第45話 一ノ瀬の感想
それから三週間ほどたったある日。
部活帰りに一ノ瀬に呼び出された。その時にいた数人の友人達が、いよいよ告白か~などと囃し立てていたが、僕は彼女が呼び出した目的がそんな浮ついたものでないとわかっていた。
今まで休み時間に読書をする習慣なんてなかった一ノ瀬が、ここ二週間ほどは、ちょっとした時間を見つけては、僕から借りた「林檎の木の下で」を熱心に読んでいた。
自分が薦めた本をこうも真剣に読んでくれる彼女の姿を見ていると、なんだか胸がこそばゆくなってしまった。本の残りページも少なくなってきていたし、もうそろそろ読み終わる頃だろうなと思っていたんだ。
待ち合わせ場所は近所のスーパーマーケット内にあるフードコート。なんか知り合いに似てる奴も見かけたが、気のせいだろう。
一ノ瀬は先に来ていたようで、菓子パンを頬張っていた。カウンターでコーヒーを受け取って、彼女のテーブルに着いた。
「ごめん、遅くなった。片付けに時間かかっちゃってさ」
「あたしもさっき来たとこだから、大丈夫」
僕がコーヒーを一口飲んでいる様子を見ながら、一ノ瀬は不満げな声でつぶやいた。
「……なんかムカつくわね」
眉間に皺よせた顔で僕を睨んでいる。一ノ瀬はいつも何を考えているのかよくわからないヤツだが、今もなぜ怒られているのかわからない。何かやらかしたか逡巡している僕を見て、
「全然緊張してないじゃん。高野のくせに。……なんかあたしがバカみたい」
と、小さなため息とともにつぶやいた。
「……? 何言ってんだよ」
「あーもういい! あんたがそういうヤツだってのはわかってた!」
一ノ瀬は一人で怒って一人で納得してしまったらしい。つくづく勝手なヤツだ。
僕はコーヒーを飲んでから、本題を切り出した。
「……本、読み終わったんだろ?」
その問いかけに一ノ瀬はこくりと頷いた。テーブルの上に置いてある『林檎の木の下で』は僕が貸したときよりも、ページの角の所が少しよれていた。きっといつも鞄に入れて持ち歩いて、読んでくれていたんだと思う。
小説を読むっていうのは、結構労力を使うもんだ。教科書に載っているくらいの長さの文章でさえ、全部読むとちょっと疲れるんだから、小説――それも長編小説を初めから終わりまで読むって言うのは実は中々難しいことなんだ。
それは今まで読書の習慣なんて毛ほどもなかったであろう、一ノ瀬にとってはなおさらだったことだろう。今でこそ色んな本を読むようになった僕だが、読んでいる途中で飽きてしまったり、最後まで読めなかった小説なんていくつもある。それこそ、数え切れないくらいだ。
だから、この時僕は彼女のことを素直に「すごい」と思ったんだ。
そして同時に、この本を読んで一ノ瀬がどんな感想を持ったのか知りたいと強く思った。だけど、その気持ちをストレートに表現できるほど僕は大人じゃなかった。
「よく、最後まで読んだよな。正直、お前は途中で諦めて本を返すと思ってた」
「高野。やっぱしお前、あたしのことバカにしてるだろ」
「バカになんてするかよ。実際すごいと思うぜ? 今まで読書なんて、てんでしなかったのに、いきなりこの長さの小説を読んじゃうなんてさ」
「……あたし読むの遅くってさ。読んでる間に、内容とか登場人物の気持ちが頭から抜けちゃって、前のページに戻って確認したりして……。高野はこれくらいの長さの小説、どれくらいで読み終わるんだ?」
250ページくらいの文庫本だから、内容にもよるけれど……。
「……三時間くらいかな」
「あたしが三週間かかった量を、たったの三時間かよ。さすが、ビブリオバトル準チャンプ」
「それは関係ないって」
僕自身、別に自分が速読派と感じたことはない。速い人は本屋で立ち読みする程度の短時間で一冊を読み終えちゃう人もいるくらいだ。ビブリオバトルをやったからといって、本を読むのが速くなったりはしないし。そもそも本を読み終わるスピードなんか全然関係ない。
大事なのは、この本を読んで、彼女がどう感じたかだ。
「……でさ、どうだったんだよ?」
一ノ瀬はしばし俯いて机の上の文庫本をじっと見つめていたが、やがて小さくはにかんでつぶやいた。
「正直、よくわかんない。あたしバカだからさ、読書感想文とかも苦手だし。でも続きが気になるってのはあるかな。この小説、後編があるんでしょ? 物語って、最後まで読まないと評価できないっていうか」
彼女の言い分はもっともだった。僕が彼女に貸したのは『林檎の木の下で』前編であって、ストーリーは区切りの良い箇所まで進むけど、話が完結しているわけじゃない。最後の最後でどんでん返しが起きて、一気につまらなくなってしまった小説を読んだことがある。『林檎の木の下で』だってまだ完結していない以上、そうなってしまう可能性だってある。
「なんていうか、高野が薦めてくれたからさ……その、期待しすぎちゃったとこもあったっていうか……」
一ノ瀬が文庫本の表紙を指でさらりとなぞる。
「宮野さんになんて言おう……。彼女、きっとあたしの感想気にしてるよね? 高野はさ、どうしたら良いと思う? 仲いいんでしょ、宮野さんと」
涼は一ノ瀬の感想を聞いてどう思うんだろう。ショックを受けるだろうか。それとも、後編を期待して待ってろと胸を張るのか。これまで涼の小説をいくつも読んできたけど、未だに彼女のことはわからないことばかりで、ふと、そんな自分がなんだかちっぽけな存在に思えた。
今まで読んだ涼の小説はその全てが面白かったわけではない。中にはイマイチだったものもある。当然だ。書いたものが全て面白いなんて、そんなの愚かな夢物語で、現実はどこまでも冷静だ。そんな時、僕は誤魔化さずに素直に思ったことを伝えた。つまんないシーンについては思った通りに伝えた。だけど、全部が全部つまんないシーンだけだったことはない。イマイチだった物語だって、たとえ砂粒ほどでも面白いと思った箇所があるはずだ。そうじゃなきゃ、最後まで読めっこない。
一ノ瀬は悩んでいるのだ。クラスメートが一生懸命書いた小説で、全国ビブリオバトルコンクールで準チャンプ本にまで輝いた小説をつまらないと言っていいものなのか。彼女としてもクラスメートを傷つけるのは本意ではないし、だからと言って嘘をついて誤魔化すのもどうなのか。
本を読み終えた一ノ瀬には涼が真剣な気持ちでこの小説を書いていたことがわかった。だから、彼女の真剣さに報いるためにも、ちゃんとした感想を伝えたいと悩んでいる。普段おちゃらけてばかりいるように見える彼女の、他人には余り見せない一面を垣間見た気がした。
「……ちょっと話変わるけどさ。一ノ瀬は、本を読むのって嫌い?」
僕の質問が想定外のものだったからか、彼女は目を瞬かせた。
「え……? いや……嫌いってほどじゃないけど……。それがどうかした?」
その言葉を聞いて安心した。彼女自身、まだ気づいてないらしい。
「感想のことだけどさ、思ったことをそのまま伝えればいいんじゃないか? それが一番、一ノ瀬らしいと思う」
「でもそれじゃ、宮野さん……せっかくこんなに長いお話頑張って書いたはずなのに……」
「んなこと気にすんなよ。この小説読んで、あんなに本嫌いだった一ノ瀬が、読書を嫌いじゃないって言うくらいになったんだぜ? それくらい夢中になってたってことじゃん。お前、よく僕に言ってたじゃないか。あんた本ばっかし読んでつまんなそうね、って。すごい変化だと思うよ、ホント」
「……いいのかな。あたしなんかのしょぼい感想で……」
「しょぼいかどうかはお前が決めることじゃない。作者が決めることだ。……そうだろ涼?」
テーブルの向こう側で、こちらに背中を向けて勉強をしていた少女がびくりと肩を上下させた。それでようやく一ノ瀬も涼の存在に気がついたようで、驚きのあまりしどろもどろになっていた。
「み、宮野さん!? なんでいるの!?」
一ノ瀬は店内に涼がいたことに今の今まで気がついていなかったらしく、彼女にしては珍しく動揺していた。動揺していたのは涼も同じだったけど。
「悟……気づいてたの?」
「お前、尾行が下手くそすぎるんだよ。学校からここに来るまで、こそこそ僕の後をつけていたじゃないか。……ったく、何がしたいんだか」
「そうだよ宮野さん! いるなら言ってよ。ビックリしたなぁ、もーっ! ほら、席空いてるから、こっちおいでよ」
涼はバツが悪そうな顔で僕らのテーブルに移動すると、一ノ瀬に対して深々と頭を下げた。
「……一ノ瀬さん、ごめんなさい! 私、あなたが高野くんを呼び出しているのを見て、こっそり私の本のことについて話すのかな、って思って……。それで……どうしても気になって、こっそり店までついてきたの。盗み聞きする気は無かったの! でも……なんか言い出しづらくて……。ホントにごめんなさい!」
涼がついてきたのは理由はそんなことだろうと思っていた。
とても褒められた行動じゃないが、この時に限ってはかえって良かったんじゃないかと思う。
涼は一ノ瀬が本を読んだ感想を直接聞いていたはずだ。
「……私の方こそ。その……聞こえてたでしょ? 私の話」
「……うん」
「宮野さんには悪いと思ってるよ。きっと一生懸命書いたんだろうけど、私には面白さがよくわからなかった。続きがあるなら読んでみたいけど……。その……ごめん」
申し訳なさそうに俯いて言う彼女はいつもの自信満々の表情とのギャップから、ひどく落ち込んでいるように見えた。そんな彼女の両肩を涼がひっしと掴む。
「そんなことない! 一ノ瀬さんが謝る事なんて何もないの。最後まで読んでくれた。それだけで私は嬉しい。だから、謝らないで」
一ノ瀬がはっとした顔で涼を見上げる。涼は笑っていた。それは、普段感情をあからさまに出すことが少ない彼女の本心からの笑顔だった。一ノ瀬の瞳が揺れていた。そんな彼女を見つめる涼の瞳もまた揺れていた。
「あのさ……実は、続き書いてみたぶんがあるんだけど……。一ノ瀬さん、読んでくれる?」
「読む! ていうか読ませてください、宮野先生!」
「な、先生ってなに?」
「だって小説家って、~~先生って呼ばれてそうでしょ。あたしの中では宮野さんは立派な小説家だから、宮野先生なの!」
「せ、先生は恥ずかしいからやめてよ……」
「へっへへ~絶対やめない! みんなにも教えてあげよ!」
良かったな、涼、一ノ瀬。やっぱり僕が思った通り、結末はハッピーエンドだったってわけだ。
めでたしめでたし、と。
……ん? 涼も一ノ瀬も、二人してなんか怖い顔して僕を睨んでいるけど……。
「ちょっと……あんた何、浮かれた顔してんの?」
「一ノ瀬さんの言うとおりよ。悟……ふざけるのもいい加減にして」
二人の怒気がもの凄い勢いで急上昇してるような……。
なんだかこの場にいるのは危険みたいだ。こういう時はさっさと退散するに限る!
鞄を手に立ち上がった瞬間、一ノ瀬が制服の袖を強引に引っつかんだ。
「逃がしはしないわ! 高野! あんた、宮野さんがいるのわかってるなら、さっさと言いなさいよ! 絶対一人だけこの状況を楽しんでたでしょ! このスケベ!」
「は……!? ちょ、そもそも僕はスケベじゃな……」
「あんたのおかげで凄い恥ずかしかったんだから……。覚悟しなさいよ!」
女性を怒らせると、ひどいしっぺ返しにあう――と、僕はこの時学んだ。
それからぶち切れていた二人の気持ちをなんとか落ち着かせて、その場は解散になった。
なんか僕一人ビンボーくじを引いたような結果だったが、まぁいっか。
僕と涼は帰る方向が同じだったので、歩きがてら小説の感想について話をした。
「良かったじゃん、一ノ瀬に続き読んでもらうことになってさ」
「……うん。けど、ちょっぴり悔しいな」
「悔しい? ……何が?」
「あの小説、なかなかの自信作だったからさ。悟も面白いって褒めてくれたし、一ノ瀬さんも面白いって思ってくれると思ったから……ちょっと悔しい。彼女が第一声で面白いって言ってくれるような小説を書けるようになりたい」
涼はやっぱり僕なんかとは見てる景色が全然違うんだ。
僕だったら、読んでもらえるだけで嬉しい。それでおしまいだ。だけど彼女はその結果に悔しさを感じている。今はまだ小説好きなただの中学生だけど、その気持ちは立派な小説家だ。
僕の横をこうして歩いているのも、きっと今だけ。彼女はきっと僕よりもずっと凄い世界へ行ける人間なんだ、と。そう思ってから、ふと、自分のことを考えてしまう。
僕は、どうなんだ? 僕には涼みたいに物語を作る才能なんてない。彼女が作った物語を読むことくらいしかできない。物語を読むのと、作るのとでは絶対に越えられない大きな壁みたいなものがあって、僕は壁の下に、涼は壁の向こう側にいる。壁を越えることは決してできない。
ビブリオバトルで結果を出したけれど、結局それが何になるんだろう。考えても答えは見つかりそうにないし、無性に虚しくなってくるだけだ。
「悟、そういえば一ノ瀬さんから返してもらった本は?」
「え? 本はまだ返してもらってないぞ。一ノ瀬のヤツ、宮野さんの小説を皆にも読んでもらうんだ~! とかいって、クラスのみんなに薦めてみるんだって。ま、僕がアイツに頼んだんだけど」
「そんな話……一言教えてくれてもいいでしょ! バカ!」
怒った口ぶりだったが、目は怒っていなかった。きっと照れ隠しにそう言ったんだろう。
僕にできるのはせいぜい、彼女の小説の面白さを多くの人に広めることくらい。
だから――
「自信持てって。大丈夫。涼の小説の面白さは、この僕が保証するから」
「悟……」
「お前はで~んと構えて、みんなの感想を待ってればいいんだよ。今日だって、一ノ瀬の感想聞いてめちゃめちゃ嬉しそうだったじゃん」
ふと、涼が立ち止まって、真剣な声でつぶやいた。
「悟はさ、なんでそこまでしてくれるの? みんなが私の小説を読んでくれるのは嬉しい。けど、悟にはなんのメリットも無いじゃん。私だけなんかズルいみたい」
「……お前も考え症だよな。単純な話さ。僕は涼の小説が好きなんだ。早く続きも読みたい。作者であるお前のモチベーションが上がれば、早く続きが読めるかもしんないじゃん」
「……ありがと」
小さくそれだけつぶやいて、涼は小走りに駆けていった。
そんな彼女の背中を僕は脳天気に見送った。明日、学校でみんなの感想を聞くのを今から楽しみにしてる自分がいて、人と本を読んだ感想を分かち合うことができるってなんて素晴らしいのだろうと感激した。クラスのみんなと涼の小説のことについてもっと話をしてみたい。もっと色んな人と感想を語らいたい。明日の学校がこんなに待ち遠しいなんて、夢みたいだ。
僕はすっかり日が暮れた帰り道を小さくスキップしながら帰った。
――知らなかったから、そんな脳天気な顔でいられたんだろう。この時の僕は、好きな本を人に本を薦めることに何の疑いも持っていなかった。僕が参加していたビブリオバトルだって、本の魅力を多くの人に知ってもらうことが元来の目的だし、その行為が間違っているなんて微塵も思わなかった。なまじ全国中学ビブリオバトルコンクールで準チャンプに選ばれたことが僕自身を天狗にしていたのだと思う。
僕は知ることになる。まるで予期しない交通事故のように、その時は訪れるのだ。好きな本を人に薦めることの恐ろしさを、身をもって知ることになる。そしてその結果……羽をもがれ、地に落ちた天狗は上を向くことをやめた。
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