その飢えを欲する②

 タチバナ 菊花キッカは掴みどころのない女だ。時と場合によって、纏う雰囲気や表情がまるで違う。

 初対面はお互い二十歳の頃だった。その時は、顔立ちの美しさやスタイルの良さよりも、陰気で根暗そうな目許が気になった。

 最初の一年では、戦闘用生体義肢の移植手術とリハビリ、そして戦闘訓練を共に受けた。そのどれもを、彼女は決められた通りに淡々と消化した。ソウマともあまり会話をしようとせず、何を考えているのかさっぱり分からなかった。

 会社での『通常業務』の際は、目立たぬように徹底して地味にしていた。薄化粧で、色味の乏しいスーツを着て、常に無表情。不必要な発言は一切せず、ただ黙々と仕事をこなした。

 だが、それが『特別任務』となると、別人のように目付きが鋭くなった。切れ長の瞳が際立つメイクに、高い位置で結った艶やかな黒髪。機敏に駆け回るしなやかな肢体と、作戦の中で発揮される的確な判断力。ボディスーツに身を包んだその姿は、抜け目なく獲物を狙う黒豹を思わせた。

 いくつもの作戦を共にしたが、あの感覚は忘れようもない。少しのミスも許されない独特の緊張の中で、一つの目的を遂げようとする連帯意識。ほんの数秒、視線を合わせただけで、互いの動きや思考が手に取るように分かる。

 気持ちいい。そんな風にすら思った。他では味わえない快感を、彼女となら共有することができた。

 しかし任務を離れた途端、彼女はまた能面のような顔をした無口な女に戻るのだ。ソウマのことなど歯牙にも掛けない、挨拶程度の言葉を交わすだけの、ほとんど他人にも等しい存在に。

 あまりの落差に、肩透かしを食らった気分になった。


 基本的に隙のない彼女だったが、違った顔を見せる相手が一人だけいた。

 川島博士だ。

 彼と言葉を交わす時だけは、その表情は少しだけ和らいだ。信じられないことに、自然な微笑みすら見せていた。ソウマにはそれが気に入らなかった。

 任務の時はこれ以上ないぐらい自分と通じ合っていたくせに。

 ましてや、たった二人の被験者なのに。

 嫉妬にも似た苛立ちを誤魔化すように、皮肉交じりの調子で彼女に絡んだら、ほんの僅かに嫌そうな顔をされた。無表情より余程いい。少しだけ胸がすく思いだった。


 一度だけ、『時間外』の任務中の彼女を見掛けたことがある。

 二年ほど前の、まだ肌寒さが残る春の日の夜。あれはシズオカ統治区内にあるホテルのバーラウンジだった。

 ソウマ自身は任務を終えた後で、昂ぶったままの神経をどうにか落ち着けるために酒でも呑もうと、ふらりとその店に立ち寄ったのだ。

 そこへ、彼女がやってきた。

 丁寧に巻かれた髪。緩やかな角度の優しげな眉に、カールした睫毛で縁取られたアーモンド型の目。艶やかなグロスでコーティングされた、瑞々しい果実のような唇。淡いベージュのスプリングコートの裾からは小花柄のスカートが覗く。耳許で揺れるリング状のピアスが、店内の照明をきらきらと弾いていた。

 人目を引く清楚な美女。それが彼女だと気付くのに、数秒の時間を要した。普段のイメージからあまりにもかけ離れていたからだ。

 彼女は、恰幅のいい中年男と一緒にいた。見覚えのある男だった。元々はIT系ベンチャー企業の創設者だったのが、数年のうちに様々な業界に手を拡げている敏腕実業家——ちょうど彼女の担当する任務のターゲットとなっている人物だった。

 彼女は軽く小首を傾けた姿勢で、向かいに座った男の話に聞き入っていた。柔らかではあるが知性を感じさせる表情で、時おり口を挟む。その度に、男の目が興味深そうに輝いた。

 彼女が口許に手を添え、楚々として微笑んだ。嘆息するほど美しい、完璧な笑みだった。

 やがて二人は席を立ち、ソウマのすぐ後ろをすり抜けて、バーラウンジを出ていった。その一瞬、甘い香水の匂いが鼻腔を掠め、不意に胸がざわついた。

 ホテルのフロントへ向かう二人の後ろ姿をそれとなく目で追う。男が彼女の腰にするりと手を回すのが見えた。

 ソウマは視線を逸らし、グラスに残ったウイスキーを飲み干した。融けた氷で薄まった酒の味は、よく分からなかった。

 寝た相手を殺すのは——いや、殺す相手と寝るのは、一体どんな気分なのだろう。


 その晩、想像の中で彼女を抱いた。怜悧な美貌の、冷たい目をした工作員姿の彼女を、無理やり組み敷いて。

 任務の時と同じ、張り詰めた空気をその身に纏っている。鋭い視線で射抜かれると、身体の芯がぞくりと滾った。

 剥き出しの、美しい形の耳にそっと舌を這わせ、歯を立てる。精巧な銀細工のように作り込まれた、どこか危うい均衡の上に立つ彼女を、ぐちゃぐちゃに掻き乱したかった。

 絹のような黒髪、きめ細かな白い肌。愛撫しては爪を立て、口付けしては齧り付く。

 どれほど傷付けられても、彼女の黒曜の瞳は強い光を宿したまま、ソウマを見据え続けていた。それが却って嗜虐心を呼び起こす。

 捩じ込むように、乱暴に貫く。幻の彼女は微かに顔を歪めながらも、声一つ漏らさない。そのくせ、絡み付くようにきつく締め上げてくる。

 そうだろう。そのはずだ。何せ、お前は——

 醜い偏執と、薄汚れた劣情。混濁する意識の中でそれらを解き放った。

 彼女の姿が、闇に融けて消え失せる。

 残ったのは、慰め方も分からない、底知れぬ深淵のような飢えだった。


 ■


 つい先ほどまでテーブルの上には、軟骨の唐揚げ、刺身三種盛り、鮪のカルパッチョ、揚げ出し豆腐、チーズ春巻きがそこそこ残っていたはずだった。しかしそれらは見る間に彼女の胃袋へと収められていき、気付けば全ての皿が空いていた。

 ソウマは既に食事を終了している。酒ならいくらでも入るが、料理はもう入らない。アルコールのメニューに目を通し、注文のため次に顔を上げた時には、今度は鍋の中の雑炊がすっかり消えていた。確か、鍋の底にまだ半分ほどあったと思ったのだが。

 呆気に取られて、しばし呼び鈴を押すのを忘れた。その隙に彼女がボタンを押す。もしかして代わりに呼んでくれたのかと思いきや、現れた店員に向かって彼女が放った一言により、その淡い期待はあっさりと打ち砕かれる。

「フォンダンショコラのバニラアイス添えと、クレーム・ブリュレ」

 ここへ来てデザートのダブル注文。さすがにソウマは言葉を失った。もちろん、両方彼女の分だ。

「ソウマは?」

 一瞬、自分が何を注文しようとしていたのか忘れかけたが、どうにか思い出して梅酒のロックを頼んだ。それを聞いた彼女が呆れた表情をする。

「よく飲むね」

「お前に言われたくねぇよ」

「私はずっとウーロン茶だから」

「いやいや、そっちじゃない」

 最初の生ビール以降ソフトドリンクしか飲んでいない彼女の頬は、それでもほんのり朱に染まっている。イメージに反して酒には弱いようだ。

 しかし当然ながら、ソウマが言いたいのは食欲についてのことである。

「お前って、元々そんなに大食いだったのか?」

「小さい頃からそれなりに食べる方だったと思うけど。でも会社入ってから余計にかな。食べることくらいしか楽しみがなかったから」

 彼女は事もなげに肩をすくめる。

「ブラックホールみたいなんだ。なかなか満たされない」

 満たされない。その言葉が、ソウマの中に余韻となって残る。——空腹が。単にそれだけの意味だろうか。

 返事もせずにいると、彼女がぽつりと言った。

「そろそろ仕事を探さないと……本当に食べていけなくなりそう」

「あぁ、確かに。毎日やることなくて腐りそうだしな」

「実はこの前、ミズコシさんからバイトしないかと誘われた」

「は? 何の?」

「何って、ミズコシさんの仕事の手伝いだと思うけど」

 あの野郎。下心見え見えじゃねぇか。

「どうするんだよ」

 思わず声が不機嫌になりかけるのを、どうにか抑える。彼女は視線を斜め下に逸らし、指先で髪に触れた。

「……考え中」

 やめておけ、などと言える立場ではない。

 店内のざわめきが耳につく。訪れた沈黙を破ったのは、またもや彼女だった。

「そう言えば、マスターから聞いた? 夜、時々でいいから店に顔を出してほしいって」

「あぁ、聞いたよ。要は用心棒ってことだろ」

 世間の情勢が不安定になり、反帝国軍政府の機運が高まりつつある今、『揚村アゲムラ珈琲店』の夜の顔——つまり『スワロウテイル』としての需要も少しずつ増えているようだ。血の気の多い者が集まれば、諍いが起きることもある。そうした事態に備えての依頼だった。

 彼女の口許に小さく笑みが浮かぶ。

「賄い付きらしい」

「そこかよ」

「重要でしょ」

 苦笑しつつ、ぎくりとする。もしやミズコシなどよりもマスターの方が遥かに危険牌なのでは。彼女の胃袋を掴んでいる上に、年齢的にも。何せ彼女は年上好きなのだ。

 ふと、映画のチケットをもらった時に「キメてきなよ」とサムズアップしたマスターのお節介な顔を思い出した。

 ソウマは口を開く。

「……あのさ、タチバナ——」

「失礼しまーす、ご注文の品お持ちしましたー」

 タイミング悪く店員がやってきた。酒とデザートをテーブルに置き、風のように去っていく。

 店員を見送った後、彼女が軽く首を傾げた。

「……何だった?」

「いや、いい」

 さすがに今の間はよろしくない。

 彼女は気にした様子もなく、目の前の二つの皿をじっと検分し始めた。恐らく、どちらから手を付けようか悩んでいるのだろう。

 小振りのスプーンを手に取った彼女は、まずフォンダンショコラの方を大きく二つに割った。温かいチョコレートソースが中からとろりと流れ出てくる。ケーキ部分を小さく切り分け、ソースとバニラアイスを絡めて口へと運んだ彼女は、しばらくスプーンを咥えたまま仄かに恍惚とした表情になった。二口、三口。その半生の焼き菓子は効率よく切り崩されていき、あっという間になくなった。

 休む暇もなく、二皿目のクレーム・ブリュレに手が伸びる。スクリーン上のヒロインよろしく、表面の焦げ目にスプーンの先を挿し込んでひびを入れると、彼女はそっと口角を上げた。

 ソウマは思わず噴き出した。

「やるよな、それ」

「やるでしょ。この、ぱりっとした平らな表面を壊すのが、ちょっと快感」

 そう言って焦げ目の一片を掬い、唇で挟んで更に細かく砕いた。口の端に付いた小さな欠片を、舌の先でちろりと舐め取る。

 思わず、生唾を呑み込んだ。

 それを知ってか知らずか、彼女がふと視線を上げる。ソウマと目が合うと、一つ瞬きをした。無垢と言ってしまってもいいほどの、いとけない表情。それが却って空恐ろしい。

「……本当によく食うよな」

 独り言のように、そう呟いた。

 飽きることなく食事を続ける彼女。満たされないと言ったその舌が、唇が、獲物を求めてありとあらゆるものを貪り尽くしていく。

 身体の奥底で、何かがぞくりと疼いた。

——その飢えの正体を、自分はきっと知っている。

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