第41話 院長の暴走、はじまる
不意に目が覚めた。
どうも胸元が苦しい。
視線を移すと、さらさらとした黒髪を散らしたB子さんの寝顔があった。
安心しきった笑みを浮かべていた。
どこか美しく、神々しさがあった。思わず彼女の髪を指ですく。
「うん……」
B子さんが身じろぎした
一瞬、起きてしまったのかと思った。
こんなところをみゆきに見られたら、しばらく口を聞いてくれないな……。
まだ五時前か。
僕は再び睡魔にのみ込まれていった。
***
「……浩! ひ・ろ・し! 起きろ!」
「ん……? まだ早いよ……」
「何寝ぼけてやがる! 時間だぞ! 誰がB子を抱きしめていいって言った!」
「まったく……これだから監視してないと危ないのよ」
みゆきの怒鳴り声と、さよこの嘆き声が聞こえてくる。
ぼやけた視界がハッキリしてくると、B子さんの顔が迫ってきていた。
「わっ!」
驚いて跳ね起きようとしたら、うかつにも目の前のB子さんに口づけしそうになってしまった。
そのためか、それとも騒がしいみゆきたちのせいか、B子さんが目を覚ました。
「あ、おはようございます。浩さん……」
と、上目遣いで僕を見つめるB子さん。
みゆきたちとは違って、妙な色気があるからヤバい。僕だって男だからな。
「ところでさ、浩……」
「なんだよ、みゆき?」
「その手は何? いつまでも抱きしめてるんじゃないわよ!」
パカ――――ン、とみゆきに頭を叩かれた。
「いたた……」
「だ、大丈夫ですか?」
あわわ、と驚くB子さん。
「いつものことだから心配しないでよ」
「浩さん、いつも叩かれてるんですか? 容赦ないんですね。みゆきさんって」
苦笑しながら頭をさする僕と、仁王立ちするみゆきを交互に見るB子さん。さすがに呆れた顔をしている。
「この二人……漫才夫婦ね。ほんと」
起きるなり、さよこがひどいことを言う。誰が漫才夫婦だ?
しかし、こんな時でもぶれないのがみゆきだ。
「ほら! 時間よ、朝ご飯は?」
自分のお腹の減り具合が最優先事項か……。やれやれだ。
「わかったよ、みゆき。昨日の残りでいいだろ?」
「あ、今朝の分はあたしが作りますよ。お礼です」
そう言って、B子さんはすぐに支度をはじめた。
「あらあら。わたしの出番がなくなったわね」
「さよこさんもくつろいでいてください~」
「ありがとう。B子さん」
「いえいえ。お世話になってますし」
女医お二人さんはというと、おのおの朝の支度をはじめた。二人とも彼女が元患者さんだってこと、忘れてないだろうか? てきと~すぎるだろ?
いそいそと食事を作るB子さん。これに対し、のんきにしてる二人を見比べ、僕はため息をついた。
***
今朝もB子さんを彼女の職場まで送り、みゆきたちと三人で職員室に入った。
その途端、罵声が鼓膜を叩いた。
「何やってんだ! 後藤! 患者さんはできるだけ退院させるな、と言っただろう?退院のことを勝手に患者さんに話をするな!」
「す、すみません、病院長。ご本人とこれまで接してきて、そう思いました。それにご両親から早く退院させたいというご希望がありましたので……」
「ご両親の希望なんて聞いていたら、医療にならないだろう? そんなのはまだ治療に時間がかかるからって言っておけばいいだろう」
「そんな……ご本人の気持ちは……」
「患者の気持ちなんてどうでもいいだろ!」
看護師の後藤さんが院長から怒られていた。
彼女は部屋の隅に追いやられ、すっかりおびえきっている。院長は目が血走ってこぶしを震わせていた。
後藤さんは丁寧な仕事をする看護師で、患者さんには評判がいい。戸川さんと交代で、職業訓練をすることも多く、いろいろな業務もこなせるかただ。
看護師長とほぼ同年代だから、この職場ではベテランになる。
そんなベテランのかたが、なぜこんなに怒られているんだ?
だいたい、みんなのいる職員室で叱責するべきじゃない……。
中田院長が電話すると、すぐに総務部長が職員室に入ってきた。
手には紙が一枚、握られている。
つかつかと部屋の片隅で震えている後藤さんのところへ向かうと、
「ほら、後藤さん。退職届だ。今すぐ書きなさい」
と、紙を手渡した。
「どういうことです? 退職届を書けだなんて……」
後藤さんをかばうように、看護師の戸川さんが総務部長に立ちはだかった。眉を吊り上げ、下唇を強く噛んでいる戸川さんの様子が、鈴木さんの肩越しにみえた。
退職届を強制的に書かせるなんて……。そもそも違法だろう?
戸川さんの怒りはもっともだ。
後藤さんが患者さんの意思とご家族の意思を尊重して、退院のことを話すのは何もおかしくはない。
患者さんが病院で一番望むもの――――。
それが退院だ。うちに帰ることを望まない人なんていない。
つらい治療やリハビリで頑張ることができるのは、うちに帰れるから。
たとえ、以前と同じ生活が送れなくても、だ。
病院長の言うとおり、退院のことを話すのが悪いなら、患者さんの希望の灯を奪うことになる。
それにこの病院で診断し、指示を出しているのは、みゆきとさよこだ。専門外で診察もしてない病院長が、どうこう言う立場にはない。
「あの、院長……」
と、僕が呼びかけた時、
「クビだ。二人とも。私の言うことが聞けない職員はいらない。以前、職員朝会で話をしたはずだ。そのことを忘れたのか? ん? 後藤も戸川も今日中に退職届を提出しろ。以上だ」
そう、一方的に吐き捨てるように二人に言い放ったのだ。
院長たちが職員室から出ていくと、呆然とみんな立ち尽くしていた。
泣くことも怒ることさえできずにいる後藤さんと戸川さん。
僕たちもどう声をかけてあげればいいのか……。
そこにいた職員全員、どうしていいかわからず、ただ立ち尽くしていた。
***
その日の午前はCさんとの面談があった。
気が重い。
とてもじゃないが、患者さんの悩みを聴くような状態じゃない。とりあえず診察室にみゆきを呼びにいくと、彼女も死んだ魚のような目をしていた。
隣で書類を書いていたさよこも、気もそぞろのようだ。
ちょうど冷蔵庫の底に放置して忘れていたサンマのような感じだった。
全身の血色が悪そうで、声をかけにくい。
「……何か用? 浩」
機嫌もとても悪そうだ。
何となくうちに帰って、どんな荒れ方をするか想像できてしまう。
「これからCさんの面談があるんだけど……大丈夫かな? みゆき」
「え、ええ。大丈夫。行きましょ」
ちょっとたじろいだように感じたが、すぐにいつものように僕の手をとった。
少しきつめに僕の手を握りしめると、一緒に診察室を出た。
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