第31話 クレーマーの担当になった
Aさんの職場から戻ってくると、看護部長の今井さんが文字通り頭を抱えていた。
ちょうど戸川さんがすごい剣幕で、今井さんに文句を言っているところだ。
珍しいことだ。
戸川さんは少し騒がしいタイプだけど、いつも患者さんを笑わせる明るい性格だ。
その彼女が顔を真っ赤にして、怒っているのだ。
「今井看護部長、どうしました?」
公用車の鍵を返しつつ、さりげなくみゆきが尋ねる。
「あ、みゆきさん! ちょうどよかった。聞いてよ! Cさんがひどいんだよ。私の教え方が面白くないからっ
て、パソコンのキーボードを叩き壊したのよ」
「Cさんって、確か元医者だよね?」
タブレットでカルテを見ながら、Cさんのことを確認するみゆき。
「そうそう。プライド高すぎてさあ~。この間もあたいの診察がおかしいとか言ってきたんだよ?」
ほら見とけっ! て、言わんばかりにタブレットを僕に押しつけた。
マシンガンのように話し続ける戸川さんに、しきりに相づちを打つみゆき。
その姿をみて、ちょっと僕は驚いた。
彼女たちの会話は、一見、愚痴を言い合ってるように思える。ところがいつもなら、一緒に文句を言い合うみ
ゆきが聞き役に回っているのだ。しかも話を聞きながらメモをとっている。
戸川さんの不満をやわらげながら、Cさんの情報を集めているのだ。
いつの間にこんな事を覚えたんだろう。患者さんとの面談で僕と同席しているからか。
うちん中じゃ、ダラダラしてるだけなんだけど……。
Cさんは交通事故で脳挫傷となった方だ。
他の患者さんたちや、職員とたびたびトラブルを起こしてしまう。
そのため面倒な患者さん、クレーマー扱いされている。
彼はかつて県内でも知られた内科医だった。
それがほんの一瞬のことで変わってしまったのだ。ほんと人生はわからない。
カルテには脳の画像写真が付いている。それを見る限り、Cさんは右前頭葉にあたる部分に問題があった。こ
こを傷めると別人のようになってしまうことがある。一番多いのは怒りっぽくなることだ。
Cさんがよくトラブルを起こすのはこのためだ。
でも職員も感情を持っている人間だ。いくら障がいのためだと言っても、怒りの矛先を向けられれば、戸川さ
んのように愚痴だって言いたくなる。
考え事をしながら、押しつけられたタブレットを見ていると、背後から肩を叩かれた。
「わ! 今村さん……。びっくりした」
思わずビクッとなった。
「誰だと思ったの?」
「てっきり荒井先生かと」
「彼女は夜勤明けだからお休み。荒井先生からデートのお誘いでもあると思った?」
「い、いえ。そんなことはないかと……」
「ま、いいけど。はい、これ次の担当の患者さん」
患者さんファイルを僕に渡された。それはCさんのファイルだった。
「お二人さんにはCさんを担当させろ、って院長先生がうるさいから。あはははっ、ごめんね」
と、苦笑する看護部長。ごめんね、両手を合わせている。
いろいろとみゆきのこと便宜を図ってもらってるので、僕としても断れない。
「……わかりました、お受けしますよ。でもCさんって、就労希望ですか?」
「う~ん。一応、復職を希望されているみたい……」
「勤められていた市立病院にですか……。さすがにこう問題行動があると無理かと思いますが」
「あはは……そこを何とか。本人が納得すればいいから」
何とかと言われても……。
今までのようにはいかないよ。きっと。
***
次の日、僕たちはCさんと面談することとなった。
「なんでCさんの担当になったの? あの人の担当はさよっちと木下さんじゃなかったっけ」
「看護部長に直接、お願いされたんだよ。それに院長がやれってさ」
「え~! そもそもCさん、就労なんて無理でしょ? あんなに怒りっぽいのにさ」
「本人は復職を希望してるんだよ」
「う~ん……だから、あたいたちに出番が回ってきたのか」
腕組みをして、思わずみゆきはため息をついた。
昨夜、ひと言だけCさんの担当になることを伝えていたが、やはり納得できないようだ。
「しかたないんじゃないかな。患者さんを選ぶことなんてできないし。ほら、そろそろ面談の時間だ」
必要な書類を机上に並べ、着席してCさんを待った。
ところがCさんは面談室にあらわれかった。本人に伝えていた時刻から三十分以上経過していた。
「遅いねえ、Cさん」
「どうしたんだろうね。トイレかな?」
「ちょっと見てくるよ」
「ち、ちょっと! 置いていかないでよっ!」
さすがにみゆきも不安になったのか、一緒についてきた。
男子トイレは三カ所にあるが、どこにもいなかった。
リハビリ室や言語訓練室をのぞいても、Cさんの姿は見当たらない。職員に聞いても行方がわからなかった。
「どこ行ったのかしら?」
「まさかとは思うけど、自分の部屋で寝てたりして……」
「ちょっと行ってみよう」
みゆきと一緒にCさんの部屋を覗くと、思いっきりCさんは寝ていた。それもいびきをかいて爆睡だ。僕らが
ベットサイドに来ても、身じろぎもしない。
「どうする?」
「一応、声だけかけてみようか?」
「Cさん、Cさん……」
夜勤時のように声をかけると、ううん、と身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。
「Cさん、起こしてしまって申し訳ありませんが、私たちと面談の時間ですよ」
「……あん? 面談だあ。そんなのやっても就職できるわけじゃないだろ?」
吐き捨てるように言うと、Cさんは僕らに背中をむけた。
面談なんてしたくないらしい。退院後、彼がどうしたいかも、このままでは決めることもできない。
僕はここで粘ることにした。
「Cさん、退院後、どうされたいですか?」
「……」
「黙っておられても困ります。仕事をしたいのですか? それともご自宅で過ごされたいですか?」
僕から逃れようとしてなのか、ますます布団の中にもぐりこんでいく。
「浩、もう戻ろう? いつまでも待ってもキリがないよ。仕事だって他にあるんだし」
ため息をつくとみゆきが僕の手をひっぱる。
元々、気が短い彼女にとっては、ひたすら相手の出方を待つ作戦が苦手だ。彼女の言うとおり、他の仕事だっ
てある。
それにみゆきだけ通常業務に戻ってもらうわけにはいかないし……。
「Cさん、今日はこの辺にしておきます。あなたがどうしたいかを決めるのであって、私たちが決めるわけじゃ
ありません。お話したくなったら、僕に声をかけてください。お待ちしています」
黙って布団をかぶり、背を向けている元内科医。
僕は頭を下げ、Cさんの部屋をみゆきとそっと出た。
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