第29話 前を向くために走れ

「えっと……まず説明すると、ビブリオバトルっていうのは、五分間で自分オススメの本を皆にアピールします。全員の発表を聞いた後に……」


「あ、あの白石先輩。もう発表始まってますけど……」


「わかってるわ高野くん。それでも雨宮くんもいることだし……」


「観戦者のことは気にしないでください。それとも、白石先輩、自分だけハンデ背負うつもりなんですか? それはベストを尽くして発表した久方に失礼じゃないですか?」


「高野くん……」


「ち、違う! 私はそういうつもりじゃなくて……」


「そこの彼の言う通りだよ。僕のことは背景の一部だとでも思ってくれて構わない」


「観戦者は黙って聞くのがマナーですよ」


「こじらせ進行役の言う通りだな。てめぇは黙って聞いてろ、雨宮」


「鶴松先輩もですよ。次に邪魔した人は進行役の権限で退出させますからね」


「お、おう……すまん」


 僕が凄んで言ったのが珍しかったのか、鶴松先輩はあっさり引き下がった。


 進行役としてビブリオバトルを円滑に進めるのが、今回の僕の役割なんだ。雨宮先輩が突然やって来てビブリオバトルが一時中断してしまったけど、もう余計な茶々は入れさせない。何よりしっかり進行させないと、僕の隣の人に後でこっぴどく言われかねない。

 誰より今回のビブリオバトルにかける思いの強かったであろう鳴瀬さんは、さっきからずっと自分の発表順が来るのを心待ちにしているのだ。先輩たちのいざこざはどうでもいいから、さっさとビブリオバトルを進行しろ、という圧がひしひしと伝わってくる。


 眼鏡をかけ直してから、白石先輩の方を向いて言った。


「そういうわけですから白石先輩、続けてどうぞ」


「……わかったわ」


 白石先輩は気持ちを切り替えるために制服の襟を正すと、手元の文庫本の表紙を皆から見えるように見せる。ページの焼け具合から見て、随分古い文庫本らしい。古本屋で見つけてきたのだろうか? 表紙は特段変わったことのない、単調な模様が描いてあるだけの表紙だ。書店で超有名な純文学小説なんかの表紙みたいだけど……。


「……コホン。今回、私が皆さんに発表する本はこれです!

 じゃん! 『走れメロス』!」


 やっぱりか~っ! 白石先輩、今回は何を発表するのかちょっと期待してたけど、やっぱり前回同様、誰もが知ってる超有名小説の紹介か~!


 ちらと周りを見渡す。ビブリオバトル初観戦の雨宮さんは別として、鶴松先輩も久方も鳴瀬さんも、皆一様にじとーっという目で『走れメロス』を掲げた白石先輩を見ていた。

 うん、皆の気持ちが僕にもにわかるよ……。前回『坊ちゃん』の発表の時と同様、今更白石先輩がビブリオバトルで取り上げなくとも、誰もが知る有名な小説だ。正直、またか……と思わずにはいられない。


 自分のオススメの本を紹介するのはビブリオバトルとして本来のスタイルだろう。僕は何も、誰もが知る有名な小説だからって発表しちゃダメだとかそういうこと言いたいのではない。だけど、ビブリオバトルで自分の知らない本が知りたいっていう気持ちは参加している皆も、少なからずあると思う。

 そういう意味では前回の鶴松先輩が紹介した本や、今回の久方の攻略本にしても、知らない本や普段自分では手に取らない本を紹介してもらうことで、興味を持って読んでみようというきっかけにもなるんだ。だから、誰でも知ってる小説をこの場で紹介されても、なんだかちょっと損した気分に感じてしまうのだ。まぁ、そうは言っても、前回、白石先輩の発表を聞いてから、図書館で『坊っちゃん』を借りて読んでたんだけどね。


 とにかく、皆が知ってる『走れメロス』を、白石先輩はどうアピールするのか気になる所である。


「えー…………みんながそんな反応をするだろうことはわかっていたわ。前回もそうだったものね。でも! ビブリオバトルの後、きっとみんな、メロスみたいに校庭を走りたくなるはずよ!」


 白石先輩が好きな本を紹介する時のバイタリティは頭抜けているようなものがある。……だけど僕らは陸上部じゃないし、校庭を走ることはないと思う、たぶん。



「今回紹介するのは太宰治の短編集で表題作の『走れメロス』以外にもいくつか短編が収録されているんだけど、今回は『走れメロス』に絞って紹介するわ。

 さてと。まずはストーリーの紹介よね……とはいえみんなも大体知ってるだろうから、おさらい程度ね。


 主人公メロスが悪政の噂を耳にし、暴君ディオニスに直談判するところから物語は始まるわ。勝手に城に入ったことがバレて、メロスは処刑されることになってしまうんだけど、死に際の情けとして、妹の結婚式のために、親友のセリヌンティウスを身代わりに、三日以内に戻ってくると誓いを立てる。

 人を信じないディオニスはメロスが殺されるために戻ってくるわけないと嘲笑うのだけど、メロスは約束を守ると言い張り、村に帰るわ。それから約束通り城へ戻るメロスだけど途中、氾濫する川や盗賊の襲撃など、様々なトラブルに遭いながら、死に物狂いで城まで走る。

 約束の刻限までギリギリのところでメロスは友セリヌンティウスのもとに到着し、互いを真に信じ合ったメロスとセリヌンティウスの姿に胸を打たれ、暴君ディオニスもまた人を信じる心を取り戻すという、感動的なストーリーよ。


 さわりだけ話すつもりだったのに、つい最後まで話してしまったわ」



『走れメロス』……中学の頃に国語の教科書で読んだっけなぁ。


「メロスは激怒した」から始まる物語で、主人公がいきなり激怒してるところからスタートする物語に苦笑してしまった記憶がある。最後の全裸エンドには男子が中心となってネタにしていた。

 おっと、バカなこと考えてないで、白石先輩の発表をちゃんと聞かないとな。



「作者の太宰治と言えば『人間失格』が特に有名だけど、メロスだって、『人間失格』に劣らない素晴らしい作品よ。私が『走れメロス』をオススメするのは、この作品が非常に等身大の物語と思うからよ」



 友人を身代わりにされているとはいえ、メロスは処刑されるために城へ戻る。そんな真似、中々できることじゃあない。白石先輩が言う、等身大の物語ってどういうことなんだろう?



「私たちは毎日様々なことに悩み、葛藤しながら、それでも前を向いて生きていかなきゃいけない。後ろばかり向いていては何も始まらないもの。数学なんて身の毛がよだつほど嫌いだけど、試験前はそうも言ってられないじゃない。嫌でもやらなきゃいけないことって結構あるもの。

 でもいざやろうと思っても、そこには誘惑が付きものよ。

 冷蔵庫で美味しいシュークリームを見つけたり、いつの間にか本棚から小説を引っ張り出して読んじゃったりね。後で大変なことになるのは自分でも重々承知しているのだけど、ついつい現実逃避しちゃうことってあるもんね。

 しょうもないエピソードに聞こえるかも知れないけど、『走れメロス』の話と似ていると思わないかしら?」



 白石先輩の話をきょとんとした顔で聞きながら、僕は一分前を知らせる鐘を鳴らす。先輩は、中指で分厚い眼鏡の位置を直してから、また話を再開する。



「……時間が過ぎるのは早いわね。

 メロスだってセリヌンティウスを助けるため、暴君ディオニスに人は信じ合えることを示すために城へ走るのだけど、道中何度も葛藤したわ。妹の結婚式の幸せの余韻に浸りたくて寝過ごしてしまったり、疲れ果てて、自分は頑張ったから良いではないかと全部投げ出してしまいそうになったりね。

 ここからわかるのは、物語の中で主人公のメロスは私たちと同じように悩み、葛藤する等身大の人間として描かれているっていうことよ。太宰治は人間の感情の機微を描くのがとても上手な作家だと思うけど、『走れメロス』では感情がネガティブになってしまう過程、そしてそこからポジティブな気持ちへ変化する過程が細かく描かれているわ。メロスも物語の中で一度現実逃避してしまうけれど、そこから再び立って走り出すまでの心の動きがとってもリアルに書いてあるの。

 だからみんなも是非、『走れメロス』をもう一度読んでみて。ちょっと青臭い言い方かもしれないけど、きっと私たちが現実逃避せずに前を向くためのヒントになるんじゃないかって私は思うの。……今、後ろ向きな人は特に……ね」


 白石先輩はレンズの端で僕を見つめると、伏し目がちにそうつぶやいた。

 それから白石先輩は僕を見つめながらまだ何か言いたげに口を開いたけど、今は、ビブリオバトルの最中だし時間は厳守だ。発表時間の五分が過ぎたので僕は白石先輩から目をそらし、終了の鐘を鳴らした。




 国語の教科書で初めて読んだ当時はネタにしか思えなかった『走れメロス』だけど、真面目に読むと非常に感動的なストーリーであるのは間違いない。メロスとセリヌンティウスみたいに互いに互いを信じ合える友情って素敵だと思う。


 続いて質問タイムに移って、初めに挙手したのは鶴松先輩だった。


「ちょっと嫌な予感がするが一応聞いておくぞ。今回の発表で『走れメロス』を紹介したのは何かわけがあるのか?」


 白石先輩は鶴松先輩の問いに笑顔で即答した。


「趣味です」


 やっぱりか。そんなことだろうと思ってましたよ。

 でも、趣味で本当に好きな本だからこそ、あんな風に熱の入った発表ができるんだろうな。

 白石先輩の淡泊極まりない回答を聞いて、鶴松先輩も二の句が継げないようだった。


「はいはい! 俺も質問あります!

 メロスは俺も教科書で読んだことありますけど、授業で初めて読んだことのせいかもしれませんが、どうしても勉強の本って感じちゃうんっすよ。先輩の発表は引き込まれたっすけど、勉強嫌いなヤツでも楽しめますかね?」


 久方はぼんやり聞いているようでいて、こういう鋭い質問をするから侮れない男だ。


 彼が言うように、イメージというのは重要な指標だ。


 例えば、普段久方が読んでいるような表紙が萌え萌えしいラノベを見て、「オタクっぽい」というイメージを持った人がいたとする。その人はおそらく他のライトノベルに関しても「オタクっぽい」という先入観を持ってしまい、実際に読んだら面白い本だったとしても、まだ内容を読まないうちから、自分にはつまらない本だと決めつけてしまうかもしれない。

 これはちょっと極端な例だったかもしれないけど、一度抱いた先入観を無くすことは容易ではない。かくいう僕も、最近白石先輩に勧められるまで、いわゆる純文学小説を「なんか難しそうだから」という先入観で読むのを躊躇っていたのだ。


 国語の教科書で初めて読んだ『走れメロス』に対して「勉強の本」という先入観を持ってしまうのはきっと久方に限ったことじゃないと思う。それに作者の太宰治になんとなく暗いイメージを持っている人も多いんじゃないかと思う。


「そうね……。だけど、みんなが国語の授業で習ったお話っていうのは、一つのアドバンテージになると私は思うわ。一概には言えないけど、前に勉強で嫌々読んでいた本を、時が経ってから自分で読み返すと、当時とは違う感想を抱くものよ。和也くんは国語の勉強は苦手?」


 久方は少し考え込んでから、つぶやいた。


「……苦手ですね。問題文になるような文章に出てくる主人公って、みんななんつうか、高野くんみたいに色々こじらせてて、余計なこと考えるタイプ多いじゃないすか」


「……え? なんで、さりげなく馬鹿にしたの?」


「なんか自分としては感情移入できなくてですね。美少女出てこないし、挿し絵もないし」


 そんな国語の問題、嫌だ。白石先輩は苦笑いしつつ話をする。


「あはは、そうだね……。だけど、あくまで私の考えだけどね、和也くんみたいなタイプの方がずっと物語を純粋に楽しめると思うよ。私は太宰の作品もかなり読み込んでる方だけど、どうしても読んでいる間に他の作品が脳裏にちらついちゃうのよね。だから面白くないってわけじゃないんだけど、無意識のうちに比較しちゃうというか……うーん言葉にしづらいなぁ」


 すると話を聞いていた鳴瀬さんが、ふと、思いついたように口を開く。


「それってもしかして同じ監督のホラー映画で、撮影の癖に気づいたり、映画ごとの関連を心の中で勝手に考えちゃうアレに似てますよね」


「そうそうそんな感じ! 麻衣ちゃんが言うように、無意識にうちに他の作品のこと考えてることがあって、それは純粋にメロスだけを楽しんでるのかな、って思って。その点、ほとんど初めて読む作家の場合はそんな心配ないでしょ。

 だから私はむしろ和也くんが羨ましいな。まっさらな気持ちで『走れメロス』を読むことが出来るんですもの」


「そっかぁ…………。

 そう言われると、俺もちょっと読んでみたくなったっすよ『走れメロス』」



 そこで時間がやってきて、僕はチン、チン、チーン! とリズム良く手元の鐘を鳴らした。


 前の発表でもそうだったけど、白石先輩は落として上げるのが上手いよなあ。

 始まってすぐは、また先輩の趣味全開の誰もが知る小説シリーズか……などと思っていたが、発表を聞いた後には、不思議とその本が読みたくなっているのだ。久方が読んでみよっかな、とつぶやいていたが、僕も彼と同じ気持ちだった。話の流れだって知っているのに、なぜだかもう一度読み返してみたくなったのだ。


 それは白石先輩の紹介が上手だったのもあるけど、きっと理由はそれだけじゃなくて、『走れメロス』がそれだけ魅力的な物語だからなんだろうな。

 それに……発表の最後に白石先輩が僕に向けて何か言いたそうにしていたのも、僕にこそ『走れメロス』を読んで欲しいっていうメッセージに感じたし。

 ……白石先輩もおせっかいなところ、あるよなぁ。



 あれからずっと大人しくビブリオバトルを見学していた雨宮先輩は、白石先輩の発表が終わった後も、楽しげに笑うことなく、かといって皮肉や文句を言うでも無く、ビブリオバトルに興じる僕らを眺めていた。

 白石先輩の発表を聞いてどう思ったんだろう……?

 興味を持ってくれたのか? それとも、つまらなかったのか?

 表情の無い顔からは雨宮先輩の感情が読み取れない。

 発表の間も一切、感情の機微を見せず、まるで全部の色が抜け落ちて透明になってしまったんじゃないかと錯覚してしまうような雨宮先輩の瞳が、僕の目にはなんだかひどく不気味に映った。

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