第3話 こうして僕たちは丘の上の病院に来た

「……うん……」


 今、僕の目の前には黒のレースのブラとパンティだけのみゆきがいる。彼女の口元が目と鼻の先にあるのだ。同居しているので、何度か下着姿を見たことはあるが、こんな至近距離で見るのは初めてだ。彼女から漂ってくる甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


 まったく……あのさ、おまえのベットはこっちじゃないんだが……。彼女を起こさないようにそっとベットから抜け出す。 


「……んっ、もう朝? 浩……」

「ああ……そうだよ。って、なんでおまえ、僕のベットで寝てるんだ?」

「………ちっ!」

「なんでそこで舌打ちするんだ? ほら、時間だぞ。初日から遅刻したいのか?」

「……しかたない。起きるよ……朝飯の支度よろしく」


 みゆきは、気だるそうにベットから起き上がると、顔を洗いに洗面所へ向かった。


***


 あれから二年が経ち、僕たちはそれぞれ社会福祉士と医師の資格をとった。


 『二人で一緒の職場じゃなきゃ絶対に絶対にダメだ!』というみゆきの脅迫に負けて、僕たちはそろって同じ病院に就職したのだ。


 その病院は、『医療法人リンクルの会 リンクル記念やすらぎが丘の森病院・やすらぎが丘森障がい者センター』という、とても長い名称のところだ。


 丘の上にある病院だから、地元の人たちもみんな『丘の上の病院』と呼んでいた。

 

 僕たちのアパートから職場はそれなりに距離がある。僕は車の運転ができないから、みゆきに運転をお願いしてるんだが……。


「……ところで、みゆき。なんでさっきから手を握ってるんだ?」

「ね、眠くなるからよ……。病院まで1時間もかかるのよ? その間、あたいが寝ちゃったらまずいでしょ?」

「そ、そりゃ困るけど……。恋人じゃあるまいし……」

「何よ! 浩が車運転できないから、こうしてるのにさっ!」


 何も真っ赤な顔して怒ることないだろ? はあ……わかったよ。

 僕はしかたがないので、握ったままの手を握り返す。すると、みゆきは逃しはしまいと、ギュッと握り返してきた。


***


 僕たちの勤務するその病院は緩やかな丘の上にあった。

 その丘には大きな松の木が立っている。周りには何もなく、もう少し先に行くと海が見える。


 二階建ての新しい建物で、全体がベージュ色に塗装されていた。一階が病室と訓練室や診察室、二階が事務室になっている。


 ここは病院と福祉施設が併設されているのが特徴だ。退院後、すぐ社会復帰のために、職業訓練や自宅などで生活できるような訓練ができるのだ。


 ここを選んだのは医療と福祉を直結できると言うことと、みゆきと一緒に仕事できるからだ。まあ、それが彼女の絶対的条件だったんだけど……。


「……遅くなりました」


 僕たちは病院長室の扉をノックした。

 すると扉の向こうからくぐもった声がした。


「入りたまえ」


 扉を開けると大きな壺や絵画が真っ赤なカーペットが目に飛び込んできた。とても病院の一室とは思えない。チラリと隣のみゆきをみると、あからさまに口元を歪めていた。

 気のせいか、ちっ、と舌打ちしたような……。そんな露骨に嫌な顔したらまずいだろ……。

                             

「座りたまえ……。私がここの病院長の中田だ」

「……ありがとうございます。僕が本間です」

「……遠野です」


 軽く挨拶をしたあと、僕らはソファーに腰を沈めた。


「……ところで、なぜ君たちはさっきから手を繋いでるんだね? 不謹慎だろ!」


 やっぱり言われたか……。一応、院長だし話しておこう……。


「申し訳ございません。院長。これには二つ理由がありまして……」

「あ? 理由だと? ただイチャイチャしたいだけなんじゃないかね?」


 鼻息を荒くして腕組みをしながら、僕らをにらみつける。


「まず私は視野狭窄があります。従って移動するのに彼女のサポートが必要なこと。二つ目は彼女の睡眠障害のためです」

「……ふん。目が見えないのか。使えないな……」


 小馬鹿にしたような口調に、さすがの僕もムッとした。しかし、相手は権力者だ。就職したばかりだし、ここは我慢だ。続けてみゆきの話題をする。


「不思議なことに彼女は私がそばにいるか、こうやって手を握っていると、どんな状況でも眠りません。少し試してみますか?」

「浩、こら……勝手に……」


 怪訝な顔をしている病院長の目の前で、僕は文句を言うみゆきの手を離した。

 途端に彼女の身体はソファーに沈んだ。今朝、眠そうだったから今回は即だったな……。


「……演技じゃないのか?」 


 疑わしそうに中田院長は立ち上がって、僕らのそばに来た。

 そしてみゆきの肩をトントンと叩く。


 ……まあ、そんなんじゃ起きないよ。僕は再び彼女の手を握ってやる。


「……ん? ったく、だから……勝手に手を離すなって言ったのに……」


 寝ぼけつつも、しっかり文句を言って身体を起こすみゆき。

 院長先生は呆れたような表情で僕らを見ていた。


「私は睡眠障がいを持ってます。彼と一緒じゃなきゃ、生活にも支障があります。大学の西村先生にはナルコレプシーか、特発性睡眠障害だろうと言われました。ちゃんと先生の診断書も持ってます! お見せしますか?」


 完全に覚醒したみゆきは立ち上がって、院長にまくしたてた。


 指導教官だった西村先生は全国指折りの脳外科の権威だ。この院長がかなうわけがない。


「わ、わかったから……。落ち着きなさい……遠野先生。……ちっ、この障がい持ちが……」

「はあ? 聞こえたわよ! ここ、障がいを持ってる人たちのためのところなんじゃないの?」


 口を滑らせてしまった院長の言葉に彼女が噛みついた。


「……ま、まあ、落ち着いて……。当直はどうするんだね? 当直は」

「ああ、それなら研修医時代も、僕たちは一緒に泊まってたので問題ないですよ」

「は? 男女二人でだと? 問題はないのかね?」


 だんだんこの融通の利かない病院長に、僕もイライラしてきた。


 ちょっと障がいがあるからって、なぜこんなこと言われるんだ? 変だろ? みゆきの言うとおりだよ……。


「問題? 何がです? そもそも僕たちは二人で同居してますし、今回ここに内定をいただいたのは、大学病院の西村先生のご推薦があったからですよね? つまり僕たちは西村先生のお墨付きだってことです」


 そう。西村先生が推してくれたんだ。あんまり好きじゃないが、僕は西村先生の威光を借りた。


「……確かに西村先生から素晴らしい人がいるからって、君たち二人を推薦されたよ……。わかった、わかった。では、ボランティア精神で頑張りたまえ!」


 なんだ? ボランティア精神って? 仕事だろ? 


 僕たちは何だか釈然としない気持ちを抱えたまま、一階の職員室へ案内された。


***


「はじめまして。僕は本間浩です。今日から社会福祉士として、こちらで働かせていただくことになりました」

「あたいは遠野みゆきです。神経内科医。同じく今日からここで働くことになったのでよろしく」


 やはり知らない職場で挨拶をするのはとても緊張する。握ってるみゆきの手が汗ばんできているのがわかる。さすがに緊張はしてるらしいな。


 ここの現場には僕らを含めて九名の職員が常駐する。


このうち理学療法士、言語聴覚士、作業療法士が一名ずつ、看護師と職業訓練を担当する職員が三名、現場側の事務の担当が一名という構成だ。最大入所者数も二十名ほどの小規模なところだ。


 ここは病院といっても、急性期を終えて、社会復帰をしようとする人たちが入っているところだ。彼らは一人一人状況が違う。ある人は麻痺のため手が動かないし、ある人は喋ることができない。また上手く歩けない人だっている。場合によっては、職場に復帰したい人だっているだろう。


 その一人一人に応じたきめ細かいケアを行っていくため、この職員配置なのだそうだ。


 それぞれ自己紹介が終わると、看護部長の今村さんがニヤニヤしながら聞いてきた。


「えっと、本間君。なんで遠野さんと手を繋いでるの? 恋人?」

「あ、いや……それはみゆきは手を離してしまうと、即寝てしまうんで……」

「……ちょっとちょっと、みゆきだって……やっぱり夫婦か恋人なんじゃない?」


 看護師さん同士が小声で耳打ちしているのが聞こえた。


「がはは! 気にしないでいいよ。ただ仲がいいなって思ったから。恋人大いに結構! さっそく明日から患者さんの面談をしてくれると助かる」


 豪快だな……。この人、悪い人ではなさそうだ。何か僕らのことを誤解してるようだけど……。


「面談ですか?」


 みゆきが眉をひそめて尋ねた。医者だもんな……。彼女が不安になるのは当然か。診察はするけれど、僕が知ってる限り面談をしたことはないはずだ……。


「ああ。だってここの患者さん一人一人の希望や現状を知らないだろ? カルテや記録じゃなく、ご本人に直接聞くのが一番さ! じゃ、よろしく! お二人さん。当直時にエッチなことしないでくれな」


 今村さんは豪快に笑いながら、足早に患者さんのところへといった。


 みゆきと僕はお互いに顔を見合わせて苦笑した。

 なんとか上手くやっていきそうだ。

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