第9話 こうしてAさんの上司と会ってきた

 んっ。何だか心地いいな……。フワフワする。どうせまた、みゆきの抱き枕になってるんだろう。そう思って、ゆっくりと薄目をあけてみた。


 …………今日は一段と肌色が……。いつもよりみゆきの香りが濃いな。あれ? 何か太ももに絡まってる。おずおずと僕は視線を下に移していった。


 おい……! みゆきのヤツ、下着は? 下着が見当たらないぞ!

 あのな……。僕は布団を一気にはがし、みゆきをたたき起こした。


「こら! は、は、肌を隠せ! このビッチ!」

「はあ? ビッチだってえ! あたいは処女だぞ! 処女! なんなら確認するか?」


 え? 今、初めて知った……。

 本人が元ヤンキーだって言ってたから、てっきり経験済みだと思ってた。いつものエロい黒のスケスケレースの下着は一体なんだ……。あの下着は経験者が着るものじゃ……。


「なんだよ! 悪いのか? 浩はどうなんだよ! 童貞だろ?」

「え? い、いや……」


 つい、言葉を濁してしまった。初体験の相手は、みゆきの親友だからだ。今、この状況で言ったら、確実にみゆきにやられる。バレないように……バレないように。


「……おい! まさか……あたいの知ってる女と……」

「ち、違う……な、なんか勘違いをだな……」


 なんでこんなに勘が鋭いんだ。必死に、僕は首を横にふった。うわっ! そのまんまの姿で、指をパキパキ鳴らしてるよ。目つきがやばい。


「ま、待て。な、落ち着け。まずは服をだな……」

「うるさい! 浩……。わかってるんだろな?」


***


「ふうん。それで本間君は、朝からそんな状態なんだね」

「……はい。今村さん」


 みゆきにさんざん噛みつかれるわ、引っかかれるわで、僕はズタズタにされていた。


「ほんと結婚しちゃえば? もう実質、夫婦じゃないか。がははっ」

「……浩が悪いんだよ」


 ふくれっ面してるみゆきは、放っておこう。僕は朝のケンカのことではなく、Aさんのことで看護師長に相談しにきたんだった。


「えっとですね、Aさんの職場のようすを見てきたいんです。それとご本人の意思を、伝えに勤務先に行ってこようかと思っています。ご本人抜きで……。どうでしょうか?」

「うむ。いいんじゃないかな? 先方とは連絡ついたの?」

「いえ。これからです。まだAさん本人には、職場に行くことを話してませんし」 

「そうだね。先にAさんに話しておいた方がいいよね」

「はい。ちょっとお話してきます」

「うん。職場復帰への一歩になるといいね」


 よし。これで上司の了承はもらった。

 あとはご本人に、職場に行く旨をお伝えしよう。


***


 廊下を歩きながら、Aさんを探す。その道中、みゆきが疑問をぶつけてきた。


「ところで 本人抜きで、職場に行ってどうするんだよ」

「その方がいいからだよ。みゆき」

「おかしいだろ? 患者さん抜きで、話進めるなんてさ」


 あ〰〰。みゆきの言ってることもわかる。でも危ないんだ……。あんまり本当のことを全部話すと、まずいこともある。


「最初は本人抜きの方がいいんだよ。今の彼を見たら、復職の可能性がなくなるかもしれないんだよ」

「……う〜ん。難しいんだな」

「みゆき……。特に高次脳機能障害については、最初に話をするなよ。たいてい問題視される」

「雇う方が分かってた方がいいだろ?」

「同時に別の仕事できませんとか、集中が続かないとか、って話してみろ。そういうヤツを雇いたいって思うか?」

「いいや……。採用したくないな。面倒見切れないから、無理だと思う」

「そういうことだよ、みゆき。職場で面倒をみれる人を探すのも、今回の訪問の目的だよ」

「なるほど、面倒なんだな。ちょっと見直した」

「…………」


 機嫌直ったかな……。少し笑顔がみれた。みゆきとケンカしたって、いいことないし。


***


 Aさんはリハビリ室で歩行訓練を終えたばかりだった。ちょうどいいタイミングだ。僕たちは、汗を拭いている彼に近づいて、しばらく待った。

 Aさんの場合、同時に別のことをするのが難しいようだ。だからこうして待つことは大切だ。つい手伝ってしまいそうになるが、これから自立するのだ。手出しせずに見守るのが一番だ。


 一段落したようなので、僕はAさんに声をかけた。


「Aさん、こんにちは」

「あ、本間先生に遠野先生、お疲れさまです」

「遠野は医者だから先生かもしれないけど、僕は先生じゃないよ」

「まあ、私から見れば、皆さんは先生ですよ」


 あはは、と笑いながら、Aさんは時折、流れる汗を拭いた。


「Aさん、実はAさんの職場のようすを、ちょっと見てくる予定です。階段の状態とか知りたいですしね」

「わあ、ありがとうございます。本間先生。じゃ、校長先生にも会ってくるのですか?」


 まあ、職場復帰を希望されているのだから、人事権をもっている上司にも、と期待するのは当然だな……。


「はい。お会いしてきますよ。今回は様子見なので、私たちだけで行ってきます。よろしいですか?」

「……はい。おまかせします。校長先生によろしくお伝えください」


 Aさんは少し考えてから、明るい顔で応えてくれた。


***


 Aさんの職場は街の中にあった。通勤のことも考えなきゃならないんだな……。みゆきが運転する車の助手席で、次に課題となりそうなことを考えていた。


「浩、着いたぞ!」

「ありがとう。みゆき」

「へ? い、いや。礼なんて」


 何、顔赤くしてるんだよ。こっちが調子狂う。


「ほ、ほら、行くぞ」


 僕の方が赤くなってしまうじゃないか。何だか調子が狂っちゃうよ。


 来訪者名簿に署名した後、受付の職員に、階段やトイレの様子を尋ねた。


「ああ。Aさんの復職の件でいらっしゃったのですね。どうぞ」


 同僚の方なのだろうか。階段の位置だけではなく、多目的トイレのことも、教えてくれた。もしかしたら、職場復帰した時、Aさんを援助してくれるかもしれない。


 校長先生と約束していた時間まで、僕たちは職場の様子を確認した。

 

 まずは階段だ。

 一段の高さや幅、段数はもちろんのこと、傾斜角度もだ。あまり急な階段だと登れないこともある。

 トイレについても、教えてもらった多目的トイレだけではなく、通常のトイレの様子も確認した。トイレでは手すりの有無や、幅、壁の状態が大切だ。手すりがなければ、壁を使って立ち上がるしかない。


 メジャーを持って、みゆきと一緒に校内を歩き回った。ああだこうだ言いながら、二人で共同で作業するのも悪くないな……。


「本間様、遠野様。学校長がお待ちです」


 職員室手前の階段を調べていた時、さっき受け付けてくれた職員が声をかけてきた。さて、いよいよ校長と面談だ。どうなるやら……。


***


 校長室に案内され、簡単に挨拶をすませた。

 まずご本人の意思を伝えなくてはならない。


 僕は単刀直入に話を切り出した。


「校長先生、Aさんは職場復帰をしたいと考えておられます」

「それはAさん自身の意思ですか? 脳梗塞で意識不明になったと聞いていたんだが」


 どうやらこの校長は、最近のAさんの病状を知らないようだ。病状などは医師であるみゆきから、話してもらった方がいい。僕はみゆきに視線を投げかけて、発言を促した。


「Aさんは現在、杖を使って、歩行訓練をされるまで回復していますよ。お話も明瞭ですし、リハビリ意欲も高いですね。トイレなども自分で行かれますよ」

「歩行訓練……ということは、まだ普通に歩けないということだな?」

「普通の意味がよくわかりませんが、自立されていますよ。医師として、職場復帰は可能と考えます」


 いいぞ、みゆき。自立していることは大切なことだ。


 何とかなると僕が安心した、次の瞬間、校長から信じられない言葉が発せられた。


「自立してようが、してまいが関係ない。障がい者だろ? 障がい者が生徒に教えるなんて、とんでもない。教育現場にはふさわしくない」


 さっきまで穏やかに微笑みながら、Aさんのことを伝えていたみゆき。それが、今は全身の毛から怒りが湧き上がっていた。


「は? 何を言ってんの! 逆でしょ? 教育の場だからこそ、障がい持ってても、一生懸命にやっている人の姿を見せるべきでしょ?」


 ば、バカ……言葉づかい。もう遅いな。

 しかたない。僕も援護するよ。


「私もそう思いますね。そこに飾ってある校訓にも、時代に逆行してると思いますが、どうお考えでしょう?」


 僕は校長室に飾ってあった校訓を指し示した。そこには『博愛』という一言があった。


「……くっ。わ、わかりました。私一人じゃ決められることじゃない。教育委員会と相談するから……」


 校訓を突きつけられたからか、医師に指摘されたからかだろうか。校長は悔しそうに膝の上に置いている拳を震わせながら、Aさんの職場復帰を検討すると言った。


 公務員は、法を守らなくてはいけない立場だ。本人が復職したいと言えば、検討しなきゃいけない。本人の希望をかなえるように努力しなきゃならない。

 いろいろ面倒だから……などと逃げる口実を考えても、正論を通すだけだ。


「なにとぞ、ご配慮くださるようお願い申し上げます。またお伺いいたしますので」


 僕は別れ際にダメ押しをした。


 校長のプライドは傷ついただろう。

 でも僕たちはAさんの一生を背負って、ここに来た。Aさんの代弁者なんだと、僕は自分に言い聞かせた。

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