君の声がきこえる②

揚村アゲムラ珈琲店』の扉を開けると、からん、と聞き慣れた音がした。それとほぼ同時に、コーヒーとバニラの匂いがふわりと鼻腔を掠めていく。

「やぁ、いらっしゃい」

 カウンターの向こうで、エプロン姿のマスターが軽く片手を上げている。その隣にはユナが立っていた。

「あっ……クオンさんとハルカさん。こんにちは!」

 ぱぁっと花の咲くような笑顔が向けられる。

「どうも」

「こんにちは」

 それに応えて店内に入ると、カウンター席にキッカがいた。その奥には案の定ソウマの姿もある。ランチの営業時間が終わった後なので、他に客はいない。

「二人とも久しぶり。相変わらず仲良いな」

 何の気なしに言った言葉だったが、ソウマはむっとした表情になった。

「……あんたらも相当暇だな」

「ソウマ……その発言は複数の方面に喧嘩売ってる上に、ブーメランだ」

 静かな口調でキッカがそう言うと、マスターが苦笑する。

「ほんと、ソウマくんってさぁ……男のツンデレなんて面倒臭いだけだよ」

「誰がツンデレだ」

「あんただよ」

 キッカに冷たく言い放たれ、ソウマは更につまらなそうに眉根を寄せた。

 マスターがハルカに顔を向ける。

「ハルカさん、体調は?」

「えぇ、おかげさまで」

 ハルカがふんわり微笑んで、キッカの席の横に腰を下ろす。ケイイチはその隣の席に着いた。

「……できたぁ!」

 こちらに背を向けて何やら作業をしていたユナが声を上げた。目をきらきらさせながら振り返り、カウンターのテーブルの上に大皿を置く。

「試作品のスペシャルパンケーキです!」

 その皿には厚さ二センチ、直径二十センチほどのパンケーキが三段重ねで置かれ、その上におびただしい量の生クリームがうず高く積まれていた。生クリームの周辺にはバニラアイスと粒あんの小さな丸い塊が二つずつ交互に配置され、全体的に抹茶と思しき粉が振り掛けられている。

 ケイイチはぽつりと呟く。

「これまた凄いもの出してきたな……」

「そして仕上げに黒蜜を——」

 ユナが陶器のミルクポッドを高く掲げ、褐色の液体を生クリームの山の上からどぼどぼと回し掛けた。

 女二人が小さく歓声を上げる一方、ソウマは顔を引き攣らせている。

「いや、ちょっと……掛け過ぎじゃないか……?」

「よし、じゃあ切り分けまーす」

 この状態でどう切るつもりなのか。

 四人が見守る中、ユナはまず大きめのスプーンでパンケーキの上に乗っているものを脇に退けた。そしてナイフとフォークを手に取る。

「退かすのか……」

 ソウマの突っ込みに心の中で同意する。

 斯くして、抹茶混じりの大量の生クリームとアイスと餡子に埋もれた黒蜜塗れの、綺麗に四等分されたパンケーキが、各人の前に配布された。

「いただきます」

 真っ先に手を合わせたキッカに倣って、それぞれの「いただきます」が続く。絶妙に危ういバランスで盛られたそれをそっとフォークで切り崩し、口に運ぶ。

 甘い。大体想像通りの味だが、餡子と黒蜜がねっとりと舌に絡んで少しくどいような。ハルカは隣で「うん、美味しい」などと呟いている。

 キッカとソウマは、それぞれ手で口許を押さえていた。しかし二人の顔に浮かんだ表情は対照的だ。

「罪深い……」

 ぽつりとキッカが零すと、ソウマが眉根を寄せる。

「……何だよ『罪深い』って」

「病み付きになりそう……」

 キッカが左手を頬に添え、うっとりと目を細める。こういう時の彼女は少し色っぽい。

「タチバナ……いつも思うが、お前の食い物に対するその妙なテンションは一体何なんだ。わざとやってんのか? それとも天然なのか?」

「ポリシーだ」

「天然か」

「これ、白玉を足してもいいかも知れない」

「は? これ以上?」

「一緒に塩辛いものを食べたらバランスがいいかも。焼きそばとか」

「お前に引き算の発想はないのか」

 キッカがソウマを睨む。

「いちいちうるさい」

「……マスター、試食の人選を誤ったんじゃないか?」

 水を向けられたマスターは、生温かい目で二人を眺める。

「うん、とりあえずなぜ夫婦めおと漫才を見せられてるんだろうって気分だよ」

 ケイイチとハルカが同時に笑い出す。見事なテンポの応酬を繰り広げた二人は、互いに憮然としている。ミズコシの言っていた通り、確かにこの二人がいたらさぞかし賑やかだろう。

「あの……」

 ユナが不安げな顔で口を挟む。

「どうですか……?」

「女性は好きだろうな。後から黒蜜を掛けるのも、パフォーマンスとしては面白いと思う」

 ケイイチが卒のない意見を言うと、ハルカとキッカがうんうんと頷く。

「俺はちょっと微妙と言うか……トッピングはなしでもいいぐらいだな。これはさすがに盛り過ぎだろ」

 ソウマの率直な感想も、ユナはきちんと受け止めている。

「あ、それじゃあ……」

 ハルカが挙手する。

「トッピングは組み合わせ自由にしたらどうかしら。そうしたら、たくさん盛りたい人も少しでいい人も頼みやすいでしょう?」

 ユナの目が輝いた。

「ハルカさん、それいい考え!」

「確かに、それなら選ぶ楽しみもあっていいかも。だったらやっぱり白玉も追加で」

「うん、ありがとう! 白玉採用!」

「……そうは言っても、問題はコストと手際だね」

 マスターの言葉に、ユナの顔が強張る。

「組み合わせ自由のトッピングはいいとしても、常にそれだけのものを準備しとくとなると、仕入れや保存のことも考えなきゃね。生クリームも毎回それだけ使うかっていうと、要検討かなぁ」

「はい……」

 しゅん、と肩が落ちる。

「パンケーキはそもそも焼くのに時間が掛かるものだけど、それにしてもちょっと掛かり過ぎ。盛り付けも、もう少し手早くやった方がいい。見た目も大事だけど、お客さんをお待たせせずに、一番美味しいタイミングで提供するのも大事だからね」

「はい……」

「でも、このパンケーキ自体の味のバランスはいいね。甘さ控え目だけど、淡白にもなり過ぎてない。弾力もちょうどいい」

 ユナは顔を上げ、真ん丸に目を見開く。

「スイーツだけじゃなくてお食事系パンケーキにしてもいいんじゃない?」

 見る見るうちに、瞳の中に光が漲ってくる。

「……うん、じゃあ今度はお食事系のメニューも考えてみる!」

 くるくる変わるユナの表情。見ているこちらが元気になる。

『クオン』として、ハルカを目覚めさせる手掛かりを探して訪れたこの店。いつしか自分にとって、日々の生活の中に当然のように存在する、掛け替えのない場所になっていた。それはハルカと再会し、『ケイイチ』に戻った今も変わらない。変わらずいられるということに、何よりも気安さを感じていた。

 カウンターに並ぶ友人たち。早々に自分の分を平らげたキッカが、ソウマの皿に手を付け始めている。それを眺める彼の顔は、呆れを前面に出しつつもどことなく甘い。

 キッカの食欲を初めて目にしたハルカが、「どうして太らないのか」などと訊いている。それを皮切りに、太い細いを巡って女同士の不毛なやり取りが続く。ハルカがこんな風に同世代の友人と他愛のないお喋りをしているのは、なんだか新鮮だった。

 不意に、ユナと視線が合った。その目が小さく見開かれ、驚いたような表情になる。ケイイチが小首を傾げると、ユナは口角を上げてそっと微笑んだ。

 一瞬、違和感を覚える。こんな大人びた笑い方をする子だっただろうか。最近よくキッカと一緒にいるようなので、その影響なのかも知れない。

 コーヒーカップに口を付ける。深いコクと苦味の中に程よい酸味が混じり、爽やかな気分になる。休日の午後の時間が、ゆったりと流れていた。


『揚村珈琲店』を出たところでキッカやソウマと別れ、自宅へと戻った。

 休みの日はケイイチが夕飯当番なので、やっと一人でもできるようになったカレーライスを作った。ダイニングテーブルに差し向かいに座り、他愛もない話をしながら食事を摂る。ハルカが後片付けしようとするのを押し留めて、ケイイチが食器を洗った。

 平和な、いつも通りの休日。このまま何事もなく一日が終わるものだとばかり思っていた。

「ハルカ、風呂の準備しようか」

 洗い物の後、そう声を掛けた。ソファに座った後ろ姿。点きっ放しのテレビ。

「ハルカ?」

 返答がないので、ソファの背面から覗き込む。

「……ハルカ?」

 最初、眠っているのかな、と思った。

「……ハルカ!」

 顔が、真っ青だった。

 眉間には皺が刻まれ、蒼ざめた唇からはピッチの速い呼吸が漏れている。手を握ると、指先は氷のように冷たい。

 さぁっと血の気が引いた。肩を抱き、何度も何度も名前を呼ぶ。反応がない。

 思考が停止する一方で、身体は勝手に動く。意識を失ったハルカをソファに横たえ、まずは病院に電話を入れた。救急車を待つ間、心臓マッサージと人工呼吸を行なう。その五分間は、まるで永遠のように感じられた。

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