映り込んでいる僕の顔が揺れてみえた。何か言いたそうに唇が震えている。

 

 ……らしくない。みゆきらしくない。

 

 いつもなら、何ならあたいが取るよって、大きな胸を張って豪快に笑うだろう。それが何だよ。まだ僕は元気だぞ? ほんとらしくないよ……。

 

 いくつか精密検査を終え、一週間後に検査の結果を聞きに来ることになった。手術するかどうかを含めて、今後の方針はその時に決まる。

 

 職場へ戻る間、みゆきはずっと下唇をかんでいた。

 

***

 

「Cさん、ありがとうございました。大学病院へ行ってきました」

「そうか。どうだったんだ」


 面談室でCさんが身を乗り出してきた。自分の見立てが気になるらしい。

  

「Cさんの見立て通り、甲状腺ガンだと思うとのことでした。今後のことは、組織検査の結果次第です」

「そうか」


 結局、Cさんは交換条件に応じてくれた。

 Cさんに一筆書いてもらうお礼として、彼の話を聴くことになっていた。今までのような面談ではない。

 

「それではCさん。愚痴でも文句でもお好きなだけどうぞ。お聞きします」

「……ふん」


 一瞬、彼が身じろぎした。窓から差し込む日差しを避けてなのか、僕たちの視線を受けてなのか。

 

 しばらくの沈黙のあと、独り言のようにぽつりと、

 

「笑われるだろうけど……」


 どこか懐かしそうに遠い目をして続けた。

 

「まだ医者として戻ることをあきらめていないんだ……」


 静かに自分の気持ちを打ち明けてくれた。

 

 内心、肩透かしを食った。正直、攻撃的な発言をしてくるかもしれないと思っていたからだ。

 彼が攻撃的な発言や行動を繰り返すのは、怒りの感情を溜めているからかもしれない。逆に僕ら職員の対応が悪いのかもしれない。そう考えていた。

 

「でもな……。自分でもわかるよ。そう願っても無理だって」


 続けて話をするCさん。

 はき捨てるような口調や、悲しそうな瞳から彼の心情が伝わってきた。

 

 Cさんは板挟みになってる。現実は彼のいう通り、復職なんて許さないだろう。

 本当にそうだろうか? 僕の異常を一番早く見つけたのは彼だ。

 

「Cさん。僕はそうは思いませんよ」

「ちっ! 何言ってやがる。もう五十六だぞ、俺は。障がいがなくても再就職はできねえ。どこの世界に歳食った元医者なんて雇う奴なんているんだ?」

「あなたは……ここにいる誰よりも、僕の喉の異常に気がつかれました。それって、まだ内科医としての腕が鈍っていないってことだと思いますよ。違いますか?」


 Cさんが半ば、自暴自棄になるのはわかる。

 でも、僕たちの前でしっかりその能力は見せてくれたのだ。

 

 もし、Cさんが見つけてくれなかったら……。

 僕のガンの発見は遅れただろう。

 

「あたいからもお願いしたい」

「お願い……だと? でかいねえちゃん」

 

 珍しくみゆきが口を挟んできた。

 

「Cさんは内科医として、まだまだやってほしい。あたい達のような未熟なものを導いてほしいんだ」


 彼の暴言には耳を貸さず、頭を下げるみゆき。長い黒髪がはらりと頰に落ちる。気が短い彼女らしくない態度だ。

 Cさんが医師として先輩だということもあるが、やっぱり僕のことでCさんが教えてくれたということが大きいんだろう。

 

 みゆき同様、僕も頭を下げた。

 

 しばらくCさんは黙っていた。

 僕たちも彼が声を発するまでは、そのまま頭を下げ続けていた。

 

 そうするのが当然なような気がしたのだ。

 

 どのくらい時間が経っただろう。

 窓の外からの日差しが紅く染まってきていた。

 

「死に損ないの俺よりも、まず本間! お前の体の方が先だ」


 おもむろに荒っぽい口調で、Cさんが話しかけてきた。


「大丈夫ですよ。Cさんが医者として戻るまで死ねませんから」

「馬鹿野郎が……隣のでかいねえちゃんを悲しませる気か?」


 どっちが患者なのかわからないなあ、と思いつつ、僕は苦笑した。

 

 ふと、気になってみゆきを横目で見た。

 彼女はあいかわらず頭を下げていたが、頰が桃色に染まっていた。きっと顔を上げられないのは、恥ずかしいからだろう。


「泣かせませんよ。僕らは一心同体ですから。それにCさん。時間がかかっても僕たちはCさんを医療現場に戻してみせますよ」

 

 ゆでダコのように耳先まで真っ赤になって、ますますうつむいてしまったみゆき。

 そんな彼女の手を握りしめながら、僕はCさんに言ってのけた。

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