第七章 悟と涼
第38話 自由帳
あの頃――。
中学二年生の僕は自分がいかに無知で愚かであるかということに気づいていなかった。自分の不用意な言葉がどれほど人を傷つけるか、ちっともわかっていなかった。
あの頃の僕は無知で愚かで矮小な虫けらのような存在だった。それは言い訳のしようもないし、するつもりもない。だけどそんな風に言えるのは、今だからだ。当時の僕はそんなこと考えもしなかった。
自分の好きな本、物語だけを追いかけて、毎日、毎日が楽しく充実していて、ただそれだけで満足だった。
中学二年の夏休み。
僕は全国中学ビブリオバトルコンテスト、決勝の舞台に立っていた。
全国各地で開催された地区予選をくぐり抜け、決勝の舞台に残ったのは三名。そのうちの一人が僕、高野悟だった。
僕は緊張していた。
冗談抜きにゲロを吐きそうな程に緊張していた。
無理もない。これから五百人以上の観衆を前に、ビブリオバトルを行うのだ。中学生の僕にとって、それは想像の範疇を超えたとんでもないことだった。
合唱コンクールだって、同学年の生徒と先生、その保護者がちらほらといった感じで、せいぜいが百五十人程度。それ以上多くの人の前に立って何かをしたという経験は無かった。
そもそも僕は取り立てて何か特技がある人間ではない。特別足が速いわけでもなく、かといって学業が優秀というわけでもなく、何か突出した才能があるわけでもない。毎日面倒くさいと思いつつ学校へ行って授業を受け、部活に顔を出し――野球部の球拾いばかりだったけど――家に帰ってゲームしたりテレビのバラエティ番組を見つつ、思い出したように宿題に取りかかる……そんなごく普通の中学生なのだ。人前で発表したりする機会なんてほとんどない。一番近いので小学校の学芸会くらいである。その学芸会だって僕の役はナレーターCで、舞台袖で台詞を言うだけの目立たない役柄だった。
そんなごく普通の中学生にとって、五百人の観衆というのはまるで恐ろしい怪物のようで僕の精神を暴力的なまでに緊張させた。まだ始まる一時間も前だというのに足は頼りなく震えだし、トイレの鏡に映し出される自分の顔は緊張のせいか、別人のように歪んでいた。
気持ちを入れ替えるはずがかえって余計に緊張することになってしまって、溜め息をつきながらトイレを出る。なんで、こんなことになったんだっけ……。ビブリオバトル大会の予選に出ることになった時のことを思い起こす。事の始まりは、涼の何気ない一言だった。
涼は僕の幼馴染みで、幼稚園からずっとクラスも一緒という、恐ろしいまでの腐れ縁の女の子だ。小さい頃から本が好きだった涼は、僕に色々な面白い本を紹介してくれた。彼女に影響されて僕も本を読むようになったし、ビブリオバトルのことだって、涼に教えてもらったんだ。
「ねぇ悟。ビブリオバトルって知ってる?」
下校途中、何の気なしに涼がつぶやいた。
「ビブリオバトル? 何それ? 今度出る新しいゲーム?」
「知らないの~!? ビブリオバトルっていうのは、自分の好きな本を紹介しあって、みんなが一番面白いっていう本を決めるバトルなのよ」
好きな本を紹介し合うって……それって面白いのか? ただのおしゃべりじゃないか? ビブリオバトルのことなんてこれっぽちも知らなかった僕はそんな風に思っていた。
「ふ~ん……変なゲーム…………」
「変って何よ! ビブリオバトルは読書家の本に対する愛を懸けた戦いなのよ!」
「はいはい、わかったよ。それで、そのビブリオなんちゃらがどうかしたの?」
「ビブリオバトル! 今度の土曜日に図書館でビブリオバトルをやるっていうからさ、悟も出てみない?」
「えー……いいよ、僕は。涼が一人で出ればいいだろ」
「いやその……一人じゃちょっと恥ずかしいし……」
そう言うと涼は、恥ずかしさを隠すようにそっぽを向く。幼稚園来の腐れ縁なのに、今更何を恥じらうことがあろうか。だけど、だからこそ僕は涼が引っ込み思案であまり目立ちたがり出ない性格をよく理解していた。
「じゃあ僕じゃなくて、友達誘えよ」
「だから誘ってるんじゃない。悟だって一・応友達? だし。あんたも読書好きでしょ」
「まぁ……どっかの誰かのせいだけどな」
きっかけは涼が持ってきた一冊の自由帳だった。
文学少年や文学少女なんて想像の産物であり、ドラマや映画にしか登場しない人種なのだ……と、小学生の僕は思っていた。ページに絵が一切無く字だけの本の何が面白いんだろう……って。国語の教科書に載っている物語は授業だから読んだけど退屈だった。漫画はまだしも本を読むのは好きではなかった。読書感想文の宿題だっていつも後回しにしていた。
そんな僕とは反対に涼は小学校に入ってからどんどん本を読むようになっていった。
クラスの掲示板に張り出される、『図書室で本を借りた数ランキング』ではいつも一位を独占していたし、休み時間も机で本を読んでいることが多かった。
20分休みの時も、天気が晴れているのに自由帳に真剣な顔つきで何かを書いていた。当の僕はせっかくの休み時間に勉強するのは嫌なので、友達と外遊びをしていた。
幼稚園の頃はいつも二人で一緒に遊んでいたけど、小学校に上がって涼が一人で本を読むようになってからはあんまり遊ばなくなった。
別に仲が悪かったわけじゃないけど、魚の骨が喉にずっと引っかかっているような気持ちだった。
そんなある日の帰り道、涼が僕の後ろから走ってきて、息も絶え絶えにランドセルに手をかけると、おずおずと口を開く。
「あの、さっちゃん……ちょっと、おねがいがあるんだけど…………聞いてくれる?」
小さい頃はそうだった人も多いと思うけど、この頃、僕と涼はお互いをちゃん付けで呼んでいた。
「なに、おねがいって?」
すると涼は辺りをきょろきょろ見回して、周囲に誰も知り合いがいないことを確認してから、こそこそとランドセルから自由帳を出した。
「これを読んでみてほしいの。読んだら、かんそう聞かせてね。まってるから」
「えっ!? 読んでってちょ……何を!? あ、まってよ! ねぇ、りょうちゃんってば!」
自由帳を手渡し、逃げるように駆けていく彼女の背中を追いかける。
「それ開けばわかるから! あ……あと、このことぜ~っったいひみつね! 誰にも言っちゃダメだからねっ!」
それだけ言って、彼女はそのまま走って帰っていった。普段なら余裕で追いつけるはずなのに、なぜかその日の涼の足はめちゃくちゃ早くて、とてもじゃないが追いつけなかった。
読めば分かると言われても……なんだか宿題を押しつけられたような気分だった。
そんなクサクサした気持ちで家に帰り、部屋の座布団に片肘つきながら、涼が渡してきた自由帳を開いてみた。
自由帳には彼女の字で、つらつらと文章が書いてあった。
ページをざぁっと捲ると、最初のページから最後のページまで文字が縦書きでずらっと並んでいて、これを全部読まなきゃいけないと思うとげんなりした。涼の頼みを無下につっぱねると、いっそ清々しいくらいにへそを曲げて面倒になる。
それがわかっていたから、溜め息をつきながら一ページ目の文章を読み始めることにした。
文章が次の行に移るたび、ページを捲るたびに、読むスピードが速くなっていく。
気づけば、僕は夢中で自由帳の文字を追っていた。
それは魔王に連れ去られた姫を助けるために勇者が旅に出るという、今にして思えば展開もオチも普通の冒険ファンタジー小説だ。だけど小学生の僕には、まるで普段慣れ親しんでいるゲームの世界に入り込んだような面白さを感じる物語だった。
母さんが晩ご飯と呼ぶ声ではっとした時は、自由帳も残すところ数ページだった。
僕はこの時、生まれて初めて小説を面白いと思った。
翌日、学校に行く途中に早速涼に自由帳の物語の感想を伝えた。
「すっ……げぇ~おもしろかったよ、これ! 続きとかあったら読みたい!」
僕の言葉を聞くと、緊張の糸が緩んだのか、目尻にうっすら涙を浮かべながら涼は微笑む。
「良かったぁ……。つまんなすぎて読んでくれないかもとか思ってたから、すごく嬉しい。ありがとうさっちゃん」
「ありがとうを言うのはこっちだよ。よくあんなおもしろい話思いつくよなぁ……。りょうちゃんって実はてんさいなのかも……」
「てんさいって……おおげさだよ。まぁこれでも、さっちゃんが好きなゲームやマンガをまねして、おもしろく読んでもらえるようがんばったんだよ?」
胸を張ってちょっと偉そうにつぶやく彼女の姿がなんだかいつもより可愛く見えて、僕は照れを隠すように顔を背けた。
「もしさ、また新しいおはなし書いたら、さっちゃん、また読んでくれる?」
おずおずと尋ねる涼。メガネの奥に揺れる瞳からは不安の色が感じられた。
「うん。むしろ読ませてよ。僕もりょうちゃんの作ったおはなし楽しみだし!」
その瞬間、涼の瞳はぱぁっと明るく輝いて、まるでクリスマスプレゼントをもらった子供みたいだった。
「ようし……次はどんなおはなしにしよっかなぁ~!」
そんなことがあってから、僕は涼が書いてきた小説を読むようになった。
彼女が書いたものだけじゃなく、オススメの本を教えてもらって図書館で借りたりもするようになった。
あんなに読書嫌いだった僕は、小学校を卒業する頃には、クラスの掲示板の『図書室で借りた冊数ランキング』で二位になるほど、本を読むのが好きになっていた。
涼があの日、自由帳を見せてくれなかったら、僕は今も読書嫌いのままだったかも知れない。
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