小さな丘の上の病院物語 〜眠り姫ドクターと僕が異世界に転居したわけ〜

なあかん

第1話 こうして僕は見えなくなった

 ――――目の前が真っ暗だ……。何にも見えない……。


 ふいに僕は目が覚めた。

 

 あれ? みゆきに言われてた歯磨き粉を買いに、僕はコンビニに行ってたんじゃ……。道すがらトラックに引っかけられて、宙に浮いた気がしたんだが。なぜ病室の匂いがするんだ?


 ガラッ! 


 盛大に扉が開かれた音がした。僕は音がした方を見たけれど、あいからず目の前が真っ暗だ。墨汁を目の中に流された感じだ。まったく光を感じない。


「浩! 事故にあったって連絡があったから、飛んできたわよっ!」


 はぁはぁと息を荒げて、みゆきがそばにやってきた。


 彼女は遠野みゆき。僕と同じ研修医だ。訳あって彼女と同居している。別に男女の関係だからと言うわけじゃない。

 みゆきはここ数年睡眠障害に悩まされている。昼間急に眠くなるタイプのやつだ。ナルコレプシーなのか、特発性睡眠障害なのかよくわかってないらしい。たまたま同じ当直当番だったときに、一緒にいたら眠くならなかったということで、なぜかずっとそばにいることになったのだ。


 事故? 僕が……。ああ、やっぱり。どうも実感がない。どこも痛くないからか。

 

「おおい、浩、どっち見てるの? あたいはこっちだよ?」


 あれ? みゆきの不機嫌そうな顔が見えない。


「あ、いや。真っ暗で何も見えないんだよ」

「……え? 浩、どうしたの? 見えないの?」

「ああ。何か黒いベールがかかってるんだ」


 そのセリフを聞いた途端、みゆきがすばやく動いた気配がした。

 ベールがかかって見えない……うむ。目をやられたかな。


「ナースセンター? 遠野だけど、ちょっと本間の目の調子がおかしいのよ。至急、ドクター呼んで! ええ。眼科の先生がいいわ。早くね!」


 カチャリと受話器を置いた音がした。ナースコールをしたのか。


「今、ドクターを呼んだから! あんたそれ、事故って目をやられたんじゃない?」

「……車にはねられたのか。宙に浮いた感じがしたからな」

「何、冷静に振り返ってるのよ! ほら、先生が来たわよ」


 何人かが病室に入ってくる気配がした。かなり慌ててる感じがする。


「よう。本間君、交通事故だったんだって?」

「はあ、そうみたいです。あんまり痛くはなかったんですけどね」

「ふうん。車にひっかかって飛ばされたようだからね。で、私の顔が見えるかな?」


 どうやら声からすると眼科の庄司先生のようだ。

 僕は声のする方を見てみた。けど、あいかわらず何も見えない。ちょうどカーテンがかかってるようだ。


「……いえ。真っ暗です。ベールがかかってる感じですね」

「うむ。じゃあ、ちょっと検査してからオペだな。本間君、君も医者の端くれだからわかると思うけど、ほぼ網膜剥離だね。すぐ手術するけどいいかな?」


 網膜剥離か……。まあ、二週間入院コースかな。

 

「……お願いします、庄司先生」

「まったく現役の教え子のオペをするとは……。眠り姫! お前も心配なんだろ。一緒にきていいぞ」

「眠り姫じゃありません! 遠野です。でもご配慮ありがとうございます」


 見えなくても、みゆきが不満げに頬を膨らませているのが、手に取るようにわかるぞ。しょうがないだろ? ”眠り姫”って呼ばれちゃうのはさ……。

 

 こうして僕はまな板の鯉ならぬ、手術台の鯉になったのだった。


***

 

 網膜剥離の手術は二通りある。


 眼球の外側から輪っかのようなものをあてる方法と、目の中にオイルやガスを入れるやり方だ。僕の場合は後者だった。眼球の中の出血がひどかったからだ。

 このやり方だと網膜がくっつくまで、ずっとうつぶせに寝てないといけない。まあ、この程度のことはがまんしないと……。


 問題は……そう。みゆきだった。


「あのさ、みゆき……そばにいてくれるのはいいけど。お前、仕事は?」

「……あたいがいるのが悪い? だって浩がいないと仕事にならないよ。それにいつも世話になってるから看病したいんだ」

「遠野先生、人のパンツを脱がせながらいうセリフじゃないと思います」

「べ、別にいいじゃない。ほ、他の女に見せるより……あたいが……」

「あ? 何?」

「な、なんでもない……。ほら、尿瓶っ!」


 そう言いながら乱暴に尿瓶を人にあてがってきた。なんて医者だ。仕事で男性のモノ見るなんてしょっちゅうだろ? 照れてる場合じゃないんだが。


「何ため息ついてんのさ。あたいの看病に文句でも?」

「……患者さんには優しいのに、どうして僕には厳しいのか……」

「はあ? 何で浩相手に丁寧にやらなきゃならないんだ?」

「……どうでもいいけど、尿瓶……あふれるぞ」

「早く言ってよ! ほら、外したわよ!」


 人から奪うように尿瓶を外していく。万事がこのありさまだったのだ。看護師にまかせた方が、お互い楽なのによくわからん……。


***

  

 網膜剥離の手術から、何だかんだと二週間がたった。


 今日はいよいよ包帯を解いて、どの程度見えるか先生に確認してもらうのだ。さすがにちゃんと見えるかどうか……不安もないわけじゃない。網膜剥離の手術が一回で終わるとは限らないからだ。

 でも一番緊張していたのはみゆき……お前だぞ。患者より緊張してどうする? だから別に検査についてこなくてもいいって言ったのに……。


「じゃ、本間君、包帯と眼帯を外すからね〰〰」


 看護師さんがゆっくりと包帯と眼帯を外していく。ほどけていくたび、目の前が明るくなっていくのが実感できる。蛍光灯がまぶしいや。


 金属製の眼帯が外され、一気に光が目に入り込んでくる。


「んっ……」

「浩、どう……?」


 心配そうにみゆきが覗き込んできた。


「ん、よく見える。まぶしいくらいだ」

「最初にあたいの顔みられてよかったでしょ?」

「……いや、別に」

「ちっ! 二週間お世話したんだから、お世辞くらい言えよ」

「ほらほら、二人とも仲がいいのはわかったから。庄司先生がお待ちよ」

 

 看護師さんが苦笑しながら、僕たちを診察室へ行くように促した。

『怒られたじゃない』と文句をいうみゆきを適当にあしらいながら、診察室に入った。そこには庄司先生が難しい顔をして僕たちを待ち構えていた。

 

「庄司先生……このたびはありがとうございました」

「ま、二人ともそこに座って」


 突然の網膜剥離のオペで、一番大変だったのは僕なんかよりも庄司先生だっただろう。僕が礼を言うと、先生は僕たちに椅子に座るよう促した。

 

「……さて、結論から言おう。本間君、君の目は右四分の一の視野はもう戻らない。それから左目に緑内障もあるな」


 淡々と手術の結果と予後のことを伝えられた。要は視覚が完全に戻らないということか……。四分の一の視野欠損ってことは、自動車運転もダメだってことだ……。

 

「本間君、君は優秀な脳外科医だけど、今の目の状況だと厳しいね。私としては別の道を歩むことを勧めるよ。まあ、そのあたりは脳外科の西村先生と相談してくれ」


 庄司先生は心苦しそうに僕たちに告げる。そして電子カルテに入力をはじめながら、一言つぶやくように言った。


「退院だ。本間君……」

 

 呆然としている僕の手を、隣に座っていたみゆきがギュッと強く握りしめる。


「……浩、あたいが運転するから帰ろうか……」


 そして震えた声でみゆきは立ち上がった。

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