第44話 人手不足と、Cさんの復職のゆくえと、みゆきと
さよこと添い寝したその三日後、再び夜勤となった。
さすがに一週間に二度も夜勤をすると、生活リズムがおかしくなってくる。睡眠障がいのあるみゆきにとって、かなり辛い状況になっていた。
ほんのこの間まで、みゆきが診察中に寝てしまうなんて事態はなかった。
誰か看護師さんや他の職員がそばにいて、何かあってら僕を呼ぶという暗黙のルールがあったからだ。
そのルールはもう意味がなくなってしまった。
せめてみゆきだけでも、夜勤当番をはずしてくれるよう、今村看護部長に頼んでみたがダメだった。
人員が圧倒的に足りないからだ
人員不足の影響は何も夜勤だけじゃない。普段のリハビリ訓練や、日常的な介助に至るまで。この病院の業務全体に及んでしまっていた。
それにしてもどうしよう……。服薬だけではどうにもできず、少しずつみゆきの睡眠時間が長くなっていくのがわかる。
さよこがフォローしてくれているから、今は何とかなっているけど、彼女だって無限に体力があるわけじゃない。
診察室のベッドで、仮眠をしているみゆき。
彼女の髪をそっと撫で、手を握ってやる。
後ろ髪を引かれる思いで、僕は職業訓練室へと向かった。
***
「本間先生。またトイレ、お願いできるかな?」
「あ、はい。いいですよ」
職業訓練室の前でSさんに声をかけられた。
Sさんは脳梗塞による右半身麻痺をお持ちだ。特に足の麻痺がかなり残っている。まだようやく車椅子に乗れるようになったばかりだ。
僕は喜んでSさんをトイレへ誘導した。
「それじゃ、Sさん。僕の肩につかまっててください。パンツ下ろしますので」
おずおずと遠慮がちに僕の肩に細い腕をまわすSさん。
その間にすばやく彼のリハビリパンツを下ろし、腕が疲れてしまう前に便座に座らせた。
「よいしょっと」
「済まないねえ、いつも最近、お世話になっちゃってさ」
「いえいえ。とんでもない」
本当に済まなさそうに頭を下げるSさん。内部のゴタゴタで患者さんたちに、よけいな心配と負担をかけてるのはこっちだ……。そう言いたくなるのをこらえる。
「……ところで、いつも一緒にいるあの背の高い女の先生はどうしたの?」
「ああ、Sさん。遠野はちょっと体調を崩してまして」
感情を出さないようにと思っていても、みゆきのことを思うと、つい声が震えてくる。
「本間先生……。なにかあったんだね? みんな言ってるよ。ここの雰囲気が変わってしまったって……。空気が悪くなったって……。私もそう感じてんだ」
患者さんはよく見てるから、そう研修医時代にも言われたっけ。
ましてや、このSさんは会社の社長さんだった人だ。
「……いえ、なんにもありませんよ。Sさん」
「そうかい? みんな、あの背の高い先生や君の味方だから……。もし何か困りごとがあったら、相談してもいいんだよ」
用を足し終わったのか、ウォシュレットの水音が聞こえた。
ありがたいことだけど、相談を受ける側が相談するなんて……。
何より患者さんに心配をかけさせるなんて……。もっとしっかりしなくちゃな。
「ありがとうございます、Sさん……お気持ちだけいただいておきます」
彼のトイレ介助が終わってから、僕は何か暖かいものが湧き上がってきた。
***
夕方近くになって、まだ起きる気配がないみゆきをそのまま寝かしておくことにした。
これからCさんの件で、市立病院へ行かなくてはならない。ただ自力で行かなくてはならない。車の運転ができないと、こういうときに不便だ。
結局、僕は自腹でタクシーを頼んだ。自腹だから院長にも言われないだろう。
「すみません。遅くなりました」
「いえいえ。仕事、終えられてから来られたのでしょう? こちらこそこんな時間に打ち合わせを設定してしまって申し訳ないですね」
少し遅れてしまった僕を出迎えてくれたのは、市立病院で社会福祉士をされておられる小松さんだ。
電話では落ち着いた大人の女性という印象だったが、実際に会ってみると僕よりもずっと若かった。まだ大学を出たばかりだそうだ。
みゆきがいたら、手に爪を立てられていただろうな、と思ってしまう。
やっぱりみゆきが一緒でないと落ち着かない。
「さっそくですがCさんの件について、病院長から言づてを預かってますので……」
嫌な予感がする。いい話だったら、人事権のある病院長から直接、話があるはずだ。それが社会福祉士を通してだとすると……。
僕はその艶やかな唇から発せられる言葉を待った。
気のせいか、小松さんも緊張のあまり唾を飲み込んだような気がした。
ほんの数秒が長く感じられた。
ようやく彼女の口が開いた。
「あのですね……。申し訳ない。Cさんの復職の件はなかったことにしていただけませんか?」
やっぱり……。
彼女の態度から予測できていた。
ふぅと、ため息をつくと僕は理由を尋ねた。
「……すみません。一番はCさんの年齢でした。私も能力と経験を活かせるよう、病理部などへの異動も考えてほしいとお願いしたのですが……」
「なるほど。ダメだったのですね」
「はい……。お力になれず申し訳ないです」
まだ小松さんは社会福祉士になってから、日が浅いんだろうな。
本当に済まなそうに頭を垂れて、今にも泣き出しそうだった。
きっとCさんのために、いろいろな部署に話をしてくれたんだろう。そう思うと、彼女を責める気にはなれない。
「気にしないでください、小松さん。予想していたことですし。それから交渉するときはもっと感情を抑えたほうがいいですよ。熱くなるのは患者さんに対してだけでいいんですよ」
ついつい、よけいなことを話してしまった。
泣きそうだった彼女は顔をあげると、なぜか潤んだ瞳で僕を見つめてきた。気のせいか頬も赤い。
なんかひどいこと言ったか? アドバイス的なことは言ってしまったけども。
「ありがとうございます。本間さん! ご助言ありがとうございます。今度、お礼させてくださいね」
意気消沈していた先ほどまでの様子とはうって変わって、小松さんはにっこりとした表情をしていた。
***
何度も頭を下げられ、市立病院を出た僕は、これからどうCさんに話をしようかと頭を悩ませていた。
小松さんは親切にも送っていきます、なんて言ってくれた。でも初対面の女の子、それも患者さんの関係者に送ってもらうわけにはいかない。
考え事もあったから、小松さんの誘いを丁重にお断りしたのだ。
帰りのバスまで、あと三十分か……。
僕はスマホを取り出し、みゆきにメッセージを送ってみる。
たいていどんなに忙しくても、数分で返事が返ってくる。
しばらく待ってみたが返事がない。
まだ寝てるのかな……。そう思って、今度は電話をしてみた。
夕飯が遅くなることをちゃんと伝えておかないと、なにげに夕飯を楽しみにしているみゆきに悪い。
ツーツーツーと空しくコール音がなっている。
やっぱり起きてないのか……。
今までこんなに長く寝てることはなかった。何となく胸騒ぎがしてくる。
ダメだ! でない!
僕は財布の中身を確認すると、あわててタクシーを頼んだ。
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