第37話 高校デビュー

 僕は動揺を紛らわそうとコップの水を一口飲む。


「それは、その……」


 しどろもどろにつぶやいた。水を飲んだくらいで動揺は収まらなかった。


 なぜ……いつから鳴瀬さんは気づいていた?


 彼女の指摘通り、僕がかけているのはレンズに度が入っていない伊達眼鏡だ。本当は視力だって悪くない。中学の頃は眼鏡をかけていなかったし、高校に入ってすぐの視力検査でも1.5くらいあったはずだ。伊達眼鏡をかけるようになったのは高校に進学してからだ。

 まさかバレるとは思っていなかった。僕はもともとクラスで目立つ方の生徒じゃないし、そもそも僕なんかに興味を持つ人なんてごく一部に限られるだろうから。そうなるように意図して目立たないよう振る舞ってきたというのもある。最近は文芸部に入ったせいで、ゲスな先輩や文学少女な先輩や委員長やおたく野郎とも親しくなったけど、僕の交友範囲なんて所詮その程度だ。


 僕の伊達眼鏡が鳴瀬さんにバレても、別にどうということはない。聞かれなかったから、自分から答えることもなかった。ただそれだけの話だ。だけど……気づいてほしくなかった。たとえ気づいても放っておいてほしかった。そんな風に思う自分が心の片隅にいた。


「高野くん?」


 鳴瀬さんが僕の顔を下から覗き込むようにして見つめていた。

 眼鏡を外してテーブルに置き、ふぅと小さく息を吐く。


「鳴瀬さんが言うように、これは度の入っていない伊達メガネだよ。別に隠していたわけじゃないけど…………僕の顔なにかついてる?」


「いや、その……メガネ外すだけでこうも印象変わるもんかぁ……と」


 鳴瀬さんの興味津々な眼差しを至近距離で受け、僕はこみ上げてきた恥ずかしさから視線を横へそらす。彼女の頬にはほんのり朱が差していた。鳴瀬さんも照れていたのかな……? 僕にはどうして彼女の気持ちが分からなかったけど、気づけば僕の頬も熱くなっていた。


「……んっとね。よければ教えてよ。なんで伊達メガネなんてかけてたの? えっと、その、なんていうか……高野くんってメガネかけなくてもカッコいいし、むしろかけない方が……って違う違う!そうじゃなくて!」


 一人で勝手にしどろもどろになっている鳴瀬さんが可笑しくて、僕は小さく笑った。こんなに隙だらけで自分をさらけ出している鳴瀬さんを見るのは初めてだった。一方で、自分のことを誤魔化してばかりで、鳴瀬さんに本当の自分を見せないでいる自分がひどく矮小に思えて自己嫌悪に陥る。


 そんな自分自身に反発するかのように、そうするつもりはなかったのに自分の意志とは関係なく、自然に口が開いた。


「高尚な理由を期待されると困るけど、まぁその……高校デビューってやつだよ」


「高校デビュー? 高野くんが?」


「うん。せっかく高校に入って、人間関係が一新されるわけでしょ? ちょっとイメチェンっていうかさ」


 思わず口をついて出た言葉は嘘ではない。全部が本心でもないけど。高校進学を機に、違う自分になりたいという気持ちはあの時の僕にも少なからずあった。以前のことを振り返りたくないという気持ちもあっただろうけど……。


「まぁわからないでもないけど……髪型を変えるんじゃなくて、メガネをかけるって珍しいね」


 そうだろうか? そんなこともないと思うけど……身近に知り合いはいないし、高校デビューの基準は僕にはわからない。

 涼はそんなに変わってなかったな。制服が変わったくらいで、長い三つ編みも前と変わらない。バス停で出会ったときの涼の制服姿が不意に目に浮かんで、僕は自分の制服を見た。ブレザーの袖についている、まだ綺麗なボタンを見ていると、前に涼と交わした会話が脳裏によみがえる。



「涼はさ、もう高校決めた?」


「私? 決めてるよ?」


「へぇ、どこ志望?」


「ふふ。悟とおんなじ学校にしよっかな~」


「なにそれ。ちゃんと自分で決めなよ」


「そういう悟はもう決めたの?」



 ――そんなたわいもない会話を思い出して、何かを詰まらせたように胸の辺りがきゅっと重くなった。


 涼には言わなかったけど、僕も彼女と同じ学校へ行くつもりでいた。どうしてって聞かれると答えに困るけど……それが当然のことのように当時の僕は思ってた。幼稚園からずっと一緒で、もはや腐れ縁と言っていいくらいの幼馴染みで、高校も大学も、具体的な姿は想像できないけどその先もきっと……。なんとなくずっと一緒にいるもんだと思っていた。結婚したいとかそういうドラマティックな感情ではなかったけど、いつも近くにあいつがいるのが、僕にとって当たり前の日常で、ずっと変わらずにいるものだと思っていた。


 ――中学二年のあの時までは。



「大丈夫?」


 鳴瀬さんの声にはっと顔を上げる。


「なんかさっきから気分悪そうだけど……。具合悪いなら、今日は解散にしよっか?」


 鳴瀬さんは心配そうに僕を見つめる。その瞳は不安げに揺れていた。

 彼女を元気づけるように、僕は少し無理に笑ってみせた。


「あはは大丈夫。心配かけてごめん」


「あのさ」


 鳴瀬さんは一言つぶやいて、姿勢を正し、まっすぐに僕を見つめた。透き通るような彼女の瞳が僕の目を捉えて放さない。


「ウチの考えだけど……高校デビューのきっかけって自分を変えたいとかそういう理由が多いと思う。異性に全くモテなかったから新しい環境では自分を変えて頑張ってみよう、とか。同級生に何かいざこざがあったとか、何かそういった理由」


「…………」


 鳴瀬さんの話を聞きながら、僕は沈黙を保っていた。お互いに目を合わせながらも、しかし、会話は一方的だった。実際には鳴瀬さんは何も言わなかったけど、射貫くようなその目が、僕の心に直接語りかけているようだった。

 だから鳴瀬さんの言葉は重かった。避けようとしても彼女の目がそれを許してはくれない。首筋を冷や汗がつーっと伝う。


「高野くんってさ――」


 その瞬間、店内のBGMとか空調の音とか他のお客さんの会話だとかそういった雑音がすべて消えた。届いた鳴瀬さんの言葉がやけに大きく、やけにはっきりと感じられ、それが否応なしに僕の胸中を揺さぶった。


「――中学で何かあったの?」


 静かに僕を見据える彼女の瞳は、誤魔化しても無駄だと、言外に言われているように思えた。


 僕は自分のことを話すのが得意ではない。だから普段から聞き役に徹していることが多いし、実際オタキングとだって、僕の話というより、彼の話を聞いてばかりだ。彼の性格もあるのかも知れないけど。

 自分の身の上話をすることで、相手を自分の面倒に巻き込むのが嫌だった。変に同情されるのも嫌だし、相手との関係性が変わることを恐れていた。なのに何故だろうか……。


 沈黙する僕に何も言わずに、澄んだ瞳でただまっすぐに僕を見つめる鳴瀬さんを見ていると、彼女にだけは自分のことを話してみたくなった。あるいは僕は彼女に何か言ってもらえると期待しているのか? いや、そんなわけない。だけど不意にぽっと沸いたこの気持ちはなんだろう。


 喉がやけに渇いていた。


 店員さんが持ってきた料理がテーブルの上に置かれた。僕たちは運ばれてきた料理には目もくれずに、お互いに沈黙したまま互いを見つめていた。熱いパスタから湯気が静かに上っている。


「……面白い話じゃないよ。それでも……聞いてくれるの?」


 鳴瀬さんはただ黙ってこくりと首肯した。

 そんな彼女の様子を見て自嘲気味に微笑して、ぽつりぽつりと語り始める。

 あの日のことを脳裏に思い浮かべながら――。

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