第55話 みゆきリバース

 う。頭が痛い。喉もひりつく。

 全身麻酔が解けた直後の違和感がひどかった。


 重たい瞼を開けると、口には酸素マスクがはめられ、あちらこちらから管が出ていた。どうやら手術は終わったらしい。


「お、意識を取り戻したか」


 聞き覚えのある声、恩師の声が聞こえた。


「ん、んっ」


 返事をしようとして、声が出せないことに気がついた。

 そうだった。声帯も取ってしまったんだ。


 察してくれたのか、さよこが文字盤を取り出してきた。元は言語訓練のため、職場で使っていたものだ。


 文字盤の文字に指をおいて、僕は先生に尋ねた。


「お、ぺ、は、ど、う、で、し、た、か」


 さよこが一つ一つの文字を読み上げて確認してくれた。


「本間君、話してもいいかな」


 頭はまだ動かせないようなので、瞼を閉じて、僕は意思を伝えた。


「そうか、君や荒井君に隠してもしかたないからな。正直に話そう」


 一瞬、さよこがこわばったのがわかった。

 自分の体だ。最悪の結果になるかもしれない予感があった。


 恩師は眼鏡をとって、目頭を指で拭った。


「咽頭ガンは他にも転移していたよ。私たちは取れるモノは、できる限り切除した。抗ガン剤を使っても、数ヶ月しか持たないだろう。傷口が塞がれば退院できる。発話訓練は退院してからでもできるぞ」


 眼鏡をかけ直して、僕に問うた。


「どうする? 私としては、残りの時間を有意義に過ごして欲しいと願っている」


 余命宣告だった。

 そっか、やっぱりダメだったか。


 さよこは俯いて、肩を震わせていた。

 僕は文字盤に指を這わせた。


「た、い、い、ん、し、ま、す。み、ゆ、き、と、いっ、しょ、に」


 震える声で文字盤を読み上げていくさよこ。


 僕にはまだやることがあった。

 一つはみゆきに告白し、ケジメを付けること。二つ目は、楽しみに待っている患者さんたちに、みゆきとの結婚をお披露目すること。三つ目は、混乱している職場のお手伝いをすることだ。


 それから、さよこ。おまえにもちゃんと礼をしたいんだ。

 震えている彼女の手に、僕の指で触れた。


***


 手術から三日後の晩、その夜は満月だった。

 さよこは夜勤のため職場に戻った。


 だいぶ傷口の痛みも引いてきた。

 点滴を引っ張りながらも、なんとか自力でトイレにも行けるまでになっていた。


 僕がトイレから戻ってくると、みゆきが上半身を起こしていた。

 最初は看護師が起こして、体を拭いているのかと思った。


「浩、おはよう」 


 はっきりと彼女の声が聞こえた。目鼻だちがはっきりとしたその顔は、しっかりとこちらを向いていた。懐かしい視線を感じる。


「んっ、んんんっ!」 


 みゆきを呼んでも、ぐぐもった音しか出せなかった。

 それでも彼女は、僕が言いたいことがわかったようだ。ベッドから起きて、よろめきながら僕を抱きしめてきた。


 懐かしい肌のぬくもりと匂い。みゆきだ。本当にみゆきだ。



 明るい月明かりの中、僕とみゆきは、ベッドの上で向かい合っていた。

 文字盤を持ってきて、僕は一字一字、伝えた。


「み、ゆ、き、あ、い、し、て、る。ぼ、く、と、けっ、こ、ん、し、て、く、れ」


 みゆきの瞳が僕の指先を追っていく。その視線が全身で感じられるようだ。彼女は文字盤を一つ一つ読み上げると、僕の手を強く握った。


「うん。あたいも愛してる。ずっと前から愛してる」


 眉を八の字にして瞳を潤ませ、声を震わせているみゆき。

 パジャマのポケットから指輪を取り出すと、僕は彼女の左手をとった。


 もう文字盤はいらなかった。


 耳先まで真っ赤に染めたみゆきが、こくりとうなづく。

 彼女の左手の薬指に、僕は真紅の指輪をはめた。


「もう離さないでっ! もうずっと一緒だよ、浩」


 すっかり涙で顔をグチャグチャに濡らしながら、僕を抱きしめるみゆき。

 彼女の愛情に応えなきゃ。そう思った僕は酸素マスクを外し、いくつかの管を自ら引き抜いた。


「あ、バカ! そんなことしたら、ん、んんんっ!」


 文句を言われる前に、彼女の唇を自らの唇でふさいだ。

 僕からの初めてのキスだ。


 キスをした後、酸欠状態になった僕は気を失ってしまった。

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