第8話 こうしてAさんの支援をはじめた
また、女の甘い香りがする……。目を開けてみると人の肌が見える。
歓迎会の翌朝、再び僕はみゆきの胸に抱かれていた。抱き枕だな……完全に。
昨日、さんざんみんなに言われたせいか、みゆきが女であることを意識してしまう。いかんいかん。仕事のパートナーだから彼女は。それに腐れ縁……。
僕は心を鬼にして、彼女をたたき起こすことにした。
「……おい! 起きろ、みゆき。朝だぞ」
「ん……。うん……まだ……」
「まだじゃない! ほらほら、仕事だ。今日からAさんの支援をするんだぞ」
「……うにゅうにゅ」
「………」
可愛い声を出しても無駄だ。僕は一気に布団をはがす。
「————なっ!」
僕はあせった。みゆきは半裸だったからだ。
下着が乱れて、胸がのぞいてしまってる。そのうえ大事なところも丸見えだ。
彼女はいつも下着だけで寝る。なんでも子どもの時からの習慣だそうだ。酔い潰れてる時は、下着だけにすればいいから楽だ。でもさすがに下着を脱がせたりしないぞ……。
ひょっとして、やっちゃったのか。一瞬、恐ろしい悪寒がした。
「な、なんでおまえ、ぱ、パンティもブラも脱ぎかけなんだ?」
「……ちっ! もうちょっとだったのに」
「なにがもうちょっとなんだ? ほら! 支度するぞ。遅刻、遅刻!」
「朝ご飯用意しておいて〰〰」
「はいはい。まったく……」
何とかみゆきを起こすと、僕はおもむろにキッチンに立ったのだった。
***
言語聴覚士の木下さんは、最初に高次脳機能障害の検査をすると言っていた。 僕らはさっそく言語訓練室へと向かった。
部屋に入ると、ちょうど検査の最中だった。みゆきが二人に
「こんにちは、Aさん、木下さん。見学させていただきますね」
木下さんにお願いしていたのは、成人用知能検査や記憶検査、注意検査だ。高次脳機能障害の検査をするには、医師の指示がいる。そのあたりはみゆきが、ちゃんとしてくれたようだ。
「あ、先生方、もう少しで終わりますよ」
にこやかにAさんが挨拶をしてくる。廊下ですれ違っても、いつもこんな感じなのだ。イライラしているところを見たことがない。
「じゃ、Aさん。今日はこれで最後です。上に書いてある数字と記号を、下から選んでください。選んだものに『×』をつけてくださいね」
「わかりました」
「じゃ、ストップと言ったらやめてください。はじめ!」
抹消課題か……。注意障害の検査だな。よくみると選択する数字と記号がそれぞれ三つずつある。同時に選択させるから、複数の仕事を上手くこなせるかどうかの目安にはなる。
課題がはじまってから、みゆきが僕の手の甲を軽くつねった。何だよと思い、彼女の方をみると、廊下に出ろと指さしをしていた。
木下さんに軽く会釈をして、僕らは廊下に出た。
今、ご本人に聞こえては困るので、小声で相談する。
「浩……見た? Aさん、課題の右下の数字見落としてる」
「そこまでは見てなかったな。僕は記号の一部を見落としてることが気になった。同時に別のことをするのは苦手だね」
「Aさんが注意障害持っているのは確実ね。どうフォローする? 浩」
「ま、他の検査結果出てから考えるさ。そのために木下さんにお願いしたんだしさ」
「……いい。わかった。浩の言うとおりにする」
みゆきの事だから、もっと主張してくるかと思ったら……珍しいな。僕たちが再び、部屋に戻ると、どうやら検査は終わったようだった。
後で木下さんに結果を聞くことにして、Aさんと一緒に歩行訓練に行くことにした。
***
Aさんは車椅子から立ち上がって、四点杖を使う練習をしていた。
「はい、そうですね。Aさん。勢いで右足出さないようにしてくださいね」
「こ、こうでしょうか?」
鈴木さんのリハビリの方法って上手いな……。Aさんの邪魔にならないように、そして安全に訓練できるように、体を支えている。
「……んっ。あ!」
Aさんが少しよろける。それをすばやく鈴木さんが彼を支えた。
「急がずに一歩一歩踏みしめましょうね」
イケメンな上、こんなこと言われてたら……。若い女性患者さんなら、一発で惚れてしまうだろうな。そんな不謹慎なことを考えてしまうほど、鈴木さんのフォローは完璧だった。声かけもアドバイスも適切だった。
「本間君も遠野さんもご苦労様です」
どうやら歩行訓練が終わったようだ。
Aさんを車椅子にゆっくり誘導すると、鈴木さんがこちらにやってくる。
「鈴木さん、素晴らしいですね」
「いえいえ、とんでもない。遠野先生」
「どうですか? Aさんは」
これからの見通しについて、僕は尋ねてみた。このまま車椅子だと、ほぼ職場復帰は難しい。
「この調子だと四点杖を使って歩けると思います。ただ彼に合った杖じゃないと……。ここにある練習用の杖じゃダメですね」
「ダメっていうと?」
「本間君、ここに置いてある四点杖って、重いし大きいんですよ。Aさんご本人には合っていないです」
「なるほど……。では、早めに杖を購入する費用の支給申請を、市に出しておいたほうがいいですね」
「そうですね、さすがは本間君。言わなくてもわかってますね」
四点杖や車椅子などは、そのまま買うと高い。ご本人に合った車椅子を購入すると、十万超えてしまう。休職中の方や入院中の方にとっては、結構な負担だ。
そこで市町村に申請を出せば、購入費の多くを出してくれる制度がある。欠点は申請してから、実際にお金を出してくれるまで、数ヶ月かかることだ。
鈴木さんと話しているうちに、車椅子でAさんがそばにやってきた。
僕はしゃがんで、Aさんの顔を見つめる。そして本日、最後の訓練を見せて欲しいことを彼に告げた。
「Aさん、検査と歩行訓練お疲れ様です。これから一緒に、職業リハビリの様子を見学させていただきますね」
「はい。お願いします」
微笑んで返事をしたAさんに、僕とみゆきは笑顔で応えた。
***
職業リハビリでは、主にパソコン操作などを中心に取り組んでいた。
場所も人手もないこともあって、完全なマンツーマンではない。担当職員一人に二人から四人の患者さんがついていた。
Aさんの担当は戸川さんだった。
僕とみゆきは様子を見てみることにした。妙に昨夜は、僕らの関係について勘ぐってたけれど、仕事ぶりは別だろう……。
ちょうどAさんは、タイピングの練習をしているところだ。
利き手ではない左手のみでタイプしている。麻痺している右手は……机の上には乗っていた。よかった……。麻痺側の腕が、ずっと下がってると、とても肩がこる。
ん? 同時に他のキーを押そうとしてるようだけど……。さっきからAさんは戸惑っていた。小指がひきつっている。
戸川さんも、他の患者さんに気をとられていて、見ていないようだ。
「Aさん、ちょっといいですか?」
「あ、本間先生……すみません」
あやまらなくてもいいのに……。それに僕は先生じゃないよ……。そういう言葉はグッと噛みしめた。
僕は手持ちの小銭を重ねて、タワーのようにした。これだけだと崩れてしまう。そこでその辺にあったテープで、ぐるぐる巻きにした。これでおもり代わりにはなる。
「本間先生? 何を……」
不思議そうな顔で、僕を見つめるAさん。
彼が使っているキーボードの上に、僕はお手製のおもりを置いてみせた。
「Aさん。もし、キーを同時に押したい場合は、ここに、このおもりを置いてみてください。どうですか? 無理に指を伸ばさなくていいですよね?」
「あ……はい! できました! すごい!」
いや……そんなたいしたものじゃ。小銭は犠牲になったけれど……。
「わあ〰〰。すごいすごい! 本間君、すごいね」
ようやくこっちの様子に気がついたのか、戸川さんが寄ってきた。ていうか、妙にくっつきすぎだろう? 胸が腕に当たってるぞ……。
僕の服の裾をつかんでいたみゆきは、ギュッと人の尻をひねってきた。
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