第46話 余計なこと

 読書嫌いの一ノ瀬が読み始めたことをきっかけに、涼の小説がクラスの間でじわじわと広まっていた。もともと僕たちのクラスは読書好きが少なくて、みんなもっぱらドラマを見たり、マンガを読む派が多く、図書室で小説を借りて読むようなのはそれこそ数えるくらいだった。




 ところがクラスメートが書いた小説というのは、みんな興味を持ってしまうものなんだろう。




 一ノ瀬と同じように、小説なんて国語の教科書に載っている物以外には読もうとしなかった人達の中にも、涼の小説を読んでみたいという者が増えてきた。これは人気屋の一ノ瀬がクラスで涼の小説を積極的に宣伝したせいもある。初めは恥ずかしがっていた涼も、最近はまんざらでも無い様子だ。


とはいえ、ただの中学生である。自分で書いた本を量産できるような財力やツテがあるわけもなく、原稿のコピー代すらままならないような状況だったため、クラスメート達は早い者勝ちで予約して、自分の順番がくるのを待っているしかなかった。




 一之瀬経由で涼の小説を借りた小松さんは周りに急かされる始末で、ちょっとかわいそうだった。読了した小松さんも普段は小説を読まないが、涼の小説は好評だった。彼女は笑顔で涼に感想を述べていた。奇をてらった展開が無かったり、等身大の言葉遣いが反って読みやすさに繋がったらしい。




「宮野さんって凄いよね。私には小説なんか書けないから、ホントに凄いと思う」




「そんなことないよ。……でも、ありがとう」




それから予約をした順番で本がクラスメート達の手に渡っていく。


読む人皆が口をそろえて、涼の小説を褒めていた。「こんな小説読んだことない」「とっても読みやすかった」「宮野さんって天才なんじゃない!?」などと褒めちぎる。昔から引っ込み思案で褒められ慣れていない涼は照れてばっかりだったが、そんな彼女を見ていて僕は嬉しかった。


 ようやく日の目を浴びた涼の小説。彼女の小説が面白いって思ったのは僕だけじゃない。自分が書いたわけじゃないのに、涼の小説が認められることがまるで自分事のように嬉しかった。




それは一人のクラスメイトの何気ない感想だった。




「……これ、返すよ。私にはちょっと難しかったかも」




「そ、そっか。読んでくれてありがと」




そのクラスメイトは涼に本を返すと、居心地悪そうに教室を出て行った。




 涼の周りの人達が次々と「私は面白いと思ったけどなー」「ま、感想って人それぞれだもん。宮野さんが気にすることないって」などと元気づけようと話しかけていた。


 彼女たちの言葉に涼は笑いながら、ありがとうと言っていたが、僕にはそれが張り付いた無理した笑顔だってすぐにわかった。




 自分が一生懸命作った物語を面白いと思ってもらえなかったというのは、作り手にとって、とてもショックなことなのだろう。でもそれは仕方の無いことなのかもしれない。物語の受け取り方なんて人それぞれだし、自分の意見を相手に押しつけるのは良くないと僕は思う。だから涼の小説がつまらない・よくわかんないと思うクラスメートがいたって自然だし、涼だってその辺り、僕以上にわかっているはずだ。


 そんな彼女がクラスメイト達に張りついた笑顔で対応しているのが僕には解せなかった。


自分の小説があまり好印象を持たれなかったくらいで、落ち込む彼女ではない……と思う。






 それから普通に授業が進んで、部活に行って……その日はいつもと変わらぬ一日のように思えた。






 部活の練習が終わって皆が帰り始める頃、トイレに行ってから帰ろうと校舎へ入った時、下駄箱の所で会話が聞こえてきた。




「宮野さんさ、最近マジ調子に乗ってるよね」




「だよねー。ぶっちゃけあの人の小説、つまんなかったし」




「あんたほんとにちゃんと読んだの?」




「読むわけないじゃん。罰ゲームかよ」




「はは、あたしと同じじゃん」




「ちゃんと読んだ人なんてほとんどいないんじゃない? みどりだって、国語の内申点目当てって話だよ」




「マジ? みどり、やるなぁ!」




 柱の陰から漏れ聞こえてきた会話がどこか現実のものとは思えなくて、自分の耳を疑った。






 後ろでカシャンと物が落ちる音がした。






 振り返った先には、この場に一番いてほしくない幼馴染が青ざめた顔で立っていた。目はいつもの輝きを失っていて、ひどく虚ろな瞳をしていた。




 涼は僕の視線に気づくと、顔を俯かせて話をしていた女子たちの間を逃げるように走り去っていった。柱の陰でしゃべっていた女子たちは、走り去る涼の背中を居心地悪そうに見つめていたが、やがて僕の存在に気がついて、蜘蛛の子を散らすように立ち去った。


 彼女たちが去り際につぶやいた一言が嫌に耳に残って、心をざわめかせた。




「盗み聞きとか、ありえなくね? マジ、サイテー」




 その日、僕のこれまでの日常は砂上の楼閣のごとくあっけなく崩れ去った。音もなく、まさに吹けば飛ぶ埃のようにあっけなく。






   ◇ ◇ ◇






 気が付けば涼の背中を追いかけていた。




 帰路の途中にある公園のそばで彼女の姿を見つけた。


 涼は公園の小さな屑籠の前でぼうっと立っていた。




 さっきの話を聞いて、僕は一体涼になんて言葉をかけたらいいんだろう? 




 ショックを受けたであろうことは間違いないだろう。友人たちが楽しく読んでくれていたと思っていたのは、全て彼らの演技だったのだ。罰ゲームで読まされていた……そんな言葉も漏れ聞こえてきた。それが事実かどうかは僕には知る由もないけど、あそこで聞いてしまった涼が深く傷ついたであろうことは想像に難くない。そんな彼女に対して、僕は何を言えばいい? 僕には何ができる? なんとかしたいけど、どうしたらいいのかわからなくて、もどかしくて。声をかけようとするも、その一歩が踏み出せず公園の入り口で立ち尽くしていた。




 その時、涼が肩にかけていた鞄から一冊のノートを取り出すのが見えた。




 小豆色のノート。彼女がいつも小説を書くのに使っていたノートだ。僕が世界中のどんな物語よりも続きを楽しみにしてる小説ノート。


 ぐっと強く握りこまれて、ノートの端っこがぐにゃりと曲がっている。涼の腕がふるふると震えていた。




「涼……大丈夫?」




 たまらなくなって出た言葉がこれだった。


 涼がくるりと振り返って僕を見て、ぽつりとつぶやく。




「悟……? ……そっか、あんたも聞いてたよね」




 僕を見る彼女の瞳は今まで見たこともないくらい冷たくて、虚しくて、静かだった。




誰かにこんな目を向けられたことはなくて、目の前に立っている幼馴染がどこか別人のようにさえ思えて怖くなった。怜悧な、という言葉では到底済ませられない……冷たい視線に釘付けにされて僕は動くこともできない。ノートを握りしめる手に一層強い力がかかる。表紙の厚紙は指の形に折れ跡がついている。




「そのノート……どうするつもり…………?」




「……悟には関係ないでしょ」




 涼は左手に持っていたノートにちらと目をやると、僕の目の前でそれをぐしゃりと握りつぶした。




「……こんな物のせいで、私は……私は……ッ!」




 力任せに強引にねじり上げられ、ぐしゃぐしゃにされた小豆色のキャンバスノート。


 僕にとっては世界で一番大切だったノートは、もはやその原型をなくし、涼自身の手によって、鼻をかんだティッシュみたいにあっさりと公園のくずカゴに投げ入れられた。




「お前、何バカなことしてんだ!? 大事なノートなんだろ!」




 ごみの中からノートを拾って、涼の前に差し出す。




 彼女は何も言わずに、僕の手からノートを叩き落とし、なおも拾いに行こうとする僕の肩を両手で思い切り突き飛ばす。


 地面に尻もちをつきながら見上げる。




 涼はどこか壊れた人形のように、無機質な表情をしていた。眦にはうっすら涙が浮かんでいて、肩を小さく震わせていた。




「……もういらないのよ、そんなの」




 ずっと溜め込んでいたのであろう言葉を一つずつ、震えた声で吐き出した。




「クラスのみんなが私の小説を喜んで読んでくれてると思ってたけど、ぜんぶ……ぜんぶ私の勘違いだった。結局、私がバカだったのよ。あんたも聞いてたでしょ?」




 昇降口での女子たちの会話。彼女たちはけらけら笑いながら、涼の小説を罰ゲームと嘲っていた。あの会話を聞いてしまってショックを受けるのは当然だと思う。




 あいつらを今すぐぶん殴ってやりたいが、それは後だ。涼は一つ勘違いをしている。




「それは少し違うと思う」




 彼女はたった二人の心無い声をクラス全部のものに拡大して考えている。罰ゲーム感覚で小説を読んでいた奴もいるのは、悲しいけれど事実だ。だけど、純粋な気持ちで涼の小説を読んでくれた奴だって絶対にいるはずなんだ。






『お前の小説読んだのは、あいつらだけじゃない。全員がつまらないと感じたって、お前が勝手に決めつけるのは……少し違うと思う。少なくとも……少なくとも僕は、お前の小説が好きだし、続きを読みたいと思ってる』






 そんな言葉を涼にかけてあげたかった。






 だけど、僕が口を開くよりも先に涼は突き刺すような口調で言葉を吐いた。




「なんで私の小説のことみんなに話したの? あんたが余計なことしなきゃ、私は……っ」




「違っ! 僕はただ――皆にも涼の小説の面白さを知ってほしかっただけなんだ……」




「それが余計だって言うの! 私がいつ、そんなこと頼んだ?」




「それは……」




「……ずっと一人で書いてればこんな気持ちにならなかったのに」




 それだけ言うと、涼は踵を返して歩き出した。まだノートを返していないことに気が付いて、そのまま去ろうとする彼女の背中に声をかける。




「涼、待ってよ。これ……ほら、忘れ物」




 振り返った彼女の顔を見て、僕は息が詰まって喉がつかえたようになって何も言えなかった。涼はびっくりするくらい泣いていた。


 俯いて涙をぬぐってから、落ち着いた声音でつぶやいた。張り裂けそうな感情が心に穴をあけて飛び出す。彼女の肩は小さく震えていた。




「……あげるよ。私には、もう必要ないから」




 そう言って、涼はわき目も降らずに公園を出て行った。




 走り去る彼女を見つめたまま、僕は追いかけることができなかった。






 必要ない。信じられなかった。聞きたくなかった。


 小豆色のキャンパスノートはこれまで彼女が紡いだ物語の結晶のはずだ。それを本人が必要ない、なんて。




 それはささいな出来事が積み重なった末に起こった、話だけ聞けばどこにでもあるようなちょっと悲しい話の一つに過ぎない。だけど、僕にとっては比喩でもなんでもなく自分の思い描いていた世界の姿があっけなく崩れ去り、足元から崩壊していくようだったのだ。




 決別の二文字が頭に浮かんだ。




 当人たちにとっては全てを投げ出したいほどに辛い出来事があったとしても、日常は進む。それからも学校で当たり前のように顔を合わせることもあったけど、歯車がかみ合わないように、会話もしぐさも何もかもが、どこか嘯いていて取り繕っているようだった。








 いつの間にか僕がビブリオバトルの全国大会に出場したことも忘れ去られ、涼は小説を書くのをやめ、僕は学校で本を読むのをやめた。誰かに本の感想や本のことについて誰かと話すのが嫌だった。また自分が他人にとっての『余計なこと』をしてしまいそうで怖かったんだ。




 自分の軽率な行いが涼をひどく傷つけた。僕が世界一楽しみにしていた物語は、僕自身の手によって、その幕を閉じた。未完結の最低のバッドエンドという形で。


 鏡で自分の顔を見るたび、自責の念が胸に渦巻く。呪いか何かみたいに、心に巻き付いた思いはどうやってもとれそうにない。




 青葉高校への進学が決まって、僕は過去の自分と決別したいと思った。




 メガネをかけたのはそうした理由からだ。視力が悪いわけではないから、度の入っていない伊達メガネ。メガネをかけると、裸眼の時よりもフレームの分、視野が狭くなる。その分自分がみたくない余計なものを世界から排除できているようで心地よかった。




 もうあんな思いをするのは嫌だったし、誰かを不用意に傷つけたくなかった。




 ビブリオバトルなんて、もうこりごりだ。


 ずっと、そう思っていた。






 鶴松先輩が強引に文芸部に入部させるまで――ずっと。

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