第17話 美人な患者さんの担当になるようだ
Aさんが退院された昼食時のこと。
いつもどおりに、患者さんたちの食事介助と見守りを兼ねて、食堂で食事をしようとしていた。
「本間先生も大変だねえ。いつもみゆき先生と一緒でさ」
「食事のときくらい別々でいいと思うんだけどねえ」
「お熱いねえ〜」
「いやいや。とんでもないです。Gさんのほうがいつも奧さん来られてるじゃないですか」
患者さんたちの配膳を手伝いながらも、僕らは患者さんたちに冷やかされていた。
こういう触れ合いも大切だと思っているので、僕も患者さんをからかってみたりする。患者さんとこうやって触れ合うことで、体調や精神状態がわかることも多いからだ。
だいたい配膳が終わった頃、荒井さよこが食堂に来た。今日、彼女は食事介助担当ではなかったはず……。
僕が首をかしげていると、そばに寄ってきて、手提げ袋を差し出した。
「はい、お弁当」
「さよこ……見ての通り、僕は今日、食事介助なんだけど……」
「大丈夫よ、確認済みだもの。これはデザートよ。遠野先生もどうぞ」
患者さんの手前、押し返すわけにはいかない。僕は渋々、さよこから手提げ袋を受け取った。その時、ちらりとさよこがみゆきを見た。一秒にも満たない程度だったが、ピクリとみゆきが眉を動かした。
一見、知らないふりをしているが、ちゃんと神経をこちらに向けている。空気がピリピリしてきた。
怖い……。
「おやおや、モテモテだね。本間先生」
「はあ……」
そんな妖しげな空気を読んでか、患者さんに苦笑されてしまった。
「いて! みゆき、足踏んでるって!」
「あら、ごめんあそばせ」
……問答無用で踏まれたよ。涼しい顔をしてすましているのが、なんともみゆきらしい……。
「あ、そうそう。浩君、次の担当決まったわよ。就労希望のB子さんよ」
別に食堂で話をしなくてもいいのにな。さよこの奴……。そんなに僕と話したいのか。一応、彼女の作ったものを受け取ったためか、ほんのり頬が紅潮している。
いつまでもさよこを相手にしてるわけにはいかないので、僕は適当にあしらうことにした。みゆきも怖い顔してるし……。
「わかった。ごちそうさま。荒井先生」
「じゃ、またね。浩君」
何だかルンルン気分で食堂を出て行くさよこ。さすがに食事介助中ということもあってか、おとなしく引き下がっていったようだ。安心、安心……。
隣のみゆきが、薄い肉にザクザクと箸を突き立てているのが恐ろしい。食後、何を僕は言われるのだろう。
***
食後、職員室でB子さんのケースについて、みゆきと打ち合わせをすることにした。職員室には事務の渡辺さんしかいない。
眉間にしわを寄せながら、みゆきが迫ってきた。こ、ここはクールに……。
「……浩、言いたいことある? わかってるよね?」
「さよこの事だろう?」
「わかってるじゃない。どうするの? 弁当やら何やら受け取っちゃてさ」
「……彼女の性格、わかってるだろ? アパートにまで押しかけられたくないだろ?」
「……」
そう、荒井さよこは攻めの女。
僕も押し切られるかたちで、いつの間にか付き合っていた。
でも、あの時、僕は引っぱたかれて終わったんだけどな。まだ何か企んでいるんじゃないだろうか。まあ、それは置いておこう。先にやることがある。
「ま、それはまた二人で相談しよう。それより時間がないぞ。B子さんの事を検討しよう」
「……そうだね。B子さんなんだけど、彼女は左麻痺なんだ。つまり右側の脳にダメージがある」
こういう切り替えが早いところが、みゆきのいいところだ。
割り切りがすばやいのだ。
「う〜ん。それは注意障害があるってことかな?」
「そのとおり! さすが浩。言語聴覚士の木下さんのレポートがここにあるけど、どうやら左側に
木下さんがまとめたレポートを見せながら、みゆきは僕の顔を覗きこんだ。悪戯っぽい笑いを浮かべて、僕がどうするか楽しんでるのだ。意地悪というより、こうして二人でやり合うのが楽しいと言わんばかりだ。
半側無視を確認するテストはいくつかある。
このうち紙面全体に散りばめられた平仮名から、指定された文字を拾うテストがあるのだが、そのテストでB子さんは左下側の文字を拾えていなかったのだ。
これに対して、間違い探しのテストはほぼ満点に近かった。
間違い探しテストのほうが、見てる範囲が狭いためできていると考えるのが自然だ。間違い探しテストにくらべ、四倍以上の広さが平仮名拾いテストにはあるからだ。
もし、B子さんが就労を目指すのなら、左半側空間無視をカバーしなくてはならないだろう……。
「おい、浩。次の時間、空いてるから一緒にB子さんの面談しようか?」
支援のしかたを考えていると、みゆきが現実に戻してくれた。
「ああ、いいよ。渡辺さん! 次の時間、面談室空いてますか?」
「え〜と、あ、大丈夫ですよ。どうぞ——」
事務の渡辺さんが手早く確認してくれた。
「ありがとうございます。じゃ、行こうか。みゆき」
「……うん、行こうか」
心なしかみゆきの声が弾んでいるように思えた。
***
B子さんは言語訓練室でリハビリ中だった。言語訓練が終わり次第、面談室に来てもらうことにした。
待っている間、僕たちはB子さんのカルテをみて、もう少し検討してみることにする。
B子さんは38歳の女性だ。くも膜下出血で倒れている。くも膜下出血は少しでも処置が遅ければ、死に直結する。脳出血のなかでも特に死亡率が高い。約三分の一が死亡してしまうのだ。
一命を取り留めたものの、彼女には左麻痺が残った。麻痺といっても上半身の麻痺だ。そのためB子さんは歩くことができるのだ。しかもほとんど自分で自分のことはできる。介助は不要なのだ。
「……浩、B子さん、美人だね」
「みゆき、何が言いたい? 患者さんを女性としてみたりしないぞ?」
「いや、逆だよ……。浩は自分で考えているほどモテないわけじゃない。B子さんからアプローチされたらどうする?」
「いやいや、それはないって。僕は顔が悪いし、みゆきよりも稼ぎがよくないぞ?」
「……イケメンなのに」
ボソボソとみゆきが言ったが、聞こえないふりをした。
僕がイケメンなわけがない。みゆきの目が曇ってるだけだ……。
そう言いたかったが、面談室の扉がノックされた。
「……B子です」
意志の強そうな顔立ちとクリアな瞳。しっかりとした唇。白く輝くような肌。濡れているような黒い髪。確かに美人だ。確か僕らよりも年上だし、障がいが原因で離婚されたと聞いている。
なるほど、みゆきが警戒するわけだ。
「どうぞ、そこにお座りください」
「ありがとうございます」
何だろう?
他の患者さんとは違って、存在感がないように感じられる。それに妙におとなしい。たいてい脳の右半球にダメージを負うと饒舌になったり、乱暴な性格になったりするんだけど。豹変するタイプなんだろうか?
試してみるか。
「B子さんは今後、どうされたいですか?」
「……働きたいです」
「以前と同じように働けないかも知れませんよ? それでもですか?」
「……右手、動かないからそうかもしれない」
う〜ん。どうしたものか。
働きたいという意志はあるけど、どうもはっきりしない。方向性が自分で探せないということかな? 言語障害はないって、レポートにもあるから意思表示ができないわけじゃない。
少し考えているとみゆきが助け船を出してくれた。
「B子さん、夜、眠れてますか? 気分が落ち込んでるように見えるけど……」
「……あまり眠れてないです」
ああ、そっか。B子さんは抑うつ状態なんだ。
僕はありがとうの意味を込めて、みゆきの手を握りしめた。ほんのり彼女の手が暖かくなった気がした。
「不安だからよね……。あたいと浩がサポートするから、一緒に今後のことを考えましょうね」
「……はい」
僕の代わりにみゆきが面談をしめると、B子さんは小さくお辞儀をして退室していった。
「ありがとう。みゆき……」
「な、いいよ。べ、別にさ。浩も困ってたようだし、B子さんも困ってたようにみえたから……」
少しみゆきの頬が赤くなったように思えた。
でも、意外だ……。どうりで研修医時代に患者さんに好かれたわけだ。ちゃんと気持ちを捉えているじゃないか……。
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