第47話 シシリー前夜と浩のひみつ

 その晩遅く、僕はさよこに電話した。

 

 明日の夜、喫茶シシリーで僕がどうしたいのかを、さよこに知ってもらいたいからだ。


「女の子とイチャイチャしたいわけじゃないのね?」

「何で僕がイチャイチャしなきゃならないんだ? 彼女たちと情報を交換するだけだ」

「どうだか……。私をふった前科があるんだからね? 脇で電話を聞いてた感じだと、二人ともあなたに好意を持ってるわよ。わかってる?」


 ああ、わかっているよ。純粋に仕事の話だけだったら、電話口で済む。


「さよこ、そこまで鈍感じゃないって、知ってるだろう?」

「わかってるわよ! でも情報交換だけだなんて、彼女たちの気持ちを弄ぶことにならない?」


 う。それが一番、きつい……。

 女の子の気持ちをわかっていながら、院長たちの情報をくれ! だなんて虫のいい話だ。


「そうなるね……」


 素直に僕は認めた。


「……あんたねえ。女の子の気持ちを踏みにじるつもり?」


 さよこならそう言うと思った。きっとみゆきなら、平手打ちだ。

 自分でもひどい男だと思う。


「わかってる……そんなことはわかってるんだ、さよこ。だから明日の席で、彼女たちに現状を伝えようと思う。どうしたいかを含めて」


 受話器の向こうで、ギリリと奥歯を噛む音がした。


「じゃ、彼女たちの気持ちには答えを出さないつもり?」

「僕の話を聞いて、その場を立つのもいいじゃないか。二人っきりで会うとか、デートしたいとか言ってないぞ。僕は情報交換がしたいって言っただけだ」


 はあ、とため息をつくと、さよこは、


「女の子はね、たとえ情報交換だけであっても期待するものなの! ましてや、好意を持った男にならね! それはわかるでしょう? 私が体で教えたんだから! 昔、人が大っ嫌いだった浩さん!」


 と、強い口調で言い放った。


「……ごめん、言いすぎたわ。あなたはお姉様を亡くしてから、人が嫌いになったのですものね……今は違う。とても人を大切にするようになったわ。浩さん……」


 すぐに声を小さくして、彼女は謝った。

 受話器の向こうで、申し訳なさそうに、体をどんどん小さくしてるように感じられた。


 あれは僕が高校二年の時、仲の良かった三つ上の姉を薬物中毒で失った。


 原因は付き合っていた男だ。あいつが姉を薬で破滅させた。


 僕の目からみても、あの男は明るく成績もよく、見た目も性格もよかった。何の問題もない好青年。

 あの男から勉強を教わったことだってある。優しくてかっこいい兄貴。


 そう思っていた。


 ところが姉の様子が、だんだんおかしくなってきた。


 美人でスタイルもよく成績もよく、非の打ち所がない姉。


 それがあの男と付き合いだして、だんだん身なりが派手になった。

 おしとやかだった姉が、肌を露出させるような服を着て、言葉づかいも荒っぽくなった。それだけだったら、大学生デビューしたってだけで済んだ。

 

 だがそれだけでは済まなかった。


 両親にも暴力をふるい、お金をせびるようになった。新築だったわが家は、壁をボコボコにされ、カーテンやカーペットは引きちぎられた。そんな状況に父と母は、それぞれどこかに消えた。


 家族離散と崩壊。

 

 彼女の刃は僕にも向かってきた。それはただの暴力ではなかった。

 

 尊敬する姉が、僕にしたこと。

 それは性暴力だった。


 ある夜、姉は僕を無理やり脱がせ、またがってきたのだ。

 月夜に照らされた姉の顔……。それは狂った獣だった。ピエロのように口角をあげて、涎を流していた。きれいだった黒い瞳は血走って、信じられない力で、僕の両手両足を押さえつけた。


 やめてよ! って叫んでも、不気味な笑みを浮かべながら事に及ぼうとした。


 必死に抗いながら、姉の太ももや腕に無数の傷痕があるのを見つけた。


 それは注射針の跡。


 まるで蜂の巣のような痛々しい跡。


 当時の僕でもそれが何を意味するのかがわかった。何が姉にあったのかもわかってしまった。


 その後のことはよく覚えていない。


 わかっているのは、姉と付き合っていた男が警察に捕まったことだ。きっと僕自身が、通報したのだろう。


 警察に捕まった姉は、裁判を待たずに激しい離脱症状を起こして、亡くなってしまった。


 姉が死んだとき、何の感情もわいてこなかった。涙一筋流れなかった。火葬され、ボロボロの遺骨になっても……だ。

 

 尊敬し、好きだった姉にレイプされかかったこと。

 信用していた人に姉や家族を壊されたこと。


 僕はそれ以来、心を閉ざした。


 人とは接しない。女性とは関わらない。それが僕の基本的な態度になった。

 論理や表面上の倫理観だけで、世の中を渡る人間になってしまっていた。

 

 やがて医大生になり、血をみても何とも感じなくなった。解剖実習もイヤだとは思わない。


 いや、心の奥底は、本心は違ってたのかもしれない。

 

 僕が医者を目指そうとしたのは……。誰かを助けようと思ったからか? 

 それとも自分が助かりたかったんだろうか?


 さよこがそれに答えてくれた。


 さよこはその身をもって、女性への嫌悪感を払拭してくれたばかりか、濁った沼底のようなところから、僕をすくい上げてくれた。


 だからさよこは恩人だ。


「……ひろしさん? 浩さん?」


 水面からさよこの声がする。

 なんだか湖の底に沈んでいたような気分だ。


「ごめん。昔のことを思いだしていた。ありがとう、さよこ」

「大丈夫? つらくない? ねえ、それより、どうして院長たちの情報が欲しいの?」


 フッと僕は現実世界に戻ってきた。と、同時に頭も廻りはじめる。

 ちゃんとさよこに説明しなくちゃ……。誤解されたくないし、何より先に進めなくちゃいけない。


「情報収集は大切だぞ。医療だと検査をたくさんするだろう? その結果にもとづいて治療するじゃないか。福祉だってそうだ。今、僕がやろうとしてることだって、治療って言える。職場全体へのソーシャルワークって言ってもいい」

「浩さん、いったい何をしたいの? いち従業員で雇われ社会福祉士が、いったい何ができるっていうの?」


 僕だって考えた。

 しょせん雇われの身だ。


 でも、まだ復帰を希望している患者さんたちがいる。みゆきだって……。


「今のままでいいと思ってる? さよこ……」

「ダメに決まってるでしょう! でも怖いの! 経営者にたて突くだなんて」


 電話口ですすり泣くような声が聞こえる。


「さよこ……。僕だって怖いさ。でも患者さんまで……患者さんまで、あそこに縛りつけておくことはないだろう? そのためには僕がクビになろうと、どうなろうとやらなくちゃならないんだ」

「なんで浩さんが……。いくら前に看護部長が、院長をこらしめようって言ったって……。みゆきのためなんでしょ? 本当は……」


 そうだね……。何だかんだカッコつけたって、みゆきのため……。


「……そうだよ。さよこ」


 ぐすんぐすんと、泣いている音が大きくなった気がした。

 

「ごめん……さよこ、やっぱり僕は……」

「その先は言わないで! いいわ! こうなったら最後まで、あなたのカッコつけに付き合ってあげるわ。じゃ、明日ね!」


 無駄に明るい声で、ガチャリと受話器を置く音がした。

 無理しちゃって……。

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