第45話 眠り姫ドクターとの約束
タクシーのなかでも、僕はみゆきの事ばかり考えていた。
「すみません。ちょっと急いでるんですが、もう少し飛ばせませんか?」
「お客さん、これが限界ですよ。それにここら辺は警察がいるもので……」
僕はあせっていた。
一度寝てしまっても、みゆきは三十時間もすれば目が覚めていた。もうとっくに三十時間は越えている。なにかみゆきの身にあったのかもしれない。
そう思うといてもたってもいられない。
「あの……。ごほごほ、げほっ」
「だ、大丈夫ですか? お客さん。具合が悪そうですね。急ぎますよ!」
タクシーの運転手に声をかけようとしたが、うまく声が出せない。時々、ヒューヒューと乾いた息が漏れてきた。
まずい……。こんな時に……。苦しい……。
い、今、行くから、待ってろ! みゆき。
***
気がつくと僕は職場のベッドに寝かされていた。
「あ、よかったあ。気がついたわね。浩さん……」
少し涙目のさよこが僕の顔を覗き込んできた。
「ん……。どうしてここに」
「まだ話しちゃダメ。タクシーの運転手さんが、医務室まで連れてきてくれたのよ」
ああ、僕は気を失ってたのか。
「みゆきは? みゆきは大丈夫か? 起きたか?」
「……まだ寝てるわ。呼吸も心拍も正常。ただ血圧は低いわね」
僕の頭の中でアラームが鳴った。今までこんなに長く深い眠りに陥ったことはなかったからだ。
ベッドから身体を起こすと、何本か管がまとわりついてきた。
「あ! ダメよ! まだ安静にしてなきゃ! 浩さんだって、今、ほんとは……」
制止しようとした、さよこの手を振りほどいて、僕は点滴の管を引きちぎった。こんなの後でいい。それよりみゆきの具合だ。
みゆきが寝ている診察室はすぐ隣だ。
わずか数分で行けるのに……。もうちょっとでたどり着くのに。それが永遠に近く感じられる。よろめいて、どこか壁にぶつけたが気にならなかった。
やっとたどり着いた。
昼間、手を握ってやったせいか、心なしか表情がおだやかにみえた。そっと彼女の頬に触れる。暖かな体温とフッと彼女の匂いが鼻腔をくすぐった。
一見、ただ眠っているだけに見えた。
胸のふくらみが上下し、呼吸も正常。
「おい! みゆき! 夕飯食べに行くぞ! 起きろ!」
声をかけながら、僕は強く手を握りしめた。応答はない。じゃあ……と思ってつねってみる。これも反応がない。
「ほら、お前の好きなイタ飯にワイン付きだぞ! 行かないのか?」
いつもなら結構深く寝ていても、飛び起きる癖に無反応だった。
「……起きてくれよ、みゆきっ!」
痛いくらいに僕は彼女の手を握りしめた。
普段なら寝ていても、握り返してくるのに反応がなかった。
「はぁはぁ……むちゃしないで……浩さん。あなたも大変な状況なのよ」
さよこが一人で救急用ストレチャーをひっぱって、診察室へ入ってきた。
「さよこ……。お願いだ。西村先生のところへ電話してくれ! すぐだ!」
「そんなことよりあなたの方が……!」
「いや! さよこ。みゆきの方が先だ! これは昏睡状態だ!」
喉の痛みをこらえながら、僕は叫んだ。
「どうしてよ? 浩さんのほうが……」
「おまえ、バイタルは計ったけど、痛み刺激はチェックしなかっただろ?」
「あ……」
さよこが口元をおさえた。
みゆきの睡眠が深いものだと勘違いした彼女は、意識障害を起こしてるかどうか確認を怠ったのだ。先入観は敵だ。
「わ、わかったわ……」
震える手でスマホを取り出し、さよこが電話をしはじめた。
この時間なら、まだ西村先生はいるはずだ。僕は大学の恩師をあてにした。ここにはMRIやCTはあるが、今、さよこは動揺している。まともに読影できたものじゃない。僕だって、もう何年も前線から離れている。うまく読影できないかもしれない。しかもみゆきは身内のようなものだ。判断を鈍らせてしまうかもしれない。
どうしても第三者に診てもらったほうがいい。
それに僕の勘が正しければ、視床下部にトラブルがあるかもしれない。それだったら、なおのこと、みゆきの主治医でもある西村先生に診てもらいたい。
「あ、西村先生! 夜分すみません。遠野が……ええ。本間君がいうには昏睡状態だと……ええ。わかりました。すぐ手配します。申し訳ありません」
一旦、電話を切ると、さよこは救急に電話を入れた。
「ふぅ……ごめんなさい。私の勘違いで……」
「いや、いいよ。知り合いを診るのは難しいから……。救急車、来るんだろう?」
「ええ。すぐ来るわ。私は仕事あるから一緒に行けない……ごめんなさい」
「いいよ。僕が行くから」
一瞬、さよこがうつむいて下唇を噛んだ気がした。
「浩さんも無理しないで……」
軽く手をふりながら、彼女は病棟へ戻っていった。どこか寂しげで
悪い……さよこ。みゆきの分の仕事を……。
救急車が来て、その音で患者さんたちも集まってきた。
「あれ? 本間先生! 声、枯れてるぜ? 風邪ひいたのか」
「遠野先生、どうしただ? 具合悪いそげだったけども……」
自分のことなんかよりも、僕たちのことを心配して、声をかけてくれる患者さん。
そんな彼らが大切な仲間のように感じられる。
「だ、大丈夫だよ、みんな。もう消灯時間だろ? しっかり休んでくださいね」
「本間先生と遠野先生のカップル、いてこそのここだ。戻ってきてくださいな!」
「戻ってくるから……必ず」
救急車の後部ドアが閉まるまで、患者さんに見送られたのだった。
***
「結論から言おう。遠野君は多発性硬化症だ」
なんとか西村先生に検査と診断をしてもらった。
結果は多発性硬化症か。
正直、目の前が暗くなった。西村先生の声が少し遠くに聞こえる。
どうして今までわからなかったのか……。この病気は完治できないのだ。
多発性硬化症、通称MSは神経を直接侵す病気だ。神経を電気コードにたとえると、ちょうどコードの外側の被膜が壊れるのが、この病だ。
原因がはっきりとわかっていないので、完治することがない。多くの場合、症状が重くなったり、軽くなったりを繰り返す。
みゆきの場合、睡眠障害が先に出ていた。この病気で睡眠障害が出てくることはよくあることだ。
なぜ、西村先生ほどのドクターが、気がつかなかったのだろう。
「先生……どうして今まで気がつかなかったのですか?」
僕は疑問を恩師にぶつけた。
先生は黙って、数枚の画像を僕に見せた。
「本間君には隠し事はできないな……。これを見ればわかるんじゃないかな」
蒼白く見えるモニタに映し出されていたのは、みゆきの脳断面画像だ。
正確には視床下部の部分。映っているところにはわずかな病変があった。
「見つけたかな。それをみて、アレルギー性の脳脊髄炎で、視床下部がダメージを受けたんだと思っていたんだ。血液や髄液検査も脳脊髄炎って結果だったからね」
視床下部には覚醒をつかさどる部分がある。ここにダメージを受ければ睡眠障害が起こる。アルレギー性脳脊髄炎か多発性硬化症かの判別は、再発するかどうかと、MRIで、おかしいところに変化がないか診ていくしかない。
つまり判別は、すぐにはできないのだ。様子見しかないのだ。
西村先生を責めるのはお門違いだな……。
「……わかりました。今後はどうされますか?」
多発性硬化症の治療は、平時と再発時が異なる。平時は服薬でも大丈夫だろうけど、再発時には、ステロイドを何度かにわけて点滴することになる。
「うん。ちょっと入院してもらおう。まだ精密検査もあるし。その後、ステロイドだな」
「どのくらいの入院になりますか? 今、うちの職場は人員不足で……」
「そうだなあ。ステロイドパルスだけなら、三日だけど検査あるから一週間を見てほしいんだが……。本間君のところは優秀な人材がそろってるんじゃなかったっけ?」
「……申し上げにくいのですが、三人ほど退職しまして、手が廻らないんです」
「退職? 九人中三人もか! なんかあっただろう」
「まあ、ちょっといろいろありまして……」
「ふ~ん。中田先生はいろいろ問題ある人のようだからな。もしかして遠野君が倒れたのは、人手不足のせいか?」
「まあ……」
終始、僕は歯切れが悪かった。恩師に職場の恥をさらすようなものだ。
とてもじゃないが、うちの院長の悪口を言えたものじゃないし。
「言いたくないならいいさ。見当がつく。それよりも……」
「なんでしょう? 先生」
「本間君。君、その声と喉のリンパ……。それ、ガンじゃないのか?」
さすがだな。
もっとも声変わりとリンパの状態は隠せないけど。
「ええ。甲状腺ガンです。元市立病院のC先生と、耳鼻咽喉科の大川先生に診ていただきました」
「おお。C先生は入院されていたと聞いていたが」
「C先生は、ちょうど私の担当患者さんです」
ちょっと驚いた顔をすると、西村先生は、
「そうだったのか。あいかわらず口が悪いだろう?」
と、苦笑した。
そうか。有名なんだな、あの人。
ん? そういえばCさんの能力を活かせる場所があるぞ。
「あはは。慣れました。それからちょっとご相談なのですが……」
僕はCさんの再就職先として、大学病院はどうかと打診したのだ。
「そうか。まだご健在なんだな。少しいろいろあたってみるから、C先生の件はまかせてくれないか」
「ありがとうございます」
「なに、まだ礼にはおよばないよ。それよりも話を戻すが、その喉は放置できないように思うが、すぐに入院したまえ。遠野君と一緒の部屋にしておいてやるぞ」
恩師やさよこ、患者さんたちが心配してくれている理由はわかる。
明らかに進行しているガンだ。
少し考え事をしていると、西村先生が内線をとった。
もしかしたら、大川先生のところか!
「あ! 西村先生、お願いです。もう少しやることをやってから入院しますので」
電話をさえぎるように、僕は大きな声をあげた。喉が灼けそうだ。
「やること? そんなことより君の命のほうが大事だぞ!」
先生の手がとまる。やはり大川先生のところに電話するつもりだったのだろう。
顔を真っ赤にして怒鳴られる。
でも僕には……。
「いえ。うちの職場にはまだ患者さんがいます! 彼らをちゃんと守ること、職場を守ることが、今の僕にとって一番大切なことです!」
「なぜだね? 本間君らしくない。自分が死んだら元も子もないぞ!」
きつくいう西村先生に僕は、
「約束したんです、みゆきと……。彼女といつも一緒の職場にいることを。今の状況を何とかしないと、彼女と僕がいる場所がない。もちろん患者さんにとってもです。だからみゆきが戻ってくるまで、何とかしたいんです」
と、大口を叩いた。
できるかどうかわからない。
でもみゆきなら……みゆきなら、そうして!、って言うだろう。
「ふ、あきれたよ、君には……。でもいい医療者になったな。自己犠牲だけは許さんぞ? やれることをやればいい。」
しばらく僕の瞳を覗きこむようにみていた恩師は、ふぅ、とあきらめたようにため息をついた。
「では遠野君の入院は来週水曜日までにしておく。また来週に顔を出せ」
「ありがとうございます。西村先生」
明るく励ますような口調で、みゆきの入院日程を告げる西村先生。
僕は深々と恩師に頭を下げた。
註)バイタル=体温、血圧、脈拍、呼吸、意識など患者さんの状態を知る指標のことです。
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