その飢えを欲する③

 店を出て、二人はゆっくりと商店街を歩いていた。軒を連ねる店の大多数はシャッターが下りている。アーケードに取り付けられた電灯のいくつかは配線が切れており、辺りは不気味に薄暗い。

 周囲に人影はない。彼女のヒールがアスファルトを打つ音が、寂しげに響く。

「この辺りは犯罪が多いみたいだな。スリとか強盗とか、クスリ絡みの事件も」

「不審者も結構出るし、夜なんて女子は一人じゃ出歩けない。私、ユナちゃんの護衛でもしようかな。この季節は日が暮れるのも早いし」

「お前も女だろ」

「私がやられると思う?」

 例の一件でアニュスデイ兵にレイプされかけたのはどこのどいつだ。

「……どんな奴がいるか分からないし、あんまり危ないことはするなよ」

「まぁ……無茶はしないけど」

 彼女は少し憮然とした顔になった。

 せっかく力があるなら、誰かを助ける方に使いたい。以前、彼女はそう言っていた。工作員時代に人を殺めたことを後悔しているのだ。しかし自ら身を危険に曝すようなことをするのは、要らぬトラブルの素である。

「そう言えば、最近はちゃんと寝られてるのか?」

「え?」

「前に、いろいろ悩んでうまく寝られないとか言ってただろ」

「あぁ……うん、まぁ、そこそこかな……」

 微妙な返答。すかさず沈黙が滑り込んでくる。

 なんだか気まずい。こっそり隣を窺うと、その横顔はどこか怒っているようにも見える。

 彼女に伝えるべき言葉があったはずだ。だが、そのためのタイミングを掴もうにも、未だに気持ちを定め切れずにいる。正体不明の何かが、ソウマを引き留めていた。

 ややあって、再び彼女が口を開く。

「ソウマは? 最近どう?」

「どうって?」

「このところ、少しぼうっとしてる気がする。何と言うか……ちょっと張り合いがない」

 一瞬、ぎくりとする。

「……そりゃ、仕事もしてないしな」

 かつん、かつん。ゆったりとしたペースで刻まれる足音が、なぜだか心を急かす。棘を待たない彼女の存在が、胸の奥を掻き乱す。

 先に自分から問うた手前もあり、つい、ぽろりと零してしまった。

「……最近、夢を見るんだ」

「夢?」

「任務中の夢」

「……どんな?」

 彼女の唇から漏れた白い息が、ふわりと浮かんで空気中に霧散した。

 淡いグレーのコクーンコートを羽織った今の彼女には、黒いボディスーツに身を包んだかつての彼女は重ならない。だが、見上げてくる瞳の奥に、あの冷たい光をつい探してしまう。

「……ある建物に潜入中で、俺はターゲットの始末をすることになってるんだ。一つのミスも許されない張り詰めた空気の中で、動き出す合図を待ってる。頭の中で作戦の内容を何度もシミュレーションしながら」

「うん」

「全神経を研ぎ澄まして、暗闇を進む。対峙したターゲットに、俺は銃を向ける。相手は俺に命乞いをする。だがどうあっても、俺はそいつを殺さなきゃならない。狙いを定めて、引き金に指を掛けて——」

 身体の芯が熱を持ち始める。僅かに逡巡しゅんじゅんした後、ソウマは吐き出すように言った。

「——酷く、興奮してるんだ。自分がしようとしてることに」

 唇が、震えていた。自嘲気味に口許が歪む。

「引くだろ? 自分でもおかしいと思うよ。だが、あの触れたら切れそうな緊張感の中で、俺は——」

「確かに生きてる、そういう実感があった?」

 驚いて、顔を向ける。静謐とした眼差しが、ソウマに注がれている。

「分かるよ、それ。他のことでは、あんな感覚は味わえないから」

 その視線がそっと伏せられる。

「仕方ないよ。私たちのしてた仕事は普通じゃなかった。何もおかしいことなんかない」

「でも、俺は……」

 言いかけて、口を噤んだ。小さく首を振り、わざと明るい声を出す。

「いや……何でもない。悪かったな、変な話して」

「……そう、それならいいけど」

 明らかに釈然としていない口調だったが、気付かないふりをした。

 うっかり夢の話を持ち出してしまったことに、羞恥にも似た後悔が頭の中を渦巻いていた。隣を歩く彼女の顔を見ることもできない。

——きっと彼女は軽蔑するだろう。本当のことを、言ってしまったら。


 アーケードを抜けると、川沿いの遊歩道に出た。等間隔に並んだ街灯が多角的な影を作り出している。

 先ほどから互いに無言のままだ。時おり吹く川からの冷たい風が髪を煽っていく。

 彼女が不意に、小さくくしゃみをした。

「……寒」

 そう呟いて、口許を押さえた両の掌にそのままほうっと息を吹きかける。

 彼女のコートは、この季節にしては少し薄手だった。襟ぐりから覗く首筋が心許ない。

 ソウマは自分が巻いていたマフラーを外し、彼女に差し出した。

「ほら、これ巻いてろ」

 彼女は一瞬それに目を留めたが、すぐに首を横に振った。

「ありがとう、でも大丈夫。あと少しで家だから」

 確かに、彼女の家まではあと幾ばくもない距離だ。だが、マフラーを持つ手を引っ込めることはできなかった。行き場を無くして宙ぶらりんになった気持ちが、小さな焦燥を呼ぶ。

 別れの時が近づきつつある。今日という一日が終わろうとしている。

 夜が、迫ってくる。

 ソウマは彼女の腕を掴んで無理やり立ち止まらせ、強引にマフラーを巻き付けた。

「いいから、巻いてろ」

 少し驚いたような顔をしていた彼女だったが、やがてふわりと頬を緩めた。

「また借りが増えた」

 ふふ、と彼女の唇から零れた密やかな声が、優しく耳朶をくすぐる。

 それは風に揺れる野菊のような、可憐な微笑みだった。何のしがらみも意図もない、飾らぬ本当の笑顔だった。

 心の脆い部分が、強く締め付けられる。胸が苦しい。今にも息が止まりそうだった。

 いつの間にか彼は、その花弁のような唇に、そっと口付けていた。

 軽く触れるだけのキス。それでも、その温もりや柔らかな感触が、頭の中を甘やかに痺れさせる。

 唇を離し、至近距離から覗き込む。

「『借り』だなんて言うなよ」

 黒曜の瞳が揺れる。視線が僅かに下がり、長い睫毛の影が頬に落ちた。その頬が、見る見るうちに紅く染まっていく。

「……触っていいか?」

 囁くように問い掛けると、彼女はほんの小さく頷いた。

 彼女の耳の下から手を差し込み、癖のない艶やかな髪を指に絡める。その一房を毛先まで梳いた後、肩をぐっと抱き寄せた。

 腕を回した腰は驚くほど細かった。一方で、胸の下辺りに感じる柔らかな膨らみは見た目に反して量感がある。大量の食べ物を詰め込んだ腹が、ちょうど、当たるか当たらないかの位置にあった。

 彼女の手が、そっと背中に回される。抱き締め返してくれた。そう思った瞬間、みぞおちの辺りからどうしようもなく甘い疼きが立ち上ってくる。

 芳しい香りが、ふわりと鼻腔を掠める。それに混じって、彼女自身の肌の匂いがした。

 身体の奥で燻っていた熱が、滾り始めていた。

 首元に顔を埋め、その匂いをもっと強く感じようと鼻先をすり寄せる。すると、頬が冷たいものに触れた。あの、美しい形の、ピンク色をした耳だった。唇を付けると、彼女の身体がぴくりと震えた。

 途端に、そこに思い切り歯を立てたい衝動に駆られる。駄目だ、と制する自分がいる。

 ほんの少しだけ、耳の縁をそっと啄む。彼女は微かに吐息を漏らし、ソウマのコートの背中をぎゅっと掴んだ。

 たがが、今にも外れてしまいそうだった。

 もっと、いろいろな反応を引き出したい。

 もっと、いろいろな表情が見たい。

 もっと——

 あの決戦前夜の、彼女の様子を思い出す。頬を朱に染め、涙を溜めて、それでも気丈に睨み付けてくる彼女の顔。自分自身がそうしたのだという、確かな手応え。それをもう一度、手にしたかった。

 しばし葛藤した後、どうにか彼女の耳から唇を離す。

 ソウマの中で、様々な想いが激しくせめぎ合っていた。

 護りたい。傷付けたい。優しく包み込みたい。滅茶苦茶に壊したい。

 相反する感情がい交ぜとなり、吹きすさぶ嵐のように理性を掻き乱す。暴走しそうな本能に抗い切れず、自然と両の腕に力が込もっていく。

 彼女の身体を、抱き潰してしまいそうだった。乱暴に押さえ付けて、一思いに貫きたかった。

 自分の中に宿る狂気を、放出できる場所はもうない。自分自身が崩壊しそうで、ソウマはみっともなく彼女にしがみ付いていた。

 すぐ耳元で、小さな呻き声が聞こえた。

「……るしい、ソウマ」

 はっと我に返る。力を緩め、ゆっくりと身体を離す。

 僅かに息の上がった彼女は、軽く目を伏せていた。相変わらず紅潮した顔を隠すように、マフラーを口許まで引き上げる。

 強引に巻き付けたマフラー。繋ぎ留めたかったのは、何だったのか。

 波が引くように頭が冷えていく。後に残ったのは、胸の奥にじわりと滲む罪悪感だった。

「……悪い」

 呟くように零した言葉に、彼女は首を振った。瞳には戸惑いの色が浮かんでいる。

 彼女という存在を、一時の欲望で乱雑に消費してはいけない。

 ひゅるりと通り抜ける風が、二人の白い吐息を浚っていく。何度か深呼吸を繰り返してどうにか衝動を鎮めてから、ソウマは口を開いた。

「家まで送るよ。すぐそこだろ」

 彼女の顔も見ずに、足を踏み出した。


 自分は一体どこで間違ってしまったのだろう。

 掴みどころのない彼女に対して、身勝手な劣情を抱いた時か。例の一件で、モリノの言葉を信じて彼女を疑った時か。

 あるいは、そもそもあの計画の被験者となることを承諾した時か。

 もし、タイムマシンがあったら。過去の分岐点にもう一度立って、違う選択肢を取ることができたら。

 彼女のことなど切り捨てて、あのスリルに身を置き続けるだろうか。

 それとも特殊工作員にはならずに、一般市民として平凡な人生を送るだろうか。

 しかし、仮にそれらの道を選んだとしたら、彼女が自分に対してこんな風に笑顔を向けてくれることもなかったのだ。

 もし、あの会社と関わらず、工作員になることもなく、彼女とどこかで出会い、ただ肩を並べて平穏に歩んでいく人生があるのなら——

 だが、どの選択肢を辿っても、そのような道は存在しなかった。実現することのない、矛盾に満ちた儚い幻だ。自分にとっても、彼女にとっても。

 隣を歩く、どこか少女めいた雰囲気を持つ彼女が愛おしかった。一方で、本能が求めているのは氷のように冷たい目をした工作員の彼女だ。

 残酷な現実が、嫌でも突き付けられる。心に巣喰う底の知れない飢えを満たせるとしたら、それは決して手に入らない虚像だけなのだ、と。

 そのことに、気が遠くなる。

——戻りたいのだ、俺は。

 ただ独り、ソウマは未だあの日々の中に取り残されていた。


 不意に、何かが手に触れた。それは小指と薬指の二本だけにそっと絡んで、ソウマの足を止めた。

「借りは返す。……返させてよ」

 呟くような声に顔を向ければ、緩く熱を纏った視線と出会う。それがソウマの自尊心を傷付けた。

 情けなどいらない。そう言おうとした時、彼女の瞳に強い光が灯った。

「ソウマを独りにはさせないから」

 凛とした真っ直ぐな眼差しが、逸らすことなく注がれている。ソウマの指を握る手に、ゆっくりと力が込められていく。

 繋ぎ留めたいのは、何だったか。

 景色が揺らいだ。喉の奥が詰まって、返事すらもできない。さざめく鼓動を紛らすように、浅く呼吸を繰り返す他には。

 やがて指先が離れた。小さな温もりが消え、こがらしのような心細さに襲われる。

 だが、次の瞬間。

 急に伸びてきた彼女の両手が、ソウマのコートの襟を掴んだ。強い力でぐいと引き寄せられる。

 気付けば、彼女の顔が眼前に迫っていた。互いの鼻先が、唇が、今にも触れてしまいそうな距離だ。

「いい加減はっきりしなよ。そんな泣きそうな顔して」

 低く、抑えた声。鋭い視線が突き刺さる。反射的にむっとして、反論の言葉が零れる。

「は? 誰が……」

「あんただよ」

 強く睨み据える瞳。

「言っておくけど、これは同情なんかじゃない」

 あの夜、ソウマが彼女に放った言葉が返ってくる。

「私とあんたは同じ、そうでしょう? だから——」

 その双眸がすぅっと細められる。そこに宿った、静かに燃え立つ炎。

「——覚悟はいい? 相馬ソウマ 要二朗ヨウジロウ

 艶のある甘い囁き声に耳朶を撫でられ、再びぞくりと猛り始める。

 この瞳を、確かに知っている。

 興奮を身の内に隠し、張り詰めた暗闇に息を潜める、怜悧な黒豹を思わせる瞳。

 貪欲に獲物を狙う、飢えた獣の瞳だ。

——もしかしたら、自分は今まで大きな勘違いをしていたのかも知れない。

 オフィスでの無愛想な顔と、任務の時の抜け目のない表情と。ターゲットの男に見せた甘い笑みと、自分に見せるいとけない素顔と。彼女が持つ様々な顔を、まるでそれぞれ別人格であるかのように思い込んでいた。

 だが、違うのだ。鉄の女であり、氷の女であり、淑女であり、少女であり——それらの全てが、『タチバナ 菊花キッカ』という一人の女の中に内包されているのだ。

 そんな彼女が、今は娼婦のような顔をして、蠱惑的に微笑んでいる。

 彼女はきっと、壊れない。それどころか、うかうかしていたら逆に喉元を喰い千切られてしまうだろう。

 ソウマは右手で彼女の左手首を握ると、自分の胸倉から引き剥がした。反対の手は腰に回す。口許にはいつもの不敵な笑み。

「望むところだ、橘 菊花」

「……上等」

 熱を帯びた視線が、交錯する。

 彼女が襟を掴んだ右手を離した。その手がソウマのうなじに添えられる。

 再び唇を重ねる。合わせた指先を絡める。体温が混ざり、融けていく。埋めることのできない互いの欠落を、補い合うように。満たすことのできない互いの飢えを、求め合うように。

 闇の衣が二人を包んでいた。夜明けはまだ遠い。



—その飢えを欲する・了—

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