最終話 無神論者たちの唄

 突然、がちゃりと音を立てて扉が開いた。

「あぁ、なんだ二人とも、こんなところにいたの、か……?」

 ソウマだった。泣き顔のユナに目を留め、一瞬で凍り付く。

「……あっ、あたしっ……ちょっとトイレ……」

 ユナは慌てて立ち上がると、顔を隠しながらソウマの横をすり抜けて部屋の外へと走っていってしまった。

 キッカはユナの出ていった扉をしばらく見つめ、視線をソウマへと移した。

「……わざとじゃねぇよ」

「それは分かってるけど」

 ソウマは、何だよ、と小さく零しながら、壁に立て掛けられたパイプ椅子の一つを取った。それを拡げて立てると、キッカの隣——先ほどユナがいたのとは反対側に置き、浅く腰掛けて背もたれに身体を投げ出した。

 何気なく沈黙が訪れる。キッカは軽く目を伏せ、細く長く息を吐いた。肩の力が抜けていくと同時に、ざわめきにも似た気持ちを思い出す。

「なんか、疲れたな」

 ソウマの呟きに、キッカは同意する。

「うん、いろいろあった」

 ほんの半月ほど前のことが、遠い昔のように思える。あの頃は与えられた任務に疑問を挟むこともなく、ただ淡々と自分の仕事をこなしていた。

 ざわざわと、胸の内の侵食が大きくなる。

 キッカは隣に座るソウマの様子を窺った。端正な横顔からは、特にこれと言った感情は読み取れない。ソウマがこちらに気付く。

「……どうした?」

「いや」

 一旦、目を逸らしたものの、俯きがちのまま身体をソウマの方へ向けて座り直す。膝の上に手を揃え、少しだけ躊躇った後、再び口を開いた。

「ちょっと、ソウマに聞いてほしいことがあって」

 それまで椅子にもたれ掛かっていたソウマが身を起こす。

「何だよ、改まって」

「……ずっと考えてたんだ」

 そう切り出したものの、またしばしの間が空く。ソウマが軽く首を傾げて続きを待っていた。キッカはゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

「自分が、手に掛けた人たちのこと」

 ソウマはぴたりと動きを止める。

「……おう」

「任務とはいえ、何人もの人の命を奪った。人生を、壊した。自分が殺してきた人たちの顔が、全然忘れられないんだ」

 掌を広げ、目を落とす。

「あの人たちには、家族がいたかも知れない。もしかしたら私たちと同じように孤児になった子供が、何かの計画に利用されたりしてるのかも知れない」

 両の手を、きゅっと握る。

「そういうことを考え出すと、眠れなくなる。モリノさんには『自分の自由を勝ち取る』なんて啖呵切ったけど、そもそもそんな資格ないのかも……なんて」

 ひんやりとした、底の見えない暗闇。一時は完全に心を凍て付かせたそれは、今も空気のような何気なさで胸の奥に鎮座している。犯してしまった罪を消すことはできない。その事実が、ふとした瞬間、意識の中に張り出してくる。

「そうそう償いができるようなことじゃないとは分かってる。ちゃんと前を向きたいけど、時々足が動かなくなって、闇に囚われて沈んでいきそうになるんだ」

「……まぁ、それは俺も人のことは言えないな」

 二人一緒に黙り込む。何か重苦しいものを共有しているような、密度の濃い静寂だった。後ろ暗い感情を伴った連帯意識。他の相手とは到底分かち合えないその感覚が、二人の間に奇妙な心安さを生み出していた。

 握り締めた拳を、もう一度開く。

「もう誰も、この手で傷付けるようなことはしたくない。特別な力があるのなら、できれば助ける方に使いたい」

「……あぁ、そうだな」

 キッカはポケットからアヤメの御守りを取り出した。それをそっと掌で包み込む。

 身近にいた誰かの拠り所となっていた記憶。神に祈ることよりも、そんな誰かの手を離さずに、自分自身で歩みを進めること。きっとそれが、何より大事なのだ。

「とりあえず周りの人たちに対してでも、何か私にできることがあればと思うんだけど」

 ソウマが呆れたように軽く目を細めた。

「タチバナ……なんつうか、そういうとこだよな。ちょっと危ういぞ、お前」

「大丈夫。ちゃんと自分で分かってるつもりだし、それに——」

 顔を上げ、ソウマに目を向ける。

「今はもう、独りじゃないから」

 そう言って淡く微笑んだ。

 ソウマだけではない。川島博士にミズコシ、マスターとユナ。特殊工作員だった頃とは比べ物にならないほど、信頼の置ける相手が増えた。

「そうかよ」

 ソウマはなぜか不機嫌そうに視線を逸らした。

 そこで唐突に思い出す。

「あ……そうだ、まだ借りを返してなかった」

「あぁ……別にいいよ、そんなのは。ハママツまで運転しただけだしな。気にするな」

「いや、そういう訳には」

 明確に『貸し』だと言われたのは川島博士を救出した帰りに送ってもらったことだけだったが、そもそもキッカが生きているのはソウマのおかげなのだ。

「私が気になるんだよ。借りを返さずにいるのはフェアじゃない」

「……そうか。勝手にしろ」

 三たび、沈黙が横たわる。今度はあまり居心地の良くない沈黙だった。

 しばらく自分のブーツの爪先を見つめていると、出し抜けにソウマが口を開いた。

「なぁ、タチバナ。今度一緒にメシ行かねぇか」

「……え?」

 ソウマに顔を向け、一つ瞬きをする。そのタイミングとしては、あまりに予想外の提案だった。うまく返事ができないまま、しばらく見つめ合う。

「……えーと、それは、貸し借りの——」

「いや、それは関係なく」

 ということは。最後の戦いの最中、背中越しに「後で話がある」と言われたことを思い出す。

「……俺、あの時お前に変なこと言っただろ」

「あの時?」

「だから……夜」

「あぁ」

 決戦前夜、「俺と寝てみるか」と言われたことか。

「それなら大丈夫。あの時は私も少しおかしかったし、気にしてないから」

「……俺が気にするんだよ」

 先ほどとはまるで逆のやり取りだ。束ねた髪に手をやる。

 初めはただのいけ好かない同僚だった。今はどうだろう。文句を言いながらも、何だかんだといつも助けてくれる。身体のことや過去のことで、互いに気を遣わなくてもいい。それに、戦いのどさくさで何度か抱き締められたが、嫌な感じはしなかった……と思う。

 ……まぁ、食事くらいなら。

「私の食欲は知ってると思うけど」

「もちろん」

「それでも良ければ」

「……もちろん」

 ソウマがほっとしたように、そしてどこか嬉しそうに笑みを零した。作ったものではない、自然で柔らかい表情。いつもより少しだけ幼く見える。

「あ……ソウマのそういう顔、初めて見たかも」

「え、そうか?」

「うん。その方がいいよ、いつもむすっとしてるけど。せっかく見た目は可愛いんだから」

「……は?」

 その表情が、一瞬で強張る。

「ばっ、おまっ……な、何だよそれ……お前に言われたくねぇよ! お前の方こそ可愛……」

 言葉が不自然に途切れた。

「——え?」

「——え?」

 互いに、虚を突かれたように硬直する。ぱちぱちと、瞬きを二度三度。

「あ、いや、今のは……」

 ソウマが拳で口許を押さえて咳払いをし、眉根を寄せて顔を背ける。その頬が、見る見るうちに紅潮していく。

 キッカは正面を向く。

 何だこれ。何だ、今の。……頬が熱い。

 四度目の沈黙。やたらとそわそわして落ち着かない。

 どうにか平静な表情に戻ったソウマが、キッカに向き直る。

「あのさタチバナ、俺——」


 その時、勢いよく部屋の扉が開いた。

「おいおいお前ら、昼間っからイチャついてんじゃねぇよ」

 騒々しく入ってきたのはミズコシだった。後ろにユナの姿も見える。

「おかげでユナちゃん、部屋に入れなくて困ってただろうがよ」

「あ、あの、そういう訳じゃなくって、その……大事な話をしてるのかと思って……」

 ユナが慌ててミズコシの言葉を弁解する。まだ僅かに涙の跡が見えるが、どうにか落ち着いたようだった。

 ソウマが非難の声を上げる。

「おい、別にイチャついてなんかいないだろ。というかあんた、まさか立ち聞きしてたんじゃないだろうな」

「そんなことするかよ、人聞きのわりぃ奴だな。ほんとソウマはヘタレだしムッツリスケベだし、マジでどうしようもねぇな」

「誰がヘタレのムッツリスケベだ。吊るすぞ」

 気色ばむソウマに、ミズコシがニヤニヤする。

「知ってっか、キッカちゃんよぉ。ソウマみてぇな奴はな、真面目な顔してる時ほどヤラしいこと考えてるもんなんだぜ」

 キッカは唇に人指し指を押し当てる。ソウマの真面目な顔というと——あの時も、そしてあの時も。

「……あぁ、なるほど」

「タチバナ、お前はお前で何を納得してんだよ」

「いや、別に」

 生温かい目でソウマを眺める。その様子を見たミズコシは満足そうに頷いた。

 三人の大人たちから置いてけぼりを食っていたユナが、くすくすと笑い出す。

「やだ、なんか、心配なことなんて何にもないみたい」

「そうだぜユナちゃん、きっと何もかもがうまく行く! だから手術が終わるまでの間、酒でも飲んで時間潰そうぜ」

 ミズコシが、手に提げていた大きなビニール袋からビールの缶を取り出しながら言った。ビールだけでなくチューハイやソフトドリンク、加えてポテトチップスやチータラなどのつまみが次々と出てくる。

 ソウマが呆れた声を出す。

「そんなものいつの間に買ったんだよ。今まだ午前中……というか徹夜明けだぞ。まったく、緊張感がないと言うか……能天気な奴だな」

「おうよ、何してても変わりねぇなら、楽しく過ごした方がいいに決まってるじゃねぇか。それに——」

 ミズコシの目に一瞬、暗い色がよぎる。

「うまく行かなかった時のことなんて、考えたくもねぇよ」

「ミズコシさん……」

「なんてな!」

 しかし、すぐに元のおどけた表情に戻り、キッカに片目を瞑って見せる。

「さ、こいつは俺の奢りだから、ありがたく飲み食いしてくれ」

 ミズコシも不安なのかも知れない。そう思ったキッカは、真っ先にチューハイの缶を手にした。

「じゃあ、遠慮なく」

 それにつられる形で、ソウマとユナもそれぞれ飲み物を取る。ミズコシはビールの缶を高く掲げて言った。

「よーし、それじゃあ……明るい未来に、乾杯!」





「一体、これはどうしたことだ……」

 斜陽射し込むブリーフィングルームの入り口で、川島博士は呆然と立ち尽くしていた。

 まず扉を開けた瞬間、部屋に充満したアルコール臭に面食らった。次に足許に散らばる飲み物の缶や菓子などの残骸に目が留まった。そして極め付けは、思い思いの格好で死者の如く寝こけている四人。

 ミズコシはパイプ椅子を互い違いに四脚並べた上に、横たわって鼾をかいていた。

 キッカとユナは椅子に座って姉妹のように寄り掛かり合い、すやすやと寝息を立てていた。

 ソウマはなぜか、床に腰を下ろし壁にもたれ掛かって眠っていた。

「手術が終わったことを、伝えに来たんだがな……」

 クオンの手術は、緊迫した状況ではあったが、教え子たちの助力のおかげもあって無事成功した。

『アニュスデイ』を注入したハルカも、少しずつ覚醒反応を見せ始めている。

 あの二人が目を覚ますまでは、まだ少し時間がある。

 川島博士はふっと口許を緩めると、静かに扉を閉め、部屋を後にした。


 静寂に包まれた病院の廊下を歩きながら、川島博士は初めてこの場所に来た日のことを思い出していた。

 ハルカと二人、ハママツ自治区に移住した日のことを。悪化する戦況の中、自分の持つ技術を役立てようと、信念を掲げて人命救助を始めた日のことを。

 あの日から、あまりに多くのものが失われてしまった。もしかしたら、自分の選択次第ではあのような悲劇は起きなかったのかも知れない。

 けれども、立ち止まっている暇などない。こんな自分のために、命を賭けてくれた人たちがいるのだから。

 パンドラの匣の底に眠る希望が、間もなく目覚める。

 そうしたらまた、再スタートを切ればいい。

 柔らかな秋の夕陽に照らされた長い廊下の先を、川島博士は真っ直ぐに見据えるのだった。


 ―無神論者たちの唄 本章・了―

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