番外編

ソウマ編

その飢えを欲する①

 暗闇の中で、彼は静かに呼吸をしていた。

 繰り返しシミュレーションした作戦内容を、頭の中でもう一度なぞる。不測の事態が発生した際のプランB、プランC。どのルートを辿ったとしても、必ず目的を達成しなくてはならない。

 至極冷静な思考回路の一方で、心臓は密やかにさざめき立っていた。身体じゅうを駆け巡る血潮が熱い。

 緊張と興奮。それらを飼い慣らそうとすればするほど、身の内に潜む何かが滾ってくるのが分かる。

 ズン、と腹に響く爆発音。合図だ。彼は立ち上がった。

 闇に紛れながら、音もなく移動する。研ぎ澄まされた五感。迷うことなく目標地点に到着した。

 するりと入り込んだ部屋にうずくまる、ターゲットの男。影のように忍び寄った彼に気付き、驚きおののいて床に尻をついたまま後退あとじさる。

 懇願の表情。——助けてくれ。そんな声が聞こえた気がした。だがすぐに、それらを意識の外へとシャットアウトする。

 大腿のホルスターから抜いた銃を、相手に向ける。縋るような、怯えた視線が絡み付く。

 冴え渡る神経と、湧き上がるような熱を宿した身体。脳髄を麻痺させる何かが、この胸の奥底に巣食っている。

 引き金に掛けた指に力を込める。その口許は、にたりと狂気じみた形に歪んでいた。


 弾かれたように身を起こした。

 また、あの夢だ。まだ自分があの会社にいて、特殊な任務に就いていた頃の夢。

 薄いカーテンからぼんやりした白い光が漏れている。時刻を確認しようと枕元の携帯端末を手繰ったが、電池切れだった。

 鈍い頭痛がする。大きな欠伸を一つ。まだ身体にはどっしりと眠気が鎮座していた。恐らく、熟睡できなかったせいだろう。

 今日は約束の日ではなかったか。両手で頭を包んで、ぐいぐいと揉んだ。

 汗で湿ったTシャツが気持ち悪い。とりあえずシャワーを浴びようと重い腰を上げ、浴室へと向かった。

 シャツを脱ぎ去ると、細身ながらも筋肉の引き締まった上半身が露わになる。洗面台の鏡にちらりと目をやれば、冴えない顔色の自分と視線がかち合った。

 寝癖の付いた髪。死んだような目許。無精髭の伸びた顎。

 予想以上に酷い。身だしなみに気を遣っていた頃からは、想像もできない姿である。

 無理もない。

 彼——相馬ソウマ 要二朗ヨウジロウは、自嘲気味に笑みを零す。盛大に溜め息をついてみたが、却ってその存在を意識しただけだった。

——胸の中に陰を落とす、空虚な闇を伴った、何かが燃え尽きた後の、決して消えることのない残りかすの。


 ■


 雑然とした店内は、人々の話し声や厨房からの物音で溢れていた。

 ハママツ自治区内の居酒屋。一応個室を予約したものの、近くに団体客がいるらしく、時おり騒がしい声が聞こえてくる。

「とりあえず生中」

「私もそれで」

 注文を取りにきた店員に、二人はそう答えた。

「ついでに料理の注文いいですか」

 早々に立ち去ろうとした店員を呼び止めたのは、テーブルを挟んで向かいに座る、かつて同僚だった女——タチバナ 菊花キッカだ。彼女はメニュー表を指し示しながら、怒涛の勢いで注文を伝える。

「シーザーサラダと豆腐サラダを一つずつと、刺身七種盛り合わせを一皿、この揚げ物の欄のここからここまでを、全部一つずつ。それから串を……とりあえず全種類五本ずつで。あと、餃子も」

 店員が目を白黒させる。とても二人分とは思えないほどの量だ。戸惑いながらもオーダーを復唱し、店員は戻っていった。

 ムードの欠片もない。とにかくたくさん食べたいという彼女の要望を聞いた結果、男女で食事をするのにおよそ相応しいとは言い難い店を選択することになったのだ。

 あれから、シャワーを浴びて髪を整え、髭も剃った。一応は取り繕えているはずだ。

 彼女がメニュー表をテーブルの脇に戻しながら言う。

「ごめん、勝手に注文したけど」

「今更だな」

「何か食べたいものある?」

「いや、あれだけ頼めばとりあえず大丈夫だろ」

「そっか。じゃあ、また後で追加すればいいか」

「……お前、まさかとは思うが、さっきの注文全部一人で食うつもりだったのか」

「ん」

 彼女は曖昧な相槌を打つと、小さく悪戯っぽい笑みを作った。

 それは初めて見る表情で、少しどきりとした。視線を逸らし、軽く溜め息をついて見せる。

「……まぁ、好きなだけ食えよ」

 この異常な食欲に関して、ソウマはもはや驚かない。どんな切迫した状況下でも、彼女はしっかりと食事を摂っていた。一体この細い身体のどこにあれだけの量が入るのか。

 いや、とソウマは思い直す。これまでに何度か、戦闘のどさくさで彼女を抱き締めたことがある。確かに細身だが、着痩せするタイプだ。あの感じだとDは堅いだろう。服の上からそれとなしに視線でなぞってみる。

「どうかした?」

 声を掛けられ、はっと顔を上げる。

「いや……」

 彼女がどことなく冷ややかに目を細めている。まさか胸を見ていたなどとは口が裂けても言えない。

「……今日はいつもと少し雰囲気が違うなと思ってただけだよ」

 我ながら苦しい言い訳である。彼女は「へぇ……」と呟くと、訝しげに小さく首を傾げた。あぁこれ、完全にバレてるやつだ……。

 とはいえ、嘘は言っていない。

 今日の彼女は、髪を両サイドで編み込んでハーフアップにしていた。メイクも柔らかな印象で、唇は優しい色味の口紅でしっとりと彩られている。服装もパンツスタイルでこそあれ、ピンクベージュのニットの襟ぐりからは鎖骨が覗いており、全体的にシンプルながらも女性らしさがある。

 ……と言うより、色っぽい。決して強く主張する訳ではない、ふわりと纏ったような自然な色気が、仄かに漂っている。普段のきりりとしたクールなイメージと比べると、今日はどことなく隙がある、ような気がする。

 いけるのか。どうなんだ。

 彼女の両耳の下で、金の細い棒状の飾りが揺れている。耳の形が綺麗だ、と思った。やや小振りで、縁はピンクがかった色をしており、柔らかそうだ。さぞかし——

「あれからずっと考えてたんだけど」

 ぼんやりと彼女の耳を観察していたソウマは、出し抜けに掛けられた声に再度びくりとした。

「……おう」

「タイムパラドックスの線引きは、一体どこだったんだろう」

 一瞬何のことを言われているのか分からなかったが、すぐにそれが先ほどの映画の話だと思い当たる。

 自治区域の映画館は、統治区域と比べて上映作品が少なく、公開時期も数ヶ月遅い。だから上映スケジュールの穴を埋めるため、古い映画をやっていることがあった。

 旧作であれば自宅で視聴する方法はいくらでもあるが、『揚村アゲムラ珈琲店』のマスターがチケットを二枚くれたので、せっかくだからと観にいったのだ。今日観たのは、主人公がタイムマシンに乗って両親の若い頃の時代に行き、二人の仲を取り持つべく奮闘するという、およそ半世紀前のSFコメディだった。

 ソウマは肩をすくめる。

「父親がいじめっ子を殴ったところだろ」

「いや、そういうことじゃない」

 彼女は軽く眉根を寄せて、指先を唇に押し当てた。量感のあるそれが、ぷに、と形を変える。

「両親が結婚できなくなるのは問題でも、家族の職業やライフスタイルが変わるのは問題ないのかなと思って」

 その映画の中で、若き日の父親が母親を守るためにいじめっ子の同級生を殴り倒し、二人は見事結ばれる。しかしそれは想定外の行動だったため、主人公が自分の時代に帰ると、周囲の人間関係や家族の仕事、体型などが微妙に変化していた……というラストだったのだ。

 映画館を出てから妙に口数が少ないと思ったが、まさかずっとそんなことを考えていたのか。

「あれはどちらかというと、あの話のオチみたいなもんだろ。深い意味なんてないよ」

 彼女が一つ瞬きをした。きょとんとした時の癖だ。この表情をすると、彼女は少し幼く見える。

「そういうものかな」

「タイムトラベルものでそれを考え始めたらキリがないだろ。深く考えれば考えるほど訳が分からなくなる。一つの矛盾をクリアしても、また別の矛盾が出てくる。堂々巡りで永遠に解決できないんだ」

「あぁ、確かに……と言うかソウマ、もしかして同じようなことを考えたことあった?」

 ソウマは口の片端を上げる。

「バレたか」

 実はあの映画は三回目の視聴だった。

 ふふ、と彼女が軽やかに微笑む。形の良い唇が、自然な弧を描く。

「でも、面白かった。大きいスクリーンで観られて良かった」

「あぁ、そうだな……」

 言いながら僅かに目を逸らす。最近の彼女は、このように柔らかい表情が増えた。鼓動がそわそわと足を速めている。

 これまでとは違って棘を持たない彼女に惹かれる一方で、何かが心の奥に引っ掛かっていることに気付く。だが今は無視を決め込んで、小さく笑みを返した。

 そうこうするうちに、中ジョッキが二つ運ばれてくる。それを各々手に取った。

「じゃあ、乾杯?」

「何に対してだよ」

「……お疲れさま?」

「そんなに疲れることもしてないだろ」

 できればこの後したいところではあるが。

「それなら……あの仕事からの解放を祝して」

 彼女の静かな提案。一瞬のうちに、お互い真顔になる。これまで何度も交わしてきた、工作員同士の視線。

 ソウマは敢えて不敵に笑って見せる。

「自由に」

 彼女は眉も動かさない。

「未来に」

 ごつん、とジョッキのぶつかる重い振動。二人同時に口を付ける。

 一息に半分ほどを飲んで、ジョッキを置く。

 上唇に泡の髭を付けて息をついた彼女の表情は、どこか晴れ晴れとしていた。

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