第16話 こうしてAさんを見送った
早朝の五時前、ふいに僕は目が覚めた。
また、みゆきに強く抱きしめられて苦しくなったからかと思った。うっすらと明るくなってきた中、僕は目をこらしてみた。珍しくみゆきの胸の中ではなかった。
よくみるとみゆきの唇が規則的に動いている。寝言だろうか?
いつもの僕なら、きっとそんなことはしなかっただろう。でも、僕は彼女の唇のそばに耳を持っていってしまったのだ。
彼女の寝言を聴くために。
「……ひ、ろし。や、だ…………おいていかないで……」
絞り出すような彼女の寝言。そして苦しそうに宙に腕を伸ばすみゆき。
…………。
何となくわかってたんだ。みゆきが今以上の関係を望んでいることを。でも仕事上のパートナーだと、僕自身に言い聞かせてた。もちろんみゆきにも……。
ハムッ!
突然、耳にプニプニとしたやわらかさと体温を感じた。ま、まさかとは思うけど……耳を口に……。
ピチャ……。
水音が耳元でしたと思ったら、みゆきの舌が僕の耳を舐めはじめていた。
気持ちいいけど、や、やめろ!
「ひゃあ〰〰〰〰! 起きろ! みゆき! 朝だぞ」
「……ん、おはよ……。なんか夢見てた……」
「朝から人の耳を舐めてるし。寝ぼけてるのも限度があるぞ」
「……ふ〜ん。もしかしてあたいが舐めたから感じちゃった?」
ニヤニヤしながら彼女は上目遣いで見つめてくる。ボリュームのある彼女のバストの先っぽがのぞいてる。
寝言のこともあって、僕は黙ってそっぽを向いた。
カーッと顔が紅潮しているのが、自分でもわかる。きっとみゆきにしたら、きっと恥ずかしがってるように見えただろう。
***
何とか彼女の精神攻撃に黙って耐え、いつも通り、僕らは車で職場に向かっている。
その道中、みゆきの方からAさんのことを切り出してきた。
「ところでさ、浩。Aさんの支援って、まだやることはないのかな?」
みゆきは医者だ。病状が安定すれば、特に介入はしない。それでも何か不安に思ってるんだろうな。
「どうした? もの足りないのか? ひょっとして」
「何だか棚からぼた餅式に、Aさんの職場復帰が決まったじゃないか。あまりに都合良すぎるというか、うまく行きすぎたんじゃないかって思ってさ」
「……う〜ん、僕もいろいろ思うところはあるよ。今回は僕らの調査不足さ」
正直言って、Aさんの件はたまたまうまくいっただけだ。
本当は、僕がやるべき家庭や職場の調査を怠ったのだ。それは人間関係を含んでいる。その点は今回の反省点だろうと思った。
まだ取り返せる……。
「とりあえず結果としては良かったんじゃない?」
「みゆき……。まだやることはあるぞ」
「へ? 本多先生いるから特にいいんじゃない?」
「だからだよ、みゆき。本多先生は公私共にAさんと一緒なんだぞ。彼女が疲弊したら、Aさんも共倒れだ。ちゃんとAさんの障がい特性や対応方法を伝える必要があるだろ」
「……なるほど。じゃ、本多先生と話をしないとね」
「そういうことさ。本多先生の連絡先知ってるよね? 忘れると悪いから、今、アポイントとるよ」
みゆきからメモをもらった僕は、さっそく本多先生に連絡をした。
するとすぐに返事をいただいた。さっそく夕方に来ていただけるそうだ。
すばやく反応してくださるのは、ほんとありがたい。
***
その日の夕方、本多先生が来られた。
もちろん、Aさんご本人も同席している。
「突然のことで申しわけありません。お呼びだてしちゃって……」
「ふぅ、とんでもないです。Aの事ですので……」
どうやらあわててこられたようだ。コートもまだ脱いでいないし、面談室に入られた時は少し呼吸が乱れていた。
僕は彼女が落ち着いてから、話を切り出した。
「本多先生、先日はありがとうございました。Aさん、いよいよ復帰ですね。何か不安などはないですか?」
こちらを見ていたAさんの視線が少し揺らいだ。
一番、心配しているのは、復帰できたからと頑張りすぎてしまうことだ。希望どおり戻れた嬉しさと、休んでいた分を取り戻そうとして、つい無理してしまいがちだ。
「……はい。正直言って不安はあります。ちゃんと授業ができるんだろうか、階段で転ばないだろうか、成績をつけたりするのにミスをしないだろうか、とか……。最近、寝る前や夜中にうなされることがあるんです……」
うつむきながら、Aさんはぽつりぽつりと話してくれた。
副校長とは勤務時間を少なめに……ということで話は通してある。もう少し、本人の自信がつくように短い時間から勤務できたほうがいいかもしれない。
ここはみゆきの意見を聞いてみるか……。
右隣に座っている彼女の手を握ると、みゆきも握り返してきた。横をチラリとみると、『まかせて』と言わんばかりにウインクをしてきた。
……じゃ、おまえに振ってみるよ。みゆき。
「遠野先生。Aさんの勤務について、最初は短い時間の勤務からはじめて行った方がいいと思うのですが、どうでしょう?」
「その方がいいでしょう。ずっと入院されていたのだし、体力もすぐには元通りにはならないと思います。神経内科医の立場からも、勤務時間を少しずつ増やしていったほうが、脳への負荷が少なくて済みますよ」
にっこりとAさんや本多先生に微笑むと、みゆきは再び僕の手を強めに握ってきた。……まあ、いいんじゃないかな。そう思って僕も握り返してやる。
「……あの、私としても、Aは頑張りすぎる癖があるので、少しずつ勤務時間を延ばしていくのがいいと思います。副校長にも私のほうからお願いしておきます。A、それでいいよね?」
本多先生の意見を聞きつつ、麻痺している右手をずっと握りしめていたAさん。
そんな彼に言い聞かせるかのように、本多先生はAさんの顔をのぞきこんだ。
本多先生の顔をちらりと見ると、Aさんは静かにこくりとうなずいた。
「わかりました。では、徐々に勤務時間を延ばしていくようにしましょう。副校長には僕のほうからも行っておきます」
「……あたいからも診断書つけておきますよ。もし、学校長が何か言ってくるのなら、診断書を盾にしていいですよ」
みゆきは診断書をヒラヒラさせながら、にやりと口角をあげた。
準備よすぎるだろう……。僕は自分のパートナーの手際のよさと、したたかさに舌を巻いた。
職場に向けた医師の診断書は、いざというときに証拠となる文書だ。か弱い立場にある障がい者を雇い主から守る武器の一つだ。
なぜなら雇い主には、働く人の安全を守らなくちゃならない「安全配慮義務」があるからだ。
もし、Aさんが短い時間しか働けないという理由で、クビになったり、不当な扱いを受けたりしたら……。逆に無理にご本人の体力の限界まで働かされたりすることもありうる。
そうならないよう、みゆきは診断書を出したのだ。
「Aさんにはこういう理由で配慮をしてください」、と念押ししているのだ。
万が一、Aさんが長時間働かせたり、不利な扱いを受けたら……。
そのとき、みゆきが書いた紙一枚が、雇用主の喉元に刃のように突きつけられるのだ。
「え? いいんですか? そんなことまでしていただいて……」
目を丸くして、本多先生が口に両手を当てている。
言われもしないのに、診断書を出すのはみゆきぐらいだ。
「そのくらいはさせてください。僕も遠野先生も、今回、本多先生に救われたんですから。Aさん……正直いって、僕たちはあまりお役に立てませんでした。本多先生をはじめ、よい上司や同僚に恵まれましたね。Aさん……。もし、不安になられたらAさんも、本多先生もご相談にいつでもいらしてください。お待ちしてますよ」
そう、Aさんと本多先生に感じてるままを伝える。
そして僕はAさんの手を握った。
麻痺している右手も暖かく、しっかり握り返したように感じた。
***
翌日、Aさんは丘の上の病院を退院・退所した。
僕らは彼に『こうしたらいいよ』と、提案しただけだったように思う。
本当にそれでよかったんだろうか……。
もっとAさんのことを知り、Aさんの気持ちに寄り添ったほうがよかったんだろうか……。
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