第10話 こうして初めての当直をした

 カーラジオからは、女性アイドルグループの曲が流れている。


 そのコケティッシュな楽曲も、僕たちの耳を素通りして、ただの音になっていた。


 隣で運転しているみゆきをみると、口を真一文字にして眉間にしわをよせていた。普段、二人で車で出かけてるときは、なぜか機嫌がいいことの方が多い。それがあからさまに不機嫌そうだ。

 きっと思ったよりも、Aさんの上司の反応が悪かったからだろうな。感情が思いっきり顔に出るから、みゆきはわかりやすい。


 ……しかし、Aさん本人に職場訪問の結果を伝えなきゃならないだろうな。どういうふうに伝えたらいいんだろう……。難しいな。そうだ、同席していたみゆきに相談してみるか。


「みゆき……。ちょっと相談」

「何よ、あのハゲ校長のこと?」

「……」


 おまえってやつは……。ストレートに言うなよ、ストレートに。それもイヤそうに。

 

 僕は思わずため息をついてしまった。なんか相談する相手を間違えたかも。ま、あの場でハゲって、言わなかっただけいっか。


「そうだよ。Aさんには校長の様子を伝えないといけないだろ?」

「そのまんま、伝えたら?」

「あのな…みゆき。Aさんが傷つくだろう? 管理職から邪魔だって、言われてるようなもんだぞ?」

「う。ま、まあ。そうだよね。今夜、当直だから一緒に考えようか」


 え? 当直? 今、聞いたんだけど……。昨夜言ってくれればいいのに。着替えも持ってきてないぞ。また朝起きたら、みゆきに抱かれてた……なんて絵は、いくらなんでもまずいだろ?


「……また今朝みたいなことは、職場でできんからな」

「そ、それは浩が悪いんだ。暑かったから脱いだだけだし、それに……いつだって……」

「ん? いつだって何だよ?」

「……」

 

 何だ? 珍しく反論してこないな。つい怪訝な視線を向けてしまう。最近、みゆきは時々ハッキリ言わないことあるんだよな。


「な、なんでもない。それよりAさんの職場で、もっと味方になってくれる人がいるといいと思うんだけど……」


 なるほど……。そりゃそうだな。

 対応してくれた人とか、心配してたようだから味方になってくれそう。でもその人だけじゃダメだな。学年主任とか管理職側の人にも味方になってもらわないと。


「そうだな。ちょっと職場の事情について、もう少し調べてみるか」

「うん。手伝うから言ってよ」

「ああ、ありがとう」


 気持ち、柔和な表情になったみゆきの横顔を眺めながら、僕は腕時計をみた。まだ当直まで時間があるよね。ちょっとは仮眠くらいとれるだろうか。


***


 うちの当直は原則一人勤務だ。職員数が少ないことと、患者さん自身で動ける方が多いから、一人で勤務可能なのだ。職員数を考えると、だいたい週一回程度かな。

 僕はみゆきの分も、自動的に当直することになる。自分の分も含めて、週二回は必ず当直する計算だ。みゆきに言わせれば、『浩の分も一緒に泊まるから、あたいだって週二なんだけど?』だそうだ。ま、その辺はお互いさまだし、今さら文句言う気にはならない。


 当直室はちょうど入院病棟のナースステーションのように、患者さんの居住棟のど真ん中にある。食堂や、TVやネットに接続されているパソコンが置かれた談話室からも、ほんの数メートルだ。


 で、僕たちは談話室で患者さんたちに囲まれているところだ。


「せんせ、せんせ。先生方は結婚してるのかい?」

「そうそう。いっつもお二人さん、手をつないでるんだよね。それも指からませて……」

「ひゅ〜。お熱いねえ……もっと若かったらのぅ」

「おじじ、何言ってるんだい。若くてもダメだろうさ」

「僕たちは結婚してるわけじゃないよ」

「え? その割には夫婦ゲンカしてるんじゃないかい? 今朝も本間先生が顔に爪あとを残してるって、評判だったんだよ」


 げ! 今朝のアレ……患者さんに見られてたのか……。それにしてもどうしたものか。からかわれているんだろうけど、困ったもんだ。ムダだとわかっていたけれど、みゆきに助け船を求めてみた。

 

「……い、いや。それは……みゆき、なんとか言ってくれよ」

「……な、何のことかな?」


 みゆきもタジタジかよ……。

 なんだかんだと好き勝手なことを言われながらも、僕たちは患者さんたちと、夕食後の歓談をしていた。こういう機会はとても大切だよね。患者さん一人一人の顔が見えるんだもんな。


「先生方が困ってるじゃないか……。みんな」

「あら、Aさん、こんばんは」


 近づいてきたAさんに、みゆきが声をかけた。Aさんは四点杖をついて歩いてきた。だいぶ杖歩行に慣れてきたように思う。


「いかがです? 調子は?」

「ありがとうございます。遠野先生。おかげさまで少し杖に慣れてきたみたいです」


 こういう時、ちゃんと声かけができるのが、みゆきのいいところだ。そう思って、彼女の横顔を眺めていると、他の患者さんにツッコミを入れられた。


「本間先生……そんな愛おしげに、遠野先生のこと見てなくっても……」

「……え? い、いや。そういうわけじゃ……」


 僕がおどおどしていると、あははっと、みんなの笑い声が居住棟に広がった。

 ……いい雰囲気だな。この場所だからこそ、こんなに笑えるかもしれないな。


***


「じゃ、先生たち……。消灯だから、うちらは寝るさ」

「ではおやすみなさい」


 もう少し一緒に……とでも言いたそうに、彼らは車椅子や杖をそれぞれ居室の方へと向けた。


 ここの消灯は二十二時。

 その代わり、朝が早い。朝食は七時からだから、ほとんどの患者さんは六時前には起きてくる。脳血管障害にかかる人たちの多くは、不規則な生活によるストレスが原因の一つだ。

 それゆえ医者も、規則正しい生活をするように指導する。患者さんたちも、できるだけ消灯時間には寝るようにしているようだ。実際、ここでは職業訓練もしているので、それなりに疲れるだろう。

 

 消灯時の最初の巡回を終えたので、当直室の押し入れを開けた。僕は押し入れの中をみて、めまいがした。布団が一組しかない。油断してたよ。一人の当直が前提だもんな……。


「……あのさ、みゆき。ちょっといいか?」

「何よ。これから化粧を落とすところなのに」


 うちにいるときと同じように、洗面台のところで口紅を落としていたところだった。


「布団一組しかないぞ? どうする?」

「どれどれ……」


 面倒くさそうに畳敷きの仮眠室に入ってきて、押し入れを覗いた。 


「あらら。そうだね。それも薄いし。また二人で寝ればいいよ」

「……あのな。ここは職場だぞ。け、今朝のような状態になったらどうする?」

「かまわないんじゃない? あたい達、二人で一人って、みんな知ってるしさ。早く起きればいいだけだし」

「……」


 ま、まあ。そりゃそうだ。大学ん時はそれでも布団は二組あったから、気にしなくてもよかったけれど……。はあ……。談話室で僕だけ寝てるわけにもいかないよな。


「しょうがない……。二人で寝るか……」

「やったね!」

「ん? 何がやったんだ? 困るだろ? あらぬ疑い受けてさ」

「……ちっ。口がすべっちまった」


 これ以上、何か言っても今朝同様、僕がひどい目に遭うだけだ。やめておこう……。みゆきは澄ました顔で、いつの間にか洗面台に戻っていた。


***


 午前二時過ぎ。5回目の巡回をする。

 二人で廊下を歩く靴音と、白衣が擦れる音が妙に響く。


 巡回を終え当直室まで戻ってくると、談話室に人の影がみえた。誰だろう? 眠れないんだろうか……。

 患者さんが眠れなくって、睡眠剤をくださいって来ることがあるのは、大学でも資格取得の実習先でも経験している。長い入院生活で、うつ症状や不眠になる患者さんは、結構いらっしゃるのだ。


「……どなたですか?」

「……Aですけれど。ちょっと眠れなくって」


 Aさんだったか。やっぱり昼間行ってきた職場訪問の件、気になるんだろうな。

 みゆきは黙って談話室の照明をつけて、Aさんに座るようにうながした。僕もみゆきの隣に座った。Aさんも静かにソファーに座り、僕とみゆきを交互に見つめた。


「……」

「どうかされましたか? Aさん」

「ええ。あの……昨日の職場訪問の時、学校長はなんておっしゃっていましたか?」


 やっぱりな……。つい、みゆきと顔を見合わせてしまった。彼女も『聞かれると思った』って、思っていたようだ。あきらめたように小さく首をふり、『浩が説明しなさいよ』と言いたそうにうなづいた。

 僕は静かに息を吸って、Aさんに職場の様子を話しはじめた。


「……そうでしたか。学校長がそんなことを……」

「でも、Aさん。階段やその他、移動についてはクリアできそうですよ。リハビリ、頑張っておられるようですし」


 案の定、がっくり気落ちしてしまってるAさん。下を向いてしまって、こちらを見ないばかりか、気持ち震えているようにもみえた。

 身体的にはクリアできそうだと、フォローしても、あまり意味がないのは承知してる。それでも僕は一つでもいい点を、あげずにいられなかった。


「……ありがとうございます。やっぱりあの時……あの時……」


 しだいにAさんの震えが大きくなってきた。感情が高ぶってきているのがわかる。手を繋いでいるみゆきの手が汗ばんできた。彼女もAさんが、どう校長と向き合っていくか緊張しているようだ。


「あの時……最初に倒れたとき、やっぱり私は死ねばよかった、と思います……あの時、死んでいれば、家族にも、学校にも生徒たちにも迷惑をかけずに済んだ。なのに、どうして……」


 静かに……小さい声でも語尾はしっかりと、Aさんはそう吐き捨てるように言った。

 突然襲ってきた病への怒り。自分自身が思うように動けなくなった自身への怒り。リハビリしても元通りにはならない悔しさ。一生かけてきた仕事や、それまでの生活には戻れない喪失感。

 その全ての感情が、この静かなAさんの中で、今、吹き荒れていた。


 Aさんの感情をどう受けとめればいいんだろう……。僕は戸惑った。目が不自由になったとき、僕は目標を失った。そういう感情とも近いようで違っていた。

 隣にいたみゆきの手がギュッと握られた。僕を勇気づけているのか? ここがAさんの頑張りどころでもあるもんな。そんなことを考えてると、もっと強く手が握られてきた。痛いくらいに……。

 僕は軽く息を整え、Aさんに提案してみた。


「Aさん……。僕が思うに、Aさんの職場には味方がいるはずです。私たちが訪問したとき、Aさんの復帰を待ち望んでいる人に会いました。他にも、Aさんのご友人がいらっしゃるはずです。その方々とコンタクトをとってみたいと思います。力をお借りしましょうよ」

「……どうだろう。私なんて……」

「もう過ぎたことでしょ! ウジウジしてないで、やってみなくちゃわからないよ」


 患者さんには、優しいみゆきが突っぱねるように声を荒げた。僕には厳しいし、手もあげるけれど、患者さんを叱ったことは、これまでなかった。その彼女が眉をつりあげ、厳しい視線をAさんに向けている。

 さすがにフォロー入れてやらなきゃダメかな……。僕はみゆきとは正反対に、冷静に話を切り出した。


「……障がいを持ってしまったことは、もうどうしようもないことですよ。Aさん。これからの事が不安なのはわかります。どんな人だって、明日、障がいを受けてしまうかもしれませんし、事故にあって亡くなってしまうかもしれません。でもね、そんなこと気にしてたら、先に進まないんですよ。みんな、今のことや、少し先のことを考えて生きてます。過去は変えられませんし、あまり先のことばかり考えてもしかたありません。今とほんの少し先だけ見ていれば、僕は充分だと思いますよ」

「……でも」

「でも、何でしょう? 職場復帰はあなたや、僕たちだけの力でできるもんじゃありません。周りの力を借りましょうよ。素直に。職場復帰そのものが、あなたの目標じゃないはずです」


 そう。最終目標はAさんが、健やかに生活できることだ。職場復帰できたからって、また脳梗塞が再発したら意味がない。また倒れたら、待っていた生徒さんたちだって困るだろう? そう思って言葉を続ける。


「Aさん……。あなたの友人たちにアプローチしてもかまいませんか? 職場で支える仲間が必要だと思います」

「……取り乱してしまって、申し訳ない。そうですよね、周囲の人たちの力を借りないと……。人は一人じゃ生きていけないって、教え子にも離していたのに……。わかりました。明日の朝、何人か心あたりがありますので、お教えします。お願いします」


 やっとAさんは面をあげて、僕たちを見た。その瞳に少しだけだど、光がみえたように感じた。

 Aさんは軽く会釈すると、静かに居室へと戻っていった。彼が突く杖の音が居住棟に響いた。


 Aさんの姿が見えなくなってから、僕は思わずフゥっとため息をついた。汗ばんでいたみゆきの手がキュッとしまる。彼女は気持ち悪いくらいにニヤニヤしていた。


「なんだよ……みゆき」

「……ううん、なんでもない。ちょっとかっこつけやがって、って思っただけ」

「……悪かったな、かっこつけてさ。仮眠とるか、僕たちも」

「ええ」


 少し腰に力が入らなかった僕は、みゆきに引っ張られるように当直室に入った。


***


「……で、なんで白衣を脱いでるんだ? ナースコールされるかもしれないだろ?」

「べ、別にいいじゃない。あたいの下着姿なんて見慣れてるだろ? 白衣なんて羽織ればいいだけだしさ。浩も脱げばいいじゃない。汗臭くなるぞ」


 当直室の真ん中に一つだけ敷かれた布団。


 その布団を境にして、僕とみゆきは向かい合っていた。うちにいるときと同じように、みゆきは黒のレースの下着姿だ。で、彼女が要求してるのは、僕もTシャツとパンツだけになれってことだ。ま、制服のまま、寝るとしわになるし、臭くなってしまうのはわかるよ。わかるけどさ……。

 

「あのさ……みゆき。ここ職場だぞ? 勘違いされたらどうする?」

「……ま、あたいたちが離れられないのは、みんな知ってるからいいんじゃない? 管理職に見つからなきゃさ」

「で、僕も脱いで布団に入らなきゃ、寝ないつもりか?」

「もちろん! あたいは浩と一緒じゃなきゃ、眠れないんだけど?」

 

 明日、当直明けに爆睡されても困る……。

 確か明日から、新しいドクターが来るんだし、挨拶くらいはキリッとしてないとダメだろ? 僕は素早く頭の中で、明日の朝以降のことと、一緒に寝るリスクの計算をする。


「……はあぁ……。しかたない。そうするよ」

「ほら……」


 僕が制服を脱ぎはじめると、ちゃっかり彼女は布団に入っていた。しかも、僕のスペースを空けて待ちかまえている。おまえは新婚初夜の婿かよ……。思わずツッコミを入れそうになった。


***


 翌朝、目を覚ますと案の定、みゆきが僕を抱き枕代わりにしていた。僕の顔は彼女の胸の中だ。はあ……そろそろ起こすか。こんなところを他の職員に見られたら、ただじゃ済まないからな。


「あれ? 浩君じゃない? お久しぶりだね」


 みゆきを叩き起こそうと思った、その時、不意に頭上から女の人の声がした。

 おそるおそる声がした方をうかがう。


「おはよ。浩君。さよこのこと忘れちゃったかな? あれ? みゆきも一緒だね」


 その女の子はニコニコしながら、みゆきを僕から無理矢理引き剥がした。

 ……。なぜこの子がここに? 

 

 今、目の前にいるのは、僕の元カノだ。確か都内に就職したって聞いてたんだが……。


「……んっ! おい! 浩……なんで、さよっちがここにいるんだ?」

「あら? なぜみゆきにそんなこと言われるの? それに一つ布団で抱き合ってるなんて……。いつからそういう関係になったの。浩君……」


 不機嫌そうに白衣を羽織りながら、指をポキポキ鳴らしてるみゆき。それにみゆきをにらみつけているさよこ。

 僕は当直明けから、胃が痛くなってきた。

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