第29話 B子さんの退院と院長の無謀な要求
大学病院から戻ってくると、大きいキャリーバッグを押しているB子さんを見かけた。
「退院の準備中だね、B子さん」
「はい。これを玄関に出せば終わりですよ」
正面玄関に行こうとする彼女に声をかけると、額の汗を拭って、明るい表情で応えた。
はぁはぁと息も荒いので、何度か荷物を運び出しているようだ。
「今後のことを話し合いたいので、ちょっと時間をくれないかな」
「いいですよ。面談室ですよね? 荷物を出し終わったら行きます」
「どたばたしているのに悪いね」
「いえいえ。ちょうどお話したかったので」
B子さんと別れたあと、僕らは職員室へ寄った。Aさんのアフターケアの件で副校長と連絡をするためだ。
何とか副校長とアポイントがとれ、Aさんの勤務先に行くのは来週初めに決まった。
みゆきと一緒に面談室へ向かうと、部屋の前でB子さんが待っていった。
「待たせて申し訳ない。じゃ、中に入って……」
鍵を開けて、B子さんに先に入るように促す。その際、彼女はみゆきをチラリと見た。
B子さんに座ってもらって、面談をはじめた。
いつも通りの光景。
少し違っていたのがB子さんの態度だ。僕を見たと思ったら、うつむいたり、窓の方を見たりしている。どうも落ち着きがない。
さっきもみゆきの顔色をうかがうようにしていたな……。
「退院で忙しいところ、申し訳ありません。退院後もB子さんのお力になりたいと思いますが、いかがでしょうか?」
B子さんの様子を気にしながら、僕は面談をはじめた。
「新しい、それも慣れない職場です。障がいがなかったとしても、最初の数ヶ月はキツいと思います」
「う〜ん。まあ、そうかも……。お店が変わったときは結構、大変だったし」
B子さんは右頬をぽりぽりかきながら苦笑した。
「そうですねえ。まずは一ヶ月後、その次は三ヶ月後に職場訪問するつもりです。職場訪問の件は、先日、面接時に吉田さんちもお話しましたし」
「わ。段取り、はや!」
B子さんは目を丸くして、口に手をやった。
アフターケアの件は、採用通知の電話があった際に、話しておいたのだ。
「B子さん、それで職場訪問の件ですが、当面はその二回でよろしいですか?」
と、僕が確認すると、
「あの……二回だけでしょうか……」
彼女は不安げに下唇をかんで言った。
「職場へ落ち着くのが、たいだい三ヶ月が目安なんですよ」
「三ヶ月過ぎたら……? もしクビになったらどうするの?」
さすがに毎月、職場訪問して様子ををみるわけにはいかない。それに雇用側は外から人が来るのを嫌う。
「クビになるようなことや、貴女からの依頼があったら頼ってください。もし、吉田さんから連絡があったら、必ず行きます」
助けてやりたいのは山々だが、限度もある。甘やかしすぎは本人のためにならない。企業側の意向だってある。いろいろ考えた結果だ。
B子さんは瞳をクリクリさせて、思案している様子だ。
しばらくして、彼女は意を決したように、キッと顔を上げて、僕を真っ直ぐに見て、はっきりと言った。
「浩さんが好きです。だから、わたし、みゆきさんや荒井先生に宣戦布告をします!」
一気にまくし立てると、B子さんは急に恥ずかしくなったのか、前髪をハラリと落として顔を伏せた。耳先まで真っ赤になっている。
僕はハッとなって、みゆきの顔色をうかがった。彼女は堂々と宣戦布告されたのだ。
みゆきの手のひらは少し汗ばんでいるように感じた。この湿り気はみゆきのものなのか、はたまた僕自身のものなのか……。
以前、B子さんが迫ってきて以来、何か予感めいたざわつきはあった。いざ、目の前で、それもみゆきがいる前で恋情をぶちまけられるとは……。
僕自身、動揺していたのだ。
やっとそのことに気がついた。
みゆきは一瞬、天井を見上げるようにすると、ふぅ、と深いため息をついた。
そしてB子さんを見つめて、口を開いた。
「あのね、B子さん。医療関係者が患者さんと恋愛関係を持つのって、あんまり感心できることじゃないの。それにその感情は一時的なものよ」
みゆきのことだから、頭に血がのぼってるんじゃないかと思ったが、意外にも冷静だ。その声が優しく諭すように聞こえたのは、僕の気のせいだろうか。
「わかってますよ、みゆきさん。看護師さんたちが言ってました。治って、退院してから付き合いはじめる人もいるからって……」
僕も聞いたことがある。実例も知ってる。先輩のなかには元患者さんと親しくなった人もいる。
半ば呆れ、眉根をひそめたと思ったら、次の瞬間、みゆきがにやっと口上がったように見えた。
「……はぁ。わかったわ、B子さん。言っておくけど、あたいの方がずっと有利なんだからね」
いつもなら食ってかかってくのに、この余裕はなんだろう。
この前、事故とはいえ、僕とキスしたからなのか?
「ふふ。これからですよ、みゆきさん。実家から運動がてら、ここに来ようと思ってます」
「退院するんだから、そんなに来ることもないでしょう?」
「ほほほ。監視ですよ、監視。逃がすまいと必死になっている女医さんたちから、浩さんを守るためです」
「なんですってぇ〜!」
売り言葉に買い言葉だ。
過剰反応するみゆきもみゆきだが、B子さんもB子さんだ。
止めなきゃ……。さっきから面談じゃなくなってる。
「ふ、二人とも、ほら、まだ面談が」
「「あなたがいつまでもハッキリしないから!」」
B子さんもみゆきも、つり上がった目で僕をにらみつけた。
…………。思わず、僕はイスから腰を浮かせてしまった。
正直に言おう。
僕自身の恋愛相談を受け持ってくれるカウンセラーが欲しい。
***
B子さんが退院した次の日、僕とみゆきは院長に呼び出されていた。
みゆきと二人で院長室へ行くと、中田院長と深沢総務部長がソファーに深々と座っていた。それもふんぞり返って、葉巻を吸っていたのだ。
その光景をみて、みゆきは口を尖らせた。
腹の中からこみ上げてくる不快な気持ちを抑えて、僕は話を切り出した。
「遅くなってすみません。ご用件はなんでしょうか? 院長先生」
イライラして、自分でも語気が荒くなるのがわかる。
僕らもソファーに座ろうとすると、
「遠野先生、本間先生。すぐ終わるからそのままでいい」
と、深沢総務部長に片手をあげてさえぎられた。すぐ終わる用件なら社内メールで済むことだろうに……。
みゆきの眉がつり上がっていく。
ソファーから少し体を起こした院長が話しはじめた。
「Aさんのことだが、もう少し長く、ここに入れておかれなったのかね? いくら就職が決まったからって、すぐに退院させるのは問題だ。B子さんだって、本来の退院日よりも二日早いじゃないか」
深沢総務部長も院長の言うことに相づちを打っている。
「あのな……。いまさら妙な事を言うなよ。まるで患者さんの就職が決まったことが悪いことのように聞こえるだけど」
顔を真っ赤にして、みゆきが院長に食ってかかった。そして彼女はギリリと奥歯をかんだ。
「病院も施設も入ってる患者さんの数が一番大切だ。お前たちが稼ぐわけじゃないだろう? ん? それを予定より早く退院させたら、その分、収益が減る。できるだけ長くここに留めることがお前たちの役目だ」
一通り、言いたいことを伝えると、中田院長は僕らをにらみつけた。
まるで僕たちが仕事していないって、言ってるようなものだ。
ここは社会復帰のための場所だ。
当然、復帰できる状態になったら、社会に戻すべきだ。それをいち病院の長が利益にならないからって、いつまでも患者さんを囲うのはおかしい。
患者さんは院長の私物じゃない。
横にいるみゆきは全身をブルブルと震わせている。全身から湯気がでそうなくらい、耳先まで真っ赤にしている。
あとひと言、院長に言われたら、彼らをののしるか平手打ちしてしまうだろう。
「患者さんのことはご本人と僕たちが決めます。院長が決められることではありません」
みゆきが何かとんでもないことをしでかす前に、僕は院長たちにキッパリと言ってやった。
僕が反論するとは思っていなかったのか、院長はあっけにとられている。
そんな連中の顔を見ながら、僕とみゆきは院長室の扉をきつく閉めた。
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