第34話 雨降って地固まる
雨宮先輩が去り、残された僕たちは皆沈黙したまま視線はどこか遠い場所を見ているようだった。
廃部――。雨宮先輩はそう言い捨てて出て行った。
でも鶴松先輩はあの時言っていた。部員不足は解消されたし、文芸部が廃部になるって話も流れたんじゃなかったのか!?
ある程度の事情を知っている僕や鶴松先輩はまだいい。
他の三人は文芸部が廃部の危機にあることを初めて聞かされ、理解の追いつかない情報が押し寄せて思考がストップしてしまっているようだった。鳴瀬さんだけは、黙って天井を見つめ、何か物思いにふけっているようだけど……久方も入ったばかりの部活がまさか廃部になるなんて思わなくて、部室の雰囲気があまりにも重いのもあって何も言い出せずにいるようだった。
特に一番ひどいのは白石先輩だった。先輩は茫然自失と言った様子で、雨宮先輩が出て行った部室の扉を見つめたまま立ち尽くしていた。いつも明るい天真爛漫な白石先輩が、今はまるで亡霊のように生気をなくした瞳で虚空を見つめている。普段の白石先輩の様子を知っているだけに、今の白石先輩の姿があまりに痛々しくて見てられなかった。だけど、僕自身も部室内の雰囲気に飲まれてしまって、一言も発することが出来ずにいた。
誰も何も言わない――そうしてどれだけの時間がたっただろうか……。実際には十分そこらの時間だったはずなのに、その時間が僕には永遠にも思えるほどに長く感じた。
そうして長いのか短いのかよくわからない時間が過ぎて、ようやく一人が口を開いた。
初めに口を開いたのは白石先輩だった。先輩はいつもと違う、この人からこんな声が出るのかという程、低く抑揚の無い声でぽつりと言う。
「廃、部……? はは……何それ、冗談でしょ?」
途端、先輩は机に握りこぶしを打ち付ける。拳が硬い机に当たって、ごとんと鈍い音が静かな部室に響いた。先輩の白いきれいな手が衝撃でじわりと赤くなっていた。
「鶴松くん。あなた何か事情を知ってるんでしょ?」
白石先輩が鶴松先輩のことをくん付けで呼ぶのを初めて見た。
「白石、その……だな…………」
白石先輩のただならぬ怒気を感じて、鶴松先輩は思わず言葉を濁す。
「知ってることは全部洗いざらい吐きなさい。これは部長命令よ。鶴松くん、わかってるわね?」
白石先輩の凄味ある口ぶりに、鶴松先輩だけじゃなく、僕も久方も圧倒されていた。ごくりと唾を飲み込んでから、ようやく鶴松先輩はおずおずと語り始めた。
「…………その、黙ってて悪かったとは思ってる。白石も久方も鳴瀬もいきなり廃部なんて言われてパニクってるだろ」
いつにも増して興奮気味の白石先輩は怒りでつり上がった眉のまま、両手を机に強く叩きつけた。机の足がぶるぶると震えて、僕も今の白石先輩がなんだか恐ろしく感じた。そして、叩かれた机が哀れだった。
「ええ、そうよ! わけがわからないわ! 雨宮くんってば何様のつもりよ! 急に廃部は決定しているとかなんとか言われたって納得できるわけないじゃない!」
捲し立てるように言って、白石先輩は机を叩いて赤くなった自分の手を睨み付ける。困惑を通り越して、相当頭にきているらしい。見かねて僕が一言口添えする。
「白石先輩、少し落ち着きましょうよ」
「これが落ちついていられるわけないでしょ! それとも、高野くんは何か知っているの?」
「え……その、僕は…………」
人差し指で額を抱えながら鶴松先輩がつぶやく。
「高野もおおよそは知っているが、黙っているように俺が頼んだんだ。だから一旦落ち着け、白石。俺の口からちゃんと話すから」
鶴松先輩のその言葉で白石先輩も少しは落ち着きを取り戻したようで、すとんと椅子に着席する。僕も久方も鳴瀬さんも、皆が鶴松先輩の説明を待っていた。深呼吸を一つしてから、皆の顔を眺め回すと鶴松先輩がおもむろに話し出す。
「――生徒会から文芸部を廃部にするっていう打診があったのは事実だ。聞かされたのは二月ころだった。本来は部長の白石に説明されるような内容だが、俺は生徒会とも因縁があるし、一応、役職は副部長だからな。このままだと文芸部を廃部にせざるを得ない……そんなような内容を雨宮が直接、俺に伝えてきた。期限は生徒総会が開催される五月末まで。それまでに部をなんとかできなければ廃部だと」
鶴松先輩に廃部の予定が伝えられたのは僕たちが入学してすぐのことだったのか。
「なんでアンタはそういう大事なことを私に伝えないわけ!?」
「お前がそうやって興奮して暴走するだろうことが目に見えたからだ! いいから黙って話を聞け!」
フーッと息を吐く。興奮しているのは鶴松先輩も同じだった。
「生徒会の言い分としては……文芸部は部としての要件を満たしていない。だから廃部せざるを得ないということだ」
「だからそれがおかしいって言ってるの! 文芸部って私たちが入学したときからあったでしょ? 今年新しく作った部活でも無いのに! 顧問の先生だって部室に顔を出さないだけで、ちゃんといるのよ。現代文の石田先生、一年生は授業あったかなー?」
「あー催眠術の石田先生っすか」
催眠術士は石田先生の隠れた通り名である。淡々とした授業と、本人の人の眠気を増幅させる声質も相まって、毎回多くの生徒がこっくりこっくり船を漕いでいる様子からそう名付けられた。ちなみに、久方は石田先生の授業中はサボっていても怒られることがほとんど無いので、現代文の授業が好きなのだ。
「そう、その石田先生よ。今年で定年だし、問題起こさなければ、勝手にやっていいって言われてるの」
そういえば顧問の先生って今まで見たことなかったもんな……。あの石田先生が顧問と言われると妙に納得だけど。石田先生も廃部のこと知っているんだろうか……。
「顧問は別に問題じゃない。まず言われたのは部員数だな。知っての通り、ウチの高校では部員が五人以上いないと部活動として認められない。だから俺は部員を集めるのに必死だったんだ」
鶴松先輩には無茶なこと言われたしな……。
『今日中に部員連れてこなかったら秘密バラすぞ!』とか脅されて。文芸部に入ったのだってつい最近なのに、なんか随分前のことに感じるなぁ。
「でも、部員数だって、高野くん達が入ってくれたでしょ? 大体、その辺の規則ゆるゆるだったじゃない! 私が文芸部入ったときはアンタもいないし、二年生の先輩が一人だけだったもん」
「白石。お前も知っての通り、去年の秋に生徒会が代替わりしてから、校則が色々と厳しくなっただろ?」
「それは……そうだけど」
僕は入学してからのことしか知らないけど、先輩達が言うには青葉高校は以前はもっと自由な校風だったらしい。髪を染めている人も普通にいたらしいし。今はそんな人見かけないから信じられない。
「考えても見ろ。副会長があのクソマジメな雨宮だぞ? あいつは小さい不正でも嫌うからな」
「そうだね……雨宮くん、病的なまでにきっちりしてるもんね」
「会長が留学してる今、事実上生徒会のトップはヤツだからな……」
生徒会長って留学してたの!?
……考えてもみれば新入生へ向けたオリエンテーションって普通は会長が挨拶するもんな。会長が不在だから副会長の雨宮先輩が挨拶してたのか。
「部員数のことなら問題ないでしょ?」
「部員数だけじゃない。文芸部の活動内容は部活動としてふさわしくないらしい」
「生徒会は文芸部の何が問題だって言うの? 祭り部の方がよっぽどテキトーでしょ? あの人たち、盆踊りしてるだけじゃない! 文芸部の方がよっぽど活動的よ!」
祭り部……聞いたこと無いけど、そんな部あったんだ……。
ていうか盆踊りしてるだけって……どんな部活なんだ……謎だ……。
「青葉高校の部活動は毎回の活動以外に、何かの大会に出たり、発表回に出たり学外での活動をしないといけない。文芸部も昔は小説冊子をイベントで配布したりしてたらしい。雨宮もそこを突いてきた。活動実績も無い部活を存続させる意味も無いとか言ってな」
「確かに冊子作りなんて、私もやってないけど……それを言うなら祭り部だって!」
「お前は祭り部をバカにしてるみたいだが、あいつらは神社でやる祭りに出て踊りを披露したり、他の地域の祭りにゲストで行ったりしてるんだ。きちんとした活動実績がある。現状、ウチの高校で活動実績が無いのは文芸部だけだ」
僕の隣の席のクラスメート、村瀬さんが所属する茶道部も他校のお茶会に行ったりしてるらしいし、言われてみれば文芸部の活動は内々のものだけだ。
「でも……今から冊子作って売るなんて……」
冊子をイベントで売れば文句ない学外活動だ。だけど生徒会が示した期限は生徒総会がある今月末まで。あと一週間とちょっとくらいしかない。とてもじゃないが冊子を作ってイベントに参加するような時間は無い。
「冊子なんて無理だ。だから俺はさんざんビブリオバトルをやろうって言ってたんだ。ビブリオバトルの全国大会に出れば文句ない活動実績だからな。だが、近日中に開催される大会が無くて、これじゃ期限に間に合わない。だから、生徒会に実際にビブリオバトルを見てもらって、廃部を撤回するよう交渉するつもりだった。文芸部の新しい活動だと言って、生徒会にビブリオバトルを見学に来るように言った。雨宮のやつが今日見学に来るのは予想外だったがな」
鶴松先輩の表情は暗い。万策尽きたように目元を両手で覆った。
「……結果は知っての通りだ。雨宮はビブリオバトルを見学した上で、文芸部は廃部だと言い切った。あいつの目には、ビブリオバトルは部の活動内容として認められなかったわけだ」
沈痛な鶴松先輩のつぶやきに、皆の表情は一様に暗くなる。
あんなに楽しかったビブリオバトルの光景が霧散していくようだった。
「……俺のせいっすかね…………」
「和也くん! そんなわけないでしょ!」
「だって、雨宮先輩は俺の発表聞いて部室に入ってきた時、これが新しい活動か……ってバカにしてたじゃないですか。俺が攻略本なんか紹介しないで、白石先輩みたいに純文学小説を紹介してれば印象も違ったのかなって思って……」
久方は自分がゲームの攻略本という、学校で没収されそうな本をビブリオバトルで紹介したのを悔やんでいる。オタキングと言われるほど強い心を持った彼が、手に持った攻略本を悔しそうに見つめていた。そんな久方の姿を見て、進行役として、そして何より彼の友人として、僕は黙っていられなかった。
「――それは違うよ、オタキング」
「高野くん……?」
「君は何も悪いことはしていない。攻略本の良さを伝えることの何が悪いんだ? もし、雨宮先輩がそんなことでビブリオバトルを見限ったっていうのなら……僕は許せない」
ビブリオバトルで好きな本を紹介することが悪いわけがない。
文芸部の皆とビブリオバトルをするまで僕はゲームの攻略本の良さには気づいていなかったし……国語の教科書に載るような小説に興味を持つことはなかったし……ビジネス新書なんておっさんが読む本と決めつけていたし……オカルトの世界があんなにも広大で深淵だなんてことも……、一切知らなかった。そうして僕の中の本の世界が広がったのは紛れもなく、文芸部でのビブリオバトルのおかげなんだ。
雨宮先輩は今日、初めてビブリオバトルを見たって言っていた。一回見ただけで、わかったふうな気になって無価値なゲームと決めつけるのはおかしいし、間違っていると思う。それは真剣にビブリオバトルに臨んだ文芸部の皆への冒涜だ。
初めは鶴松先輩に脅されて仕方なく入部しただけだった。
それから久方と鳴瀬さんも入ってくれて……皆でビブリオバトルして……。
まだ入部してから一ヶ月も経っていないのに……僕はいつの間にか、喧嘩ばかりする先輩たちと、オカルト好きの委員長と、小太りでいつも笑わせてくれるおたくのいるこの文芸部が好きになっていた。
今日は何するんだろうか……。そんな風にほんのちょっぴり胸を高鳴らせて部室へ向かう寂れた廊下を歩く、あの時間が好きだった。
高校で部活をするつもりはなかったはずなのに……いつしか、この場所を失いたくないと思うようになっていた。
「僕も文芸部が廃部なんて納得いきません。生徒会の権力の横暴に対して、黙って泣き寝入りなんて僕は嫌だ。……生徒会の人達に見せてやりましょうよ、青葉高校文芸部の本気を!」
皆、少しの間ぽかんとしていたが、やがて鶴松先輩がくっくっくと堪えきれなくなって笑みをこぼす。
「……高野、お前、陰気にこじらせてるくせして、時々かっこいいこと言うよな」
僕は思ったことを口にしただけだ。別にかっこいいとは思っていない。あと、さりげなくバカにするのやめてほしい。
そんな時、ずっと黙っていた鳴瀬さんが立ち上がって、いきなり机をばしん! と叩いた。
「んも~ぅ、あったまきたッ!」
切れ長の瞳は異様にギラついていて、総毛立つような彼女の怒りを体現していた。そして、そんな理性を失った野獣のような目をしながらも、口元はにやけていて、そのギャップが否応なしに恐ろしかった。
ただならぬ様子の鳴瀬さんを前に、皆も動揺して何も言えなかった。すぐ隣にいた久方に至っては、顔が青ざめていた。
「高野くんの言う通りよ! 大体、なんでウチがチャンプになった時に廃部の話なんてするのよ! せっかく初めてチャンプに選ばれて嬉しかったのに……全部台無しじゃないのよぉっ!」
鞄を手に取ると、鳴瀬さんは部室の扉に手をかけてつぶやいた。
まるで漫画みたいに彼女の背中からゴゴゴ……という擬音が透けて見えた。
「こうなりゃ徹底抗戦よ! 言っとくけど、ウチは負けるつもりありませんから!」
そこで終われば熱くカッコいい捨て台詞だったのに、鳴瀬さんは出がけにニッと悪辣に笑って低い声でつぶやく。
「……生徒会のやつら……ぶち殺してやるわ………フフ……フフフフ――」
委員長の口から出るとは思えない、極悪な捨て台詞を残して、鳴瀬さんは部室を出て行った。
一同ぶるぶると震えていたが、やがて緊張の糸が切れたように一斉にくすくすと笑い出す。
「……だとよ。聞いたか、お前ら?」
「うわぁ……ああなった鳴瀬さんは怖いぞ……」
「ああ。俺もちょっと寒気がするぜ高野くん……」
「二人とも、情けないこと言ってる場合じゃないわよ! 私だって生徒会にむかついてるんだから! 麻衣ちゃんに負けてられないわ!」
「白石の言う通りだな。ビブリオバトルの見学が失敗だったとはいえ、廃部まではまだ時間がある。俺達にも何かできることがあるはずだ」
「そうね。私も廃部を回避する策を考えてみるわ」
「俺も……。文芸部が廃部になるのは嫌ですからね」
「よし。んじゃ休日明けに部室集合だ。それまで各自、廃部回避の策を考えておくこと。鳴瀬にも伝えとけよ。あーあと、高野」
「何ですか鶴松先輩?」
「鳴瀬に発破かけたのお前だからな。言い出しっぺとして、あいつの暴走を止めておけ。あの様子だとあいつ、生徒会に夜襲とか仕掛けかねないからな。鳴瀬が停学になるのは困るし……その時はお前、なんとかしろ」
「え、ちょっと、無理言わないでください! 僕なんかにあんなキレてる鳴瀬さんを止められるわけないですよ! ていうか鶴松先輩……僕は停学になっても良いんですか?」
鶴松先輩のにやけ顔は無言の肯定を示していた。つくづくひどい先輩だと思う。
僕は数少ない友人に助けを求めた。
「お、俺は何も知らん! グッドラック!」
親指を突き立てて言うと、小太りのおたくはそそくさと荷物をまとめ、逃げるように部室を出て行った。
「じゃ、頼んだぞ言い出しっぺ!」
鶴松先輩も悪役が見せるような笑みを僕に向けると、鞄を持って部室を出て行く。
「し、白石先輩ぃ……」
白石先輩はにこりと笑って僕の肩にぽんと手を置いて、そのまま部室を出て行った。
僕を助けてくれる人は誰もいない。
あんな怒れるバーサーカーと化した鳴瀬さんをどうしろって言うんだ……。
僕は部室で一人、絶望に打ちひしがれていた。
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