第5話 こうして僕たちは協力を仰いだ

「うっ……く、苦しい……」


 早朝、僕は息苦しくって、目が覚めた。

 息苦しいが顔全体が柔らかくて、弾力があって……。それに甘いミルクのような香りが……。


「ぷはっ!」


 ようやく弾力のあるモノから、鼻と口を離す。

 僕の目の前にあったのは、黒いレース柄に包まれたみゆきの胸の双丘だ。あのな……。


「おい……起きろ、みゆき」

「んっ……ああ、おはよ。浩……」


 あくびをしながら、背伸びをするみゆき。


「こら! 昨夜、眠れないから、手を繋いで眠りたいって言ってたよな?」


 うちは八畳相当の部屋が二つだけだ。狭いので一つを共同の寝室にしている。

 ベットは別々だったが、昨夜、手を繋げないからベットくっつけて寝ようって、彼女が提案したのだ。

 ベットをくっつけるのは、まあ、いいけど。なんで僕に抱きつく? み、み、みゆきの胸……とか、とかっ!


「ふあ……ふにゃふにゃ……。うん、言った。よく眠れたよ」

「よかったなあ〰〰。で、僕を窒息させようとしただろ? おまえの、む、胸で!」

「ちっ! あたいの胸では不満なのか? うれしいくせに」

「なにをぉ〰〰。僕は抱き枕か?」


 慣れない面談をして、疲れただろうって思ったのに……。


バフッ! 


「あのな、みゆき」


 顔を真っ赤にして、みゆきが枕を投げてきた。いい歳して……。さすがに朝から頭にきたから、枕を投げ返してやった。


「おのれ! 浩、やったなあぁ〰〰」


 投げ返した枕を床に叩きつけたかと思ったら、彼女は僕に向かってきた。


***


「……で、朝からケンカして、そんな状態なのね」


 看護師長の今村さんはため息をついて、僕たちを見つめた。

 僕の顔は、ひっかき傷だらけになってしまっていた。あの後、結局、僕たちは取っ組み合いのケンカをしたのだ。


「……ったく、早く結婚しなさいよ。お二人さん……。朝っぱらからラブコメみたいなことしてないでさ」

「いえ、彼女とは利害関係上、同居してるだけですから」

「ふん。あたいだっておんなじさ」


 みゆきとは、本当になりゆきから、今のように同居するようになった。


 ただ、こいつは、あっけらかんとして、男性的なので、今まで過ちが起きてないだけだ。


 周りからすれば妙な関係だと思うだろう。でも彼女と同居してるから、今度、いつみゆきが寝落ちしてしまうのか、と心配しなくてもよくなった。


「はいはい。ごちそうさま。で、話って何かな? Aさんのこと?」

「はい。そうです。Aさんのご希望は復職です。ただ身体的にもクリアしなくてはならないことがあります。ぜひ、職員の皆さんとご相談を、と思いまして……」


 病院でも福祉施設でも、たいてい患者さんを複数の専門職でケアしていく。一番大切なのは同じ目的を持ってケアしていくことだ。


 それぞれ専門職なので、自分たちが『こうすればよい』という考えを持ってる。でも、Aさんには、はっきりした目的がある。彼の目的をかなえるためには、専門職同士が、それぞれの立場や見方で、互いに話し合いをしていくのが筋だ。


 大学の時も、『カンファレンス』というかたちで、そういう場があった。福祉の世界でも『ケース会議』という似たものがある。

 

 僕は今村さんにケース会議を提案しているのだ。


「そうだね……。本間君が来るまで福祉職っていなかったから、そういう打ち合わせというか、会議ってあまりしたことがないだわ。本間君と遠野さんにお願いしていいかな?」

「あ、それなら、もう僕が資料もそろえておきましたよ」


 僕はみゆきにせっつかれる前に、必要なものをそろえておいたのだ。


「がはは! できる男だねっ。遠野さん、いい男を逃がすんじゃないよ!」


 看護師長は豪快に笑いながら、患者さんのところに向かっていった。


***


「あたい、言語聴覚士と話をした方がいいと思うんだよね。会議の前にさ」

「なんだよ、みゆき。唐突に……」

「Aさん、左頭頂部から前頭葉と側頭葉にダメージあるだろ? どの程度の失語症の症状があるなのかなってことと、注意障害があるかもって思うからさ」


 脳がダメージを受けると、場所によってその症状が違ってくる。たとえば左側頭葉には言葉を司る神経が集まっている。ここをやられると言葉をしゃべれなくなったり、書けなくなったりする。

 一番面倒なのが前頭葉だ。ここはその人らしさを司る神経が集まっているところで、ここにダメージを受けると性格が変わることが多い。よくあるのが大人しかった人が、事故で乱暴になったりするケースだ。


 みゆきは神経内科医だ。その彼女のなりの視点で、言語聴覚士と話をしたいって言ってる。


「わかった。さっそく言語聴覚士さんのところに行こう。えっと、言語訓練室だったな」


 こうして僕らは、言語聴覚士の木下つかこさんのところへ向かった。


***


「来たわね。仲良しカップルが! リア充、爆発しろ!」


 目をくりくりさせながら、木下さんは僕たちを出迎えてくれた。彼女は小柄で子鹿のような感じの女性だ。仕事柄からか、ジャージのズボンをはいていた。


「ぼ、僕たちはカップルじゃないですよ。お互いをカバーするために、こうして手を繋いでるんです」

「そ、そうだぞ。あたいも、しかたなくだな……」


 いきなり扉を開けるなり、からかわれた僕らは少し動揺してしまった。


「あははっ。面白いねえ。で? 世界的に有名な遠野先生が、あたしに何の用かしら?」

「ん? おまえ、有名なのか?」


 みゆきが有名人だなんて、僕は初めて聞いた。


「あれ? 彼氏さん知らないの? 彼女の書いた論文は世界的な医学誌にも掲載されたんだよ」

「……いや、あれはたまたま……」


 珍しくみゆきが謙遜している。普段なら『当然よ!』とか言ってるはずなんだが。

 それにしても、そんなすごい論文書いてたっけ……まあ、一時期、原稿の締め切りが、と騒いでたことがあったけれど……。


「あ、僕から話します。Aさんの失語症のようすと、注意障害の可能性を。お尋ねしたいということで、お伺いしたんです」


 いつまでも、もじもじしているみゆきを放置して、木下さんに尋ねた。


「ああ、Aさんね。彼はどうしたいのかな?」

「復職です。教壇に戻りたいと希望されてます」


 しばらく木下さんは黙り込んでしまった。


「……無理だと思うわ。Aさんは漢字が読めなくなってる。ひらがなとカタカナは大丈夫なんだけどね。それに利き手の右手が麻痺しているから、書字ができないわよ。板書とか無理」


 板書か……。


 僕は考えた。ひらがなとカタカナが、大丈夫で漢字がダメ……。あ、なんだ。代わりとなる手段があるよ。単純なことだ。


「それ、同時に解決できますよ!」


 僕は断言した。


 僕も見えにくくなってから、直接手で書くことは難しくなった。それに漢字は僕も苦手だ。それでも僕が仕事できるのは……。


「「え? どうするのよ!」」 


 木下さんとみゆきが同時に叫んだ。その声が狭い訓練室内に反響する。


「簡単ですよ。パソコン使えばいいだけです。板書の代わりにプレゼンソフト使えばいいし、入力は漢字が苦手でもできます。話せるのですから、音声入力だって可能ですよ」

「そ、そうかあ。なるほど! パソコンを補助具にするんだね!」


 興奮しながら、木下さんは僕の肩をバンバン叩いた。


 さて後は歩く方だな。

 学校って、必ず階段あるんだよな。だったら、階段の上り下りできるようにならないと……。


 何やら考えごとをしているみゆきに声をかけた。


「おい、みゆき……」

「な、何よ。見つめちゃって」

「朝から、お前変だぞ。ほら、木下さんが見てる」


 この訓練室に来てから、木下さんは僕らの様子をずっと見比べていた。チラチラと僕とみゆきを交互に見てたから、そのくらいはわかる。そんなにおかしいかな、と思う。

 ちょっと朝から、みゆきの様子がおかしいのは、わかってるけれど……。


「わっ、わかったよ。で、何?」

「次は理学療法士に意見を聞きに行きたい」

「利き手の麻痺のこと? あ、歩く方だね?」

「その両方だよ、みゆき」


 僕はみゆきを連れて理学療法士のいるところへ行くことにした。


***


 鈴木京介さんは、ここの理学療法士だ。

 

 理学療法士は、歩く訓練を行ったり、麻痺している手をある程度動かせるよう訓練していくのが仕事だ。

 もちろん、うまく歩けなかったり、手が動かせないことだってある。その場合は、代わりになる手段を患者さんと一緒に考えて、提案していくのだ。


 僕らは鈴木さんがいるリハビリ室に来て、彼が患者さんの訓練が終わるのを待った。ここのリハビリ室には歩行訓練のための、さまざまな道具があった。一番面積をとっているのは、患者さんがベルトの上に乗って、ベルトコンベアのように動く歩行訓練機だろう。


「鈴木さん、すみません。お忙しい時に」

「ああ。かまわないよ。で、何の用かな?」


 鈴木さんは僕なんかと違って、すごく顔立ちが整っていた。

 いわゆるイケメンってやつだ。

 背も高いので、ここの女性職員たちにはモテる、と今村さんが言っていた。


「実はAさんのことでご相談したいんです。お力を貸してくださいせんか?」

「うむ。Aさんだね。彼の希望ってどうでした?」


 僕は少し戸惑った。

 それというのも、今まで難しい顔をされることが多かったからだ。

 でもAさんの希望だ……僕は彼の希望が叶うように動きたい。


「Aさんのご希望は復職です。教壇に戻られたいと思っておられます」

「うむ。彼は車椅子だよね? どこまで歩けるようになればいいと思う?」


 鈴木さんは、僕に逆に質問をしてきた。これは試されているんだ。


「はい。僕は杖……四点杖で、階段を上り下りできるようになれば、よいかと思います」

「……それはどうかな? 職場の階段の幅はどうだろう? 確認してないよね?」


 鈴木さんは、にやりとして僕を見つめた。

 四点杖は普通の杖と違って、杖の先が四つある。そのぶん、通常の杖より安定している。でも弱点がある。それは幅をくってしまうことだ。たいてい十五から二十センチの幅がある。


「あ、それ。あたいが確認しました」


 突然、みゆきが声をあげた。


「ん? それ、いつ聞いたの?」


 面談のときは、そんなことは聞いてなかったはずだ。

 ほんと、いつ聞く機会があったんだろう?


「あははっ。昨日、用足しに行ったときに、Aさんとすれ違ったんだ。そのとき、階段って幅広いんですか?、って聞いた」

「へえ〰〰」


 日常の中で情報聞き出したのか……。みゆきもやるじゃないか。


「で、その幅はどのくらいだったのかな? 遠野先生」

「このくらいだそうです」


 自分の手のひらを出して、中指から手首までを指でなぞった。

 その長さは二十センチ以上あった。


「……大丈夫そうだな、わかった。では、四点杖で階段の上り下りができることを目標にしよう」

「ありがとうございます。鈴木さん」


 内心、僕は聞いてくれたみゆきにも感謝した。

 彼女が聞いてくれなかったら、困っていただろう。


「いやいや。Aさん、暇な時間も、自主的に歩行訓練してるからね。私も応援したくなるよ。それに……君たちはいいコンビのようだ。安心したよ」


 僕たちは急に恥ずかしくなった。


 さて、一通り専門職の人たちには、根回ししておいた。

 あとは全体で確認すればいい。 


「では、明日、午前中にケース会議をしたいのですが、よろしいですか?」

「ああ。他の連中と管理職にも、声かけしておいてくれ。参加するよ」


 こうして僕たちは、明日、Aさんの今後について会議をすることになった。

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