第58話 どうでもいい
一ノ瀬みどり。中学の時の僕のクラスメイトだ。当時は普段から制服を着崩していて、髪もテレビに出てくるギャルみたいに派手だったから、クラスの中でも一際目立つ存在だった。アイドルっていうと語弊があるけど、まあ似たような感じだ。
「久しぶりだな、高野。それに……宮野さんも」
「嘘……ホントに一ノ瀬さんなの!?」
「ギャグ……じゃないよね。軽くショックなんだけど」
そう言って肩をすくめる一ノ瀬は中学の頃とはずいぶん違った印象だ。
普段から制服を着崩した格好をしていた彼女が、ブラウスの第一ボタンまできっちり閉め、靴のかかとには踏んだ後が見られない。凛としたポニーテールの髪型も相まって、真面目な人だという印象を強めている。正直、目の前の彼女が、僕が知っている一ノ瀬だなんて詐欺みたいなもんだ。本当にまるで別人のように思えた。
涼と同じ制服を着ているってことは、一ノ瀬も白城野の生徒ってことだよな……。
中学の頃はあれっきりクラスの奴らとも自然と話す回数が減っていたし、他人の進学先にも興味がなかったから、特別知ろうともしなかった。
とはいえ、同じ高校に進学したんだから、涼が一ノ瀬のことを知らないのはどういうわけだろうか? いくらなんでも同じ中学出身なのに、全く知らなかったってことはないだろうし……。
一ノ瀬はそんな僕の反応を見て、くすくすと小さく笑みをこぼした。
「……二人とも似てるよな、そーいうとこ。ホント昔のまんまだ」
「僕が、こいつと似てる……?」
「一ノ瀬さん、こんなのと一緒にされるのって心外なんだけど」
「お前、本人を前にして、よくそんなキツい言い方できるよな。神経疑うぜ、マジで。それはともかくとして、一ノ瀬。お前、鳴瀬さんに誘拐された風に登場したけど、何があったんだ?」
「……ま、あたしなりのケジメをつけないとって思ってさ」
それから一ノ瀬は涼の方に視線を移すと、小さく息を吸った。肩が小さく揺れていたのがわかった。深々と首を垂れ、開口一番に言った。
「ごめんなさい」
一ノ瀬の口からつぶやかれたのは、それまで自分の人生で経験したこともないくらい深い、深い謝罪の言葉だった。彼女の言葉はまるで重力をもっているかのように重い雰囲気を醸していて、僕も涼も口を挟まず彼女の話すことを聞いていた。
「……クラスの奴らから宮野さんのことを聞いたの。私が国語の内申点目当てにあなたの小説を読んでいた、って。クラスの奴らも内輪で盛り上がるための素材としてあなたの小説を読んでいただけで、ほとんどの奴がからかい目当てにあなたの小説を読んでいた。旧友として本当に最低な行為だったと思う」
そこまで言って、一ノ瀬は「本当にごめんなさい」と言って、もう一度深く頭を下げた。
話を聞いていた僕には、彼女が本当に心底から涼に謝りたかったんだっていう気持ちが伝わってきた。話しながらも肩が小刻みに震えていたし、彼女にしても話をするのに相当の勇気が必要だったんだと思う。その気持ちは僕にも理解できた。
だけど――それはきっと僕自身が当事者ではないからだ。
あの時、信じていた友人たちによる屈辱的な行為を受けた当事者は、僕とは違う。
「今更、なに……? そんな話されたって、悪いけど私にはどうでもいい。私に許してもらおうとでも思ったの? それは都合が良すぎるんじゃない? 悪いけど私は……そこまでお人好しじゃないっ!」
「私だって謝って許してもらえるなんて思ってない! 宮野さんが今後一生私たちのことを憎み続けるのは仕方ないって思う。だって、それだけのことを私たちはしてしまったんだから……」
気づけば一ノ瀬の眦にはすっかり涙が溜まっていた。こぼれ落ちる雫を拭うこともせずに、震える声色で話を続ける。
「……あなたに許してもらえるなんて、そんな烏滸がましいこと思ってないよ。だけど一つだけ。一つだけ、知っておいてほしいことがあるの」
そこで一ノ瀬は一度えずいた。呼吸をすることすら意識の外に追いやり、嗚咽を飲み込むように話をする彼女の姿がひどく哀しく目に映って、無性に辛かった。
ぽつり、ぽつり、と無理矢理絞り出すかのごとく、一ノ瀬の話す声はか細かった。
「あたしね、あの頃、高野のこと気になってたんだ」
「は、はぁ!?」
そんな素振り全くなかったと思うけど……。いきなり不意打ちを食らったみたいに僕の意識は混乱した。めちゃくちゃに気まずかった。一方、涼はあっけらかんとした顔で、何でもないようにつぶやく。
「知ってたよ。あー……悟は面倒くさいから黙ってて」
ちらと僕の方を気まずそうに見てから、一ノ瀬は再びに涼の方へと視線を移す。
「……だから、こいつがいつも宮野さんを気にしてるのにもすぐに気づいた。こんな地味な子のどこが魅力なんだろうって思ったよ。だけどそのうち、こいつが気にしてるのは宮野さんじゃなくて、宮野さんが書いてる小説なんだってこともわかったの。こいつ授業中も先生の話聞かないで、ずーっと宮野さんから渡されたノートばっかり食い入るように読んでるんだもん。最初はどんだけイチャイチャの交換ノートなんだろうって思ったわ」
ふふっと小さく笑って一ノ瀬はまた話を続ける。
「そんなに夢中にさせる小説、どんなだろって気になって、読んでみたくて。それに……話題作りにもなるかもってのもあって、あなたの小説を読んでみたかったんだけど、当時の私は宮野さんとほとんど接点無くて……。そんな時、高野のビブリオバトルのことを知って、ちょっと強引にあなたの小説を読ませてもらった。よくわかんないって笑い飛ばしてやるつもりだったけど、読んでるうちにどんどん自分が世界観に浸かっていくのがわかった。気が付いた時には、私、すっかりあなたの小説に魅了されていたのよ」
一ノ瀬がもう一度、きっ、と涼を見つめる。その双眸は涙に濡れていたが、強い決意を宿した揺るぎない光が籠っていた。
「だから私、あなたが小説を書くのをやめてしまったって知って、悲しかった。ショックだった。あんなに面白い物語が書けるのに、なんで……なんで……って。それでクラスの奴らに聞いて、あいつらがしたことを知ったの。あなたの小説をネタに弄っていた奴らはぶちのめしたんだけど、その頃にはすっかり後の祭り。クラスの中で宮野さんの小説は禁句みたいな雰囲気が出来上がってて、そんな空気を帳消しにするだけの力は私には、無かった」
一ノ瀬は力なく肩を落とし、そこで一度言葉を切った。
それからあの頃のことについて語りだす。
クラスの中にはからかい目的で涼の小説を読んでいた奴もいたが、全員がそうではなかったということ。一ノ瀬自身はこれまで読書にほとんど触れてこなかったし、クラスで出来上がってしまったイメージもあって、素直になれないでいたという。それで一部のクラスメートに変に誤解されたり、結果として涼を傷つけることになってしまった。
彼女自身そのことで深く心を痛めていた。だけど、あの頃の涼は完全にクラスの奴らと距離を取っていたから取り付く島もなかった。表立って孤立していたわけではないけど、完全に上辺だけの付き合いという感じで、休み時間もほとんど一人で過ごしていた。
当時は僕もそんな感じでクラスの人たちと距離を置いていたし、一ノ瀬が涼の小説について話すきっかけも作れなかった。
進学先が涼と同じ白城野学園になったのは本当に偶然だったという。彼女も思うところあって高校ではイメチェンをしていて、涼も気づかなかったみたいだけど、彼女の方は入学前から涼のことを知っていた。だけど、やっぱり中学の頃の出来事について事情を知っていることもあって負い目を感じており、話しかけようにも拒絶されるのではないかという不安が先についてしまって、話しかけられずにいたのだという。
「今日のビブリオバトル、観に行ってびっくりしたよ。宮野さんが司会してるのも驚いたんだけど、なぜか高野が発表者として参加してるし、しかも発表してるのが、宮野さんの小説なんだもん! 私、なんだか無性に泣けてきちゃってさ……」
うっすら濡れた目尻を照れ隠しのように拭いながら、一ノ瀬は今日のビブリオバトルのことを話す。
「初めてビブリオバトルを観たんだけど、みんなカッコいいなって思った。自分の好きなことについて人前であんなに熱弁できるなんて、ホント凄いと思う。高野のビブリオバトル観てたらさ、好きなものを好きって言えないでいる自分が、なんだかちっぽけに思えてきてさ、吹っ切れたっていうか……。その……」
すぅっと息を吸い込んで、大きくつぶやいた。
「あたし、好きだったんだ。ホントに楽しかったんだよ、宮野さんの小説!」
胸に直接響くような一ノ瀬の言葉を受けて、僕は呆気に取られていた。
不意にあの頃、スーパーのフードコートで三人でした会話が脳裏に蘇る。『林檎の樹の下で』について楽し気に語る彼女の感想は嘘ではなかった。そう信じさせるだけの真実味のある言葉だった。
「どうでもいいよ、そんなの」
涼がつっけんどんに一言つぶやいた。
冷たい物言いに、一ノ瀬の顔がさっと青ざめる。
だけど長い付き合いの、幼馴染の僕にはわかる。言葉だけ取れば冷たいけど、声に棘がない。見た目とは裏腹に拗らせ気質の幼馴染は素直に感謝の言葉を言ったりしないのだ。
涼は照れ隠しを気取られないように、後ろ髪を指でくるくる弄りながらつぶやく。
「……昔のことだし。一ノ瀬さんには悪いけど、私にはもうどうでもいいの」
「……ごめんなさい」
「別に。今更、謝らないで。だからその、なんていうか……」
涼のもじもじが一層加速した。
そっぽを向くようにして、言葉を続ける。顔が真っ赤だった。
「今はまだ話も完結してないし、誰かに見せるような状態じゃないんだ。このノートだって、さっき悟に返した貰ったばかりで、続きを考えるのもずいぶん久しぶりだし。すぐに完結させるのは難しいと思う」
僕の方をちら、と見つめてから。耳まで赤くなった顔で、手に持っていた小豆色のキャンバスノートを握りしめる。
「でも、いつかお話が完結した時……また小説読んでくれるかな?」
その言葉に一ノ瀬は涙ながらに頷いた。
今こうして、涙ながら手を取り合っている涼と一ノ瀬を見ていると、僕らのすれ違いによって拗れた時間は無駄じゃなかったように思えるのだ。
傍で見ていた僕もなんだか胸にこみあげてくるものがあって、なんだろう……目からしょっぱい雫が垂れそうになるのを我慢していた。
だけどノートのページを見つめて、小説のことを話している二人を見ていたら、いつの間にかこぼれ落ちた雫が頬を濡らしていた。
「あ、高野が泣いてる」
「うるせぇ、泣いてねぇよ! 汗だ、汗!」
「強がり言っちゃって! 悟は昔からそういうとこ変わんないよね」
壊れたって、また戻せばいいのだ。
人間関係は砂上の楼閣だとか、すぐにヒビが入るガラスみたいだって、色んな小説や本で書かれているけど、僕もそう思う。まだ大人になり切れていない僕らの関係は、つまんないプライドとか、相手のことを考えすぎる優しさとか、そういうフワフワしたものであっけなく壊れてしまいがちだ。
壊れてしまったら、直せばいい。ただそれだけの、簡単なことなんだ。
些細な思いのすれ違いを拗らせて、僕らは中学の頃からずっと、互いに互いの距離感を気にし続けてきた。こうやって、面と向かって本音で話し合うことができれば、絡まった糸が解けるのも一瞬だったっていうのに。それに気がつくのに、随分と遠回りしたように思う。だけど、その遠回りは決して無駄じゃなかった、と僕は思う。
一度絡まってしまって、長い時間がかかってほどけた三人を結ぶ糸は前よりもずっと強くなっているように思えた。あの頃みたいに、僕をからかって笑顔を見せる一ノ瀬と涼の振アリを見ていると、なんだか不思議とそう思えたんだ。
――うまく言えないし、恥ずかしいから口には出さなかったけどさ。
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