第34話 嵐の予兆
朝から職員全員が硬直していた。
硬直というより、開いた口がふさがらなかったって言うのが正しいかもしれない。
Cさんと話し合いをした次の日のことだった。
朝の職員会議に院長と総務部長がきていた。
この職場のトップだから職員会議に来るのは当たり前だ。当たり前なのだが、問題はその高飛車な態度だ。
「お前達は稼ぎが悪い! いいか! 今月から入院や入所している患者数を増やせ! 患者はできるだけ退院させないように。このノルマ数を満たさない奴は即、解雇するからな」
開口一番、院長はこう言ってのけた。
「ええと。中田院長先生がおっしゃられたように、とにかく数を増やしてください。儲けなきゃなりません!」
てかてかと光る頭を撫でつけながら、深沢総務部長がにやにやしながら言う。
「総務部長ってバカぁ? 同じこと言ってるだけじゃない……」
僕の耳元でみゆきが苛だたしそうに囁いた。握ってる彼女の手のひらが熱を帯びて、汗ばんでいる。ガリリ、と歯を嚙む音が聞こえる。よっぽど嫌なんだろう。
学生時代から理不尽な教授には文句を言ったり、ボイコットしてみたり……。元ヤンキーのみゆきにとって、こんな権力をかさに着た上司は、憎悪の対象以外の何物でもない。
「みゆき。一応、言っておくけど、問題起こしたら僕と一緒に仕事できなくなるぞ……」
「わ、わかってるわよ。言われなくても」
元々、この職場は一緒に仕事ができるようにと見つけたところだ。中途半端な僕たちにとって、ペアで働けるようなところはない。
だから、ここを辞めるということはないはずなのだ。
しかし、その時から職場の雰囲気が変わった。
***
「何言ってるのよ! 戸川さん。もっと緩い訓練でいいよ」
「あなたこそ何を言ってるの? 後藤さん。彼は再就職を目指してるのよ? ご家庭の事情もあって、自立しなきゃって、ご本人もお話しされてるのにっ!」
「訓練には時間がかかるのよ。今の彼の状況なら、あと二年はここにいれるわ」
「に、二年! そんなに彼をここに閉じ込めてどうするのよ!」
昼休み、みゆきと職員室に戻ると、看護師の戸川さんと後藤さんが口論をしていた。
「二人とも何揉めてるのよ!」
みゆきが一喝した。
こういう時の彼女は怖い。肩を怒らせ、眉を吊り上げ、左手を腰に当てて仁王立ちしている。
さすが元ヤンキー。族のかしらをしていたことはある。僕のことではないとわかっていても、ビンビンと張りつめた氷のような空気が伝わってくる。
「だってさ。みゆきさん……」
「何よ、私は院長先生が言った通りの……」
「うるさい! 二人とも」
即座に二人の看護師の言い訳を却下。
「で? チラッっと聞いたけど、今朝の院長と腰巾着部長のくだらない話を真に受けたわけ?」
つかつかと後藤さんのところへ、僕を引きずりながら近づいていくみゆき。
険しい表情をしたみゆきに気おされて、彼女たちは後ずさりしている。
「い、いや……。わ、私も子どもがいるし、生活がかかってるから……」
「だ・か・ら・なあに? 後藤さん♡」
「……いえ。な、なんでもないですよ。み、みゆきさん」
ひきつった顔で、とんでもない、と言わんばかりに両手を振る後藤さん。
そこへ理学療法士の鈴木さんが割り込んできた。
「ちょっと遠野先生。何、他の職員を脅迫してるんですか……まったく」
「脅迫だなんて、人聞きの悪い。あたいは患者さん本人の言葉よりも、院長の言うことの方を重んじることがおかしいって言ってるだけ」
「まあまあ。落ち着いて……。患者さんの言うことも大切だけど、私たちはここの職員でもあるわけで。だから後藤さんが院長の言う通りにしようって言うのも一理あるでしょうに」
「そうかしら? 鈴木さん。無駄に長く患者さんをここに留めていく方が悪だと思うけど?」
「それは極論だよ。遠野先生らしくもない」
顔色一つ変えずに反論するみゆきだが、鈴木さんの言うことだってわかる。
厨二病じゃあるまいし、経営も大事なことはわかってるんだ。
ただあの院長のことだ。実際に患者さんが早く退院したら、解雇するかもしれない。その恐怖があるから、こんなことで口論してるわけで……。
「あ、はいはい。そこまでよ。五人とも」
突然、パンパンと乾いた音がした。
思わずピクッとみんなが反応する。
両手を叩きながら、話の輪に入ってきたのは、今村看護部長だった。
「ほらほら。口論なんてしてる暇あるの? 食事介助に入浴見守り、それにトイレ介助。お昼休みだって、患者さんのケアしないとね。あ、それからな。今夜、緊急夜間会議だ」
僕らをせきたてるようにする今村さん。どこから僕らの話を聞いていたのだろう。あんな大声で口論していれば、廊下まで聞こえていたに違いない。
「あ、あの緊急夜間会議って?」
くるりと様子を見てる今村さんに尋ねると、
「がはは。飲み会のことさ。腹を割って話をするのに最適だろ?」
と、豪快に笑いながら、職員室を後にした。
「飲み会ねえ……。みんな、そんな気分にはなれないんじゃないかな」
ひとりごとのように僕がつぶやいた。
「ま、いいんじゃない? 今村さんらしくて。気を利かせたんだと思うしさ」
と、みゆきは、ふぅとため息をついた。緊張が解けたのか、それともあきらめ半分な気持ちなのだろうか。
僕らは、足早に患者さんたちのところへ向かう同僚たちをただ見つめていた。
***
その夜、僕たちは小洒落たお店にいた。
緊急夜間会議に来たのは、理学療法士の鈴木さん、言語聴覚士の木下さん、看護師の戸川さん、事務の渡辺さん、僕たちとさよこだけだった。
結局、集まったのは中核メンバーばかりだ。
「それでどうよ? あの院長……」
ほどよく腹もふくらみ、いい気分になったところで、今村さんが本題を切り出してきた。
「院長の言うこともわからなくないんですよ。ぶっちゃけ、かなり赤字を抱えているのは確かですし」
「でもさ。あたいは患者さんの気持ちが一番だと思うんだよね」
最初に応じたのは鈴木さんだった。それに反発したのが、やはりみゆきだ。鈴木さんは院長寄りに見えるけれど、実は中立的な立場なのだろう。最も家庭を持っているので、わが身可愛さからかもしれない。
みゆきは医師として診察する以外にも、患者さんと接する機会が多い。僕と一緒に患者さんと面談をしたり、出張に行ったりしてるからな。だからこそ、患者さん重視なのだと思う。
僕自身、みゆきと同じように患者さんの気持ちが大切だと思う。
「正直言って、院長のやり方は面白くないわね。実際、同じ患者さんを相手にしてるのに、職員によって対応が違うっていうのはよくないわ」
……さよこのいう通りだな。
患者さんを混乱させてしまうのはよくない。
「そうだよねぇ……困ったな。今のままだと職員もバラバラなんだよな」
「まったくだ」
今村さんが僕に同意する。
みんな、ため息をついた。
せっかく職場として、いい方向へ向かっていたのに。
本当に困った。
「あ、あの。実はですね」
「ん? どうかしました? 渡辺さん」
脇から話をしようとする彼に、木下さんが気がついた。それまで静かに料理をつついていたので、この場にいたことを忘れるところだった。
声を潜めて、渡辺さんが話を続ける。
「えっと、ここだけの話です。ここの病院の一部のお金が、院長と総務部長の個人口座へ流れてる節があるんですよ」
「ちょ、ちょっと待って。それって違法じゃない?」
驚いた戸川さんが素っ頓狂な声をあげた。
一斉に全員が唇に人差し指をあてて、しぃ〜、というしぐさをした。
あわわっ、と、戸川さんは自分の口を塞いだ。
「ちょっとその辺のお金の流れがややこしいです。このことがはっきりすれば、院長と総務部長の立場は危うくなりますよね」
「う〜ん。でもそういうことを調べるのは、危なくないですか? 渡辺さん」
「大丈夫ですよ。足がつかないように、ネット経由で調べますから」
あははっ、と渡辺さんは気楽に笑って、胸を叩いた。
「じゃ、院長の悪は渡辺君に一任して、我々は院長の言うことを聞くふりをして、時間を稼ごうじゃないか」
「今村さん、それはいいんですけど、僕やみゆきが担当する患者さんって、時間に限りある人たちばかりですよね? 時間稼ぎしてる場合じゃないんじゃ……」
そうなのだ。うちのような就労支援施設では、訓練期間や再就職の準備に二年と言うタイムリミットがある。Aさんのように、職場の都合で期限が決まってしまってることだってあるのだ。
期限が決まってる患者さんたちは焦らないだろうか。
ふと、そのことが頭に浮かんだ。
「がははっ! 安心しな。本間先生に遠野先生。今、担当しているCさんは期限がない。これから担当してもらう予定のDさんやF子さんは、退院日がずっと先だし。その辺の入退院の調整は任せろ!」
ドンッ、と看護部長は、自らの胸を叩いた。
まったく肝の座った人だ。
「そっか。その間、院長のことが何とかなればいいわけか……」
木下さんとさよこが頷きながら、一気に飲み物をあおった。
「そういうこと! あ、そうそう。B子さんのことだけど、本間君」
「はい? 彼女が何か……」
「職場にしょっちゅう顔だしてて面倒だ。本間君が監督してくれないか? 何なら、本間君のとこに泊まってもいいんじゃないか?」
「はっ? なぜにB子さんがうちに!」
泊まるという単語を聞いた途端、みゆきが反応した。
「まあまあ。お二人さんだけだと、刺激が足りないようだしね。がはははっ!」
大笑いして僕の肩をバンバン叩く上司。
何だよ、刺激って……。みゆきとだって、充分刺激的なのに。
それにしても直属の上司が今村さんでよかったと思う。
この緊急夜間会議のおかげで、少し気が楽になったのは確かだ。
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