第39話 決勝戦

 水道の蛇口から水滴がポチャリと落ちる音ではっと顔を上げる。


 洗面所の鏡をみると、そこにはついさっきまでとは違う顔をした自分がいた。

 緊張がなくなったわけではないけれど、吹っ切れたというか、ある種そんなような顔をしていた。あの時……初めてビブリオバトルに参加したときも同じような気持ちだったのだ。もしかしたら今よりも緊張していたのかもしれない。


 あの頃、涼に誘われるままビブリオバトルに参加した僕はゲームの仕組みすら朧気にしか理解していなかったし、テーブルを座る参加者たちを見て、新興宗教の儀式か何かだと思ったくらいだ。結果はあえなく敗退だったし……。

 だけど、その時感じたのは悔しいとかそういう感情ではなくて、宝箱を開けたような不思議な高揚感だった。


 違いは聞いている人の数だけ。それだってどうせしゃべっているうちはきっと本のことにだけ集中できる。……それは空元気かもしれないけど。


 発表者が通される待合室に向かう途中、涼とすれ違った。


「あ、いた~! んもう、探したんだから! どこ行ってたのよ!」


「どこって……トイレだけど」


「はぁ……悟、あんたもちょっとは緊張ってもん覚えたら?」


 どうやら彼女に僕の緊張は一ミリも伝わっていなかったらしい。本当は緊張でゲロ吐きそうだったのに。しかし、そんな気持ちを思春期の男子特有の恥ずかしさで押し殺した。


「ところでさ、どんな本発表するつもりなの?」


「んなの教える訳ないだろ! けど、そうだな……僕が今、世界で一番好きな本だってことは言っておくよ」


 つぶやいた瞬間、頬が真っ赤に火照って、体温が急上昇していくのがわかった。涼はいつもと変わらない顔でふぅん……とつぶやくとニコリと笑って見せた。


「ふふっ。わかった、楽しみにしてるから。頑張ってね!」


「おう」


 駆けていく涼の背を見つめながら僕は一人、つぶやいた。


「世界で一番好きな本……か。我ながら大それたこと言っちゃったな」




   ◇ ◇ ◇



 そしていよいよ全国中学生ビブリオバトル大会、決勝戦が始まった。



 四人の発表者が壇上に並ぶと、会場全体から揺れるような歓声と拍手が響きわたった。

 それまでの決意だとか覚悟だとか、緊張しないよう準備していた気持ちだとかそういった種々雑多は風のように吹きさって、頭が真っ白になった。緊張のあまりぐらつく視界の中どうにか自分の席に戻ると、すぐに第一発表者の発表が始まった。僕の出番は四番目で、それ以外のことは正直言って頭になかった。

 他の人がどんな発表をしていたのか、内容はまるで頭に入っていないし、本の内容だってほとんどわからなかった。質疑応答の時間もぽかんとしているばかりで、会場の人たちも、こいつは一体何をしにきたんだ? と思ったに違いない。


 タイムマシンに乗って時間移動したみたいに、気づいた時には名前を呼ばれていた。


「高野くん――青葉中学校の高野悟くん?」


「は、ふぁい!」


 いきなり耳に飛び込んできたアナウンスに驚いて、素っ頓狂に立ち上がった僕は、緊張しきってぎこちない歩き姿で中央のマイクへと向かう。

 こんな緊張は生涯に感じたことがなかった。会場にいる500人が僕を見つめている。浴びたことのない視線の数に、胃はのたうち回り、自分はここで死ぬんじゃないかと思った。


 ぼやける視界の中で、チーン!! と鐘の音が鳴り響いた。


 その音にはっとして僕は自分が持っていた本の表紙に目を落とす。

 一本の大きな木のイラストの他には何の変哲もないクリーム色の表紙にはタイトルと作者名が書いてあった。題は『林檎の木の下で』。作者名は――宮野涼。


 本の題名を口にした瞬間、客席の約一名の姿が目に入った。

 この本の作者は壇上に立つ僕を信じられないものを見るような目で見つめていた。

 ぽかんと開いた口を両手で覆って……だけど、頬を茹で蛸のように朱に染めながら僕を見ていた。それを見て小さく自嘲するように笑って、僕は口を開いた。


『林檎の木の下で』は涼が自分で書いた小説を、僕と二人でお小遣いを出し合って、親戚の叔父さんがやっている印刷所で特別に刷ってもらった本だ。格安でやってもらったから、千円くらいだったっけ。平たく言えば自費出版の本……てことになるのかな。自費出版っていっても本屋さんに並んでいるわけじゃないんだけど。……そんなことはどうでもよくて。


 書き上げた小説を読んでみてほしいと、涼から原稿を手渡された時は、なんかいつもより分厚いなくらいにしか考えていなかった。感激の余り、渋る涼に本の形にしてもらうように必死に頼みこむことになるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかった。


 トラウマを抱えた主人公がふとしたことでヒロインの少女と出会い、彼女を助けるために奔走しながら自らのトラウマとも向き合う……といった感じのどこかで聞いたことのあるような良くある感じのストーリーだ。物珍しいストーリーではないけど、読み始めてすぐ、僕はこの物語に引き込まれた。等身大の登場人物に自分の姿が重なる瞬間がいくつもあって、時間が経つのも忘れてページを捲った。


 僕はこの小説が世界で一番好きだった。それだけは自信を持って断言できる。幼馴染みの涼が書いているからというのは関係なく、純粋にそこに描かれた登場人物たちが織りなすストーリーと世界観が途方もなく好きなんだ。


 物語はあくまで現実とは関係ないフィクションだ。だけど本の中で紡がれる文章や登場人物達の葛藤は現実の物のように僕には思えた。そしてこんな美しい物語を書ける幼馴染みを尊敬さえした。白状すれば僕は涼に対して淡い恋心のような何かを抱いていたと思う。そのことについては否定しない。だけどそれとは関係なく、ただただこの物語が好きだった。作者が涼じゃなくて全く知らないおっさんだったとしても。この気持ちは変わらない。そう断言できるほど僕はこの小説が好きだった。

 そして、思った。この小説の素晴らしさを誰かと分かち合いたい、と。


 決勝戦で自分が何を話したのか……正直言ってほとんど覚えていない。


 発表者としてどうかと思うけど、自分がこの本が大好きなんだという気持ちを伝えたい。ただそれだけだった。

 こんなに美しく素晴らしい至純に満ちた小説がこの世界にはあったんだって、伝えたい。ただその一心で僕は喉がかすれながらも必死に言葉を紡いだ。



 気づけば、鐘の音が三回鳴り響いていて、僕の決勝の発表は終わった。 



全身に心地よい疲労感が広がっていって、発表を終えた後に質疑応答が行われたはずだけど、自分が何を聞かれて、何を答えたのか、はっきりと思い出すことができない。

 熱に浮かされたようにぼんやりしながらも、僕の視線は広い会場のただ一点に向かっていた。

 幼馴染みが今まで見たこともないくらい嬉しそうに、眦を濡らしていたのが、やけに鮮明に目に映って、その光景が目に焼き付いて消えなかった。

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