第18話 B子さんの秘密
「う〜む。B子さん、抑うつかあ……」
みゆきとスーパーに寄った帰り道、ふと、僕はつぶやいた。
「実際、どうなのかってわからないわよね? 他の人に聞いてみるしかないんじゃない?」
「まあ、そうだな。それより当面の問題が……みゆき、ほんとに今夜はおまえが作るの?」
「この遠野みゆき、一度言ったことは曲げないのっ! あたいがやると言ったらやるんだから」
「……研修医ん時、鍋に大穴開けたじゃないか。覚えてる?」
「ふ、ふん! あの時はあの時よ! 今度は大丈夫っ! まかせなさい!」
人一倍ある胸を張って、強がってみせるみゆきだった。
正直言ってどんなことよりも、みゆきの料理のほうが凶悪だ。
***
キッチンで格闘すること、およそ三時間。ようやく食器がちゃぶ台に並べられた。
食器の上には、なにやら食べ物らしいものが転がっていた。
「……みゆき。たしか手ごねハンバーグだったよね? 今日の夕飯……」
「ええ。手ごねハンバーグで間違いない」
僕の目に入ってきたものは、異常にまっ黒な物体だ。表面はガリガリに焼け、すすけている。ストレートに言うと、これは炭だ。ただの炭化物。
「……さすがにこれは……。ひき肉さんにごめんなさいしなきゃならないレベルだろ? これ……」
「ふん。食べれるわよ。ほらっ!」
黒色物体にフォークを刺すと、それを口に持っていくみゆき。気のせいか涙目だ。何も泣かなくっても……。
「わ、わかったよ……食べるからっ!」
「……ごめん」
涙目になっているみゆきの頭をなでながら、苦み成分強めの固形物をのどに流し込んでいった。
……さよこと料理で対抗しようなんて考えてたんだろ? まったく……。
***
B子さんのことを何でもいいから知りたいと思った。さっそく次の日の朝礼後、僕とみゆきは職員に聞いてまわることにした。
Aさんのときは情報収集が不十分だった。
その人の希望だけじゃなく、どういう人間関係なのかも知らないと、充分援助できない、というのが前回の反省点。
特にB子さんの場合、家庭環境が大切なように思う。就職できても生活できなきゃ意味がない。
最初は理学療法士の鈴木さんからだ。右腕や手のリハビリをしてるはず。それに彼ならば、リハビリしながら世間話をするのがうまいから、何か聞いているかも知れない。
「鈴木さん、リハビリに入る前で申し訳ない」
「ん? なんだい? ご両人とも……」
準備している鈴木さんに僕は声をかけた。
「すみません。朝から。B子さんのことなんですが、あんまりご希望とか話してくれなくって、どうしたらいいか困っているんです。今の家族との関係もわからないし……」
「まあ、B子さんはとっつきにくいよね。くも膜下出血を起こしてから、離婚されたようだね」
「離婚ですか……」
隣にいるみゆきが、ハッと息をのんだのがわかった。握っている手が汗ばんできていた。
別離や失職は人生でも大きなストレスだ。彼女はその痛みを同時に味わってしまったのだ。うつ状態になるのも無理はない。
「どうやら旦那さんから離婚を切り出されたようだよ。しかたないって本人も言ってた」
「……そうでしたか。B子さん、大変だったんですね。身体的にはどうですか?」
ずっしりと重たい雰囲気から逃れようと、みゆきが話題を変えた。
「そうだねえ、歩行は問題ないかな。ちょっと左足を引きずる感じはあるけどね。麻痺している左腕と手のほうは、机上にのせて押さえることはできるね」
「なるほど。ありがとうございます。実際に確認してみますね」
僕とみゆきは鈴木さんに礼をいうと、訓練室で準備中の木下さんのところへ足を運んだ。
訓練や診察前だからか、リノリウムの廊下がひっきりなしに鳴る。朝の緊張感とあわだたしさが、別世界のことに聞こえる。それだけB子さんの離婚話はキツいものがあった。
二人のなんとも言えない沈黙を最初に破ったのはみゆきだった。
「……浩、彼女があまり話さないのは、離婚が原因だよ。きっとさ」
「かもな……。他の可能性はないの? 単純に離婚だけが原因かもしれないじゃないか」
「ま、まあ。右半球にダメージ受けてるから……」
みゆきの頭の中から離婚の二文字が消えないようだ。B子さんと同年代の彼女からしたら、重大な問題と感じてるのかもしれない。
言語訓練室では、木下さんが訓練用の教材を準備していた。
「ご両人どうしたの? 恋愛相談かな?」
最初はニヤニヤしながら、僕たちを交互にみる彼女だった。
しかし、僕らはよほど浮かない顔をしていたのだろう。とりあえず座るようにうながすと、コーヒーを淹れてくれた。
「……どうやら仕事の話のようだね?」
「すみません。気をつかわせてしまって……」
僕はコーヒーを一口飲むと、木下さんに事情を話してみた。
「なるほど。離婚がB子さんの抑うつの原因だと考えてるわけか……」
「あたいはそう思う。仕事はなくすし、障がい負ったから別れるなんてさ……」
「僕は離婚だけじゃないと思ってるけどな。それに離婚の理由って、それだけかな? 鈴木さんからの情報だけじゃわからないよ? B子さん本人に聞いたわけじゃないんだし……」
僕らの話を聞いて、木下さんは腕組みをしながら聞いていた。
「ふうん。なるほど。二人の意見は違うんだね。で、他の原因を考えてるのかな?」
「えっと、言語聴覚士からみて、B子さんの今の状況をどう考えていますか?」
彼女は棚からファイルを取り出すと、それを机上にひろげてみせた。
「あの、これは?」
目の前に拡げられた書類を手に取るみゆき。
書類に目を通しながら、次第に眉根をひそめていく。木下さんはそんなみゆきの様子をみながら、コーヒーをすすっている。
うなりながら何やら思案しているみゆきに、僕は声をかけた。
「どうした? みゆき」
「……忘れてたんだよ。右半球にダメージがあった場合、うつになりやすいケースが多いって事をさ。症例や論文では知ってたけど、実際にあたいが担当するとは思わなかったからさ」
「現場と理論は違うのはありがちだろう? 気にすることはないよ」
慰めるつもりで、みゆきの肩を軽く叩いてやると、は〜あ、とため息がもれた。
僕たちの様子をさっきからうかがっていた木下さんは、
「リア充め! おおかた離婚ってキーワードに反応ちゃったんだろ? 気にすることはないさ。ま、内面を知るためには、ある程度本人と仲良くなるのも必要なんじゃないかな?」
と、アドバイスをしてくれた。
抑うつの人と仲良くねえ……。意外と難しいんだよ。こちらからアプローチしても、ダメなことだって多いしな。そのへんの疑問点を言語聴覚士にぶつけてみる。なんせB子さんとは訓練で毎日接してるもんな、木下さん。
「仲良くですか?」
「そうだよ。いきなり悩みを聞きますじゃ、上から目線じゃないかな?」
ああ。そっか。そういうことか……。だから最初の面談がうまく行かなかったんだ。
なんだかわかってきたかもしれない。
社会福祉士といっても、僕はまだひよっこだ。みゆきだって、ここが社会人初じゃないか。
「……なんとなくわかりました。ありがとうございます」
「ま、あんまり気負わないことさ」
軽く手を振る木下さんに礼を言うと、みゆきの顔をみる。
彼女も何かヒントを得たのか、軽くうなずいた。
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