第47話 ユナの気持ち

 潜入作戦から二時間後。ハママツ自治区の『揚村アゲムラ珈琲店』では、トヨハシ自治区へ向けての出発前に一悶着起きていた。

「駄目駄目、ユナはここで皆さんのお見送り!」

「やだよ。お父さんはすぐそうやってあたしを子供扱いするんだから」

 ハママツで待っているように言われたユナが、頑として首を縦に振らなかったのだ。

「トヨハシ自治区ね、ユナは知らないだろうけど、本当に治安が悪いんだよ。この辺とは比べ物にならないよ。大体、学校はどうするの」

 全く譲歩しない口調で言い募るマスターに、ユナはムキになる。

「学校なんて一日くらいサボったっていいでしょ? 明日からはちゃんと行くよ。向こうでは絶対に迷子にならないように気を付けるし」

「でもユナ、只でさえこのところボーッとしがちじゃない。あちらでのことは皆さんにお任せして、ユナは普段通りにしてなさい」

「そんなの無理だよ!」

「ユナが行ったところで何もできないでしょ」

「それは、そうだけど……」

「ほら、分かったなら大人しく学校!」

「……ねぇ、でも……今日行かなかったら、もしかしたら……あたし……」

 喉を詰まらせるユナの肩に、キッカはぽんと手を置いた。そしてマスターに向き直る。

「マスター、ユナちゃんのこと、信じてあげてください。向こうで何かあっても私がユナちゃんを守りますから」

「しかし……」

「駄目ですか?」

 キッカは少し顎を引き、やや上目遣いの視線をマスターに投げ掛けた。

 しばらく、無言の時が続く。マスターはじっとキッカを見つめていたが、やがて耐え切れなくなったようにふにゃりと頬を緩め、口髭を撫でた。

「んー……まぁ、キッカさんがそう言うなら……」

「えっ……お父さん、ほんと?」

「皆さんの言うことをちゃんと聞いて、大人しくしてるんだよ。キッカさん、ユナをお願いします」

「分かりました。お約束します」

 そう言って凛然と頷く。

「キッカさん、ありがとう」

 礼を言われ、キッカは片頬で微笑んで見せた。ユナの瞳がきらきら輝いている。

 背後ではソウマとミズコシがひそひそと言葉を交わす。

「いや、あいつ怖すぎるだろ……」

「マスターってああ見えて結構頑固なんだぜ。それを一発で……」

 キッカがくるりと振り返る。

「じゃあ、行きましょう」

「はい」

 こうして、キッカとソウマとミズコシ、川島博士にユナを加えた五名で、トヨハシ自治区へ赴くこととなった。


 一行が川島病院に到着すると、既に入り口に数人の姿が見えた。彼らは川島博士の姿に気付くと、軽く手を上げた。

「川島先生! お久しぶりです」

「あぁ、本当に久しぶりだ。急な呼び立てにも関わらず、こうして集まってくれて嬉しいよ。本当にありがとう」

「いえ、私たちもあの動画を見て、ぜひ先生のお力になれればと考えていたものですから」

 彼らは川島博士の大学病院時代の教え子で、現在は各地の自治区の病院で医師として働いている者たちだった。挨拶もそこそこに、博士は本題を切り出した。

「早速だが、『患者』を見て欲しいんだ」

 一同は建物の中に入り、一階西端の院長室の床の隠し階段から、地下の研究室に降りていった。

 十日前に死闘が繰り広げられたこの地下室は、今やすっかり片付けられており、その痕跡は見当たらない。あれから様々な備品や医療機器が運び入れられ、『手術室』と言っても差支えないほどになっていた。

 その地下室の一番奥に置かれた、棺桶のような形をした装置の前で、川島博士は足を止めた。

「ハルカ……すぐに起こしてやるからな」

 パンドラの匣の底に眠る、最後の希望。その目覚めの時が迫っていた。

 ハルカの装置の隣には、もう一台同じものが並んでいる。恐る恐る近づいたユナが、その中に横たわる人物の姿を確認して、はっと口許を覆った。

 そこに眠っていたのは、クオン——久遠クドウ 慧一ケイイチだった。


 あの戦いの後、クオンが出血多量で意識を失った時点で、救急車を待っている猶予は既になかった。肺には穴が空き、心臓の鼓動は刻一刻と弱まっていた。彼の命を助けることは、もう不可能かと思われた。

——時間を止めでもしない限りは。

 そこで川島博士の目に留まったのが、冷凍睡眠装置だった。八年前に『久遠 慧一』が横たわったその装置はまだ生きていた。

 一旦コールドスリープさせて、準備を整えてから傷の手術を行う。それがクオンを救う、唯一の方法だったのだ。

 川島博士はクオンの心臓が完全に動きを止める前に、彼を再び装置に横たえた。

 まるであの日のように。

 以来、恋人たちはかつてのように並んで眠りに就いている。


 装置を見下ろすユナが、立ち尽くしたままきゅっと拳を握った。その小さな背中に、そっと手を添える。驚いてキッカを見上げたユナは、今にも泣き出しそうな顔だった。

 キッカは口許に笑みを作る。

「大丈夫。きっとクオンさんは戻ってくる。そのために代わりの肺も入手したんだから」

 今朝方ナショナル・エイド社の研究施設に侵入して盗み出したのは、人工の生体肺だった。クオンを治療するに当たり、損傷の激しい肺を交換する必要があるのだ。

「そうだぜユナちゃん。つーか、戻ってこねぇと俺が困る。俺まだクオンから報酬貰ってねぇんだよ」

 おどけた調子でそう言ったミズコシに、ユナは思わず笑みを零した。

「任せてくれ。ケイイチくんも、私が責任を持って目覚めさせる」

 振り返って見た川島博士の目には、力強い信念の光が灯っている。

「さぁ、早速始めよう。長い手術になる。君たちは上で待っていてくれ」

 地下室の中では、博士の元教え子たちが忙しなく手術の準備を始めていた。


「あたし、ここにいてもいいのかな……」

「……なぜ?」

 川島病院の一階、かつてブリーフィングルームとして使われていた部屋のパイプ椅子に、キッカとユナは並んで腰掛けていた。

「だってお父さんの言った通り、結局あたしは何もできないし」

「そうかな。クオンさんが目覚めた時にユナちゃんいたら、きっと喜ぶと思うけど」

「そうかな……なんでこいつがここにいるんだって思うかも知れない」

「いや、そんなこと思わないよ」

「……あたし、クオンさんの何でもないんだよ?」

 そう言ってユナは膝を抱えた。

 部屋の中は静寂で満たされていた。今、地下室ではクオンの手術が行われているはずだが、位置が遠いこともあって物音は何一つ聞こえない。

「だって、すぐ隣に恋人がいるのに。あたしはただの行きつけの店の、マスターの娘ってだけだもん」

「でもそれはつまり、クオンさんが戻りたいと思える日常の一部ってことでしょう?」

 ユナは頭を上げる。その表情はたちまち泣き顔へと変わっていく。

「……あたしね、本当は、クオンさんの特別になりたかったんだ。日常、とかじゃなくて……。でもクオンさんに恋人がいるって知って、あたしは特別にはなれないんだって分かって……どうしてあんなに、一人で浮かれてたのかなって……」

 キッカははっとした。ユナの言葉が、瘡蓋かさぶたになった傷をなぞっている。

「分かる、それ」

「えっ……?」

「惨めで、みっともなくて、情けなくて。……どうして自分は、こんなにも独りなのか」

 独り言のように言うキッカの横顔を、ユナが驚いた表情で見つめている。その視線に気付いて、小さく笑った。

「キッカさんでも、そんな風に思うことあるの?」

「あるよ、どうにもならないこと。いくらでも」

「そうなんだ……」

 ユナはまた俯いた。再び沈黙が横たわる。

 キッカは、決戦前夜にシャワーを浴びながら見た、鏡の中の自分の顔を思い出していた。あの自分は、まだキッカの中にいる。多分この先もずっと消えることはないだろう。

 ふと、脳裏にメイコのことがよぎる。自ら死を選んだ川島博士の妻。彼女もまた、抱えきれないほどの孤独に苛まれていたのかも知れない。

 ユナがぽつりと口を開く。

「あのね、キッカさん……あたしね、クオンさんがあんなことになって、本当は——」

 その表情がくしゃりと歪む。

「ほっとしたんだ……」

 思わぬ告白に、キッカは息を呑んだ。

「最低だよね。自分の想いが叶わなくっても、こうなったらもう仕方のないことだって……思っちゃったの。そう思いたかったの。言い訳したかったの。……逃げたかったの」

「ユナちゃん……」

「あたし、こんな自分が嫌い。すごく嫌い……」

 ユナは口を引き結んで、必死に涙を堪えていた。

「……でも、逃げなかったんだ。逃げずにここまで来た」

 キッカがそう言うと、ユナは小さく首を振った。

「さっき……眠ってるクオンさんを見たらね……すごく、怖くなったの。このまま目覚めなかったらどうしようって……」

 大きな目から、一粒の涙が零れ出る。それはすうっと頬を伝って、膝の上にぽとりと落ちた。

「嫌だよ、そんなの……絶対に嫌だ……」

 ユナは両手で顔を覆い、しゃくり上げて泣き始めた。できるだけ声を抑えようとして、それでも抑え切れずに漏れてしまうような、苦しい泣き方だった。

 キッカはユナを抱き寄せた。柔らかなショートボブの髪を、そっと撫でる。

「大丈夫、信じよう。強い人だから」

 自分の信念を曲げることなく、恋人のために戦い続けてきたクオン。彼がこのまま逝ってしまうとは、どうしても思えなかった。

 しばらくの間、部屋にはユナの嗚咽だけが響いていた。その細い肩をあやすようにとんとんと軽く叩きながら、胸の奥にある決して小さくはない痛みに想いを馳せる。

 弱くて醜い自分と、強くありたいと願う自分。きっと誰しも、そんな相反する気持ちを抱えている。そして理想と現実の隔たりに落胆し、思い悩んで、進むべき道を見失う。そこから正しい一歩を踏み出すのには、生半可な勇気ではとても足りない。

 ユナの呼吸が落ち着いてきた頃、キッカはある提案をした。

「クオンさんが目覚めたら、ユナちゃんの気持ち、伝えてみれば?」

「えっ……そんなの、絶対無理って分かってることだし……クオンさんを困らせるだけだよ」

「いいよ、困らせれば」

 どこか冷めたような声でそう言う。

「こんな可愛い子を泣かす男は、困り果てて悩み抜けばいい」

 ユナはしばらく呆気に取られたような顔をしていたが、やがてくすくすと笑い始めた。

「やだ……何それ、かっこいい」

 蕾が綻ぶような軽やかな声に、キッカは思わず微笑んだ。

 一瞬の間の後、ユナがまた口を開く。

「……伝えられるかな」

「伝えられる。大丈夫」

 キッカが力強く頷くと、ユナは洟を啜ってごしごしと涙を拭った。

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