ch.4 罠と秘密

第20話 天才ハッカーの塒

揚村アゲムラ珈琲店』を出た後、クオンは一旦自宅に戻って車に乗り込み、とある場所へと向かった。

 浜松駅にも程近い、自治区内でも多くの住民が暮らしている居住地区。ぽつぽつと街灯はあるものの、既に夜半過ぎともあって人影はなく、辺りはひっそりと静まり返っている。

 住宅の密集する細い路地を進み、やがて闇に紛れるようにして建つ古いマンションに辿り着く。駐車場の空きスペースに車を入れ、ガラス張りの重い扉を押してエントランスに足を踏み入れる。くすんだ灰色をしたエレベーター扉の前に立ち、上ボタンを押した。

 築四十年にもなる、核爆発よりも更に十年程前の建物である。乗り込んだエレベーターは、いつ停止してもおかしくないような軋んだ音を立てながら、ゆっくり上昇していく。

 最上階である五階で降り、寒々しいコンクリートの外廊下を進む。突き当たりの五◯六号室に行き着くと、インターホンのボタンを押した。

 玄関ドアの左上には、暗視用小型CCDカメラが設置されている。今から訪ねる相手がこの古いマンションをねぐらにしているのは、空き部屋が多く人目に付き難いことに加えて、大家が建物の管理に熱心でないためやりたい放題やれるからなのだそうだ。

 しばらくすると内側で鍵を回す音がして、扉が開いた。

 中から現れたのは、ボサボサの髪を後ろで乱雑に束ねた、眼鏡に無精髭の男だった。年の頃はクオンと同じぐらい。ひょろりとした体躯にヨレたスウェットの上下を着て、裸足のまま三和土に降りている。手にした煙草はずいぶん短い。

「よう、クオン。予定よりだいぶ遅かったじゃねぇか」

「あぁ、悪いなミズコシ。ちょっと一悶着あってな」

 ミズコシと呼ばれた男は怪訝な顔をする。

「マジかよ。大丈夫だったのか?」

「あぁ、どうにかな」

「まぁとりあえず入れ」

 ミズコシはクオンを招き入れると、再び扉を施錠した。


 相変わらず、部屋の中は煙草のヤニと埃が入り混じったようなえた臭いがする。廊下のあちこちにはビニール袋に入ったゴミや脱ぎ捨てた衣服などが散乱していた。

 二部屋ある居室のうち、奥の部屋の壁際がミズコシの作業スペースだ。幅の広いデスクには三つのモニターが並べられ、そのうち左端の一つには玄関の様子が映し出されている。

 全体的に雑然と散らかった家だが、そのデスクの周りだけは辛うじて片付いていた。ただし、キーボードの横に置かれた灰皿には、大量の吸い殻が今にも崩れそうなほど山盛りになっている。

 このミズコシこそが、マスターから紹介されたハッカーだ。一見かなり大雑把そうな男だが、腕は確かである。

 ミズコシはモニターの前のメッシュチェアに腰掛け、ちびた煙草を灰皿に押し付けた。いくつかの吸い殻が山の中腹から転げ落ちる。

「で、どうだった?」

「データは受け取ったよ」

 そう言って、キッカから預かったメモリーチップをミズコシに差し出す。表面に『Aファイル』の銀文字が記されたものだ。

「だが実は、ちょっとまずい事態でな。計画がバレた」

「はぁ?!」

「これをあの会社から運んできた人が、帝国軍兵に襲われてな」

「おい何だそれ。ヤベェじゃねぇか」

「まぁ、それは倒したんだが」

「倒したのかよ!」

「今、川島先生は社内で拘束されてるらしい」

「おいおいおいおい……そんなの聞いてねぇぞクオン」

 クオンは小さく噴き出す。

「ミズコシはリアクションがいいな」

「そんなこと言ってる場合かよ! 悪いが俺は降りるぜ。お前も知ってると思うが、俺は危ねぇ橋は渡らねぇ主義なんだよ」

「まぁ待て、話は最後まで聞け」

 メモリーチップを突き返そうとするミズコシを制し、クオンが咳払いをする。

「まず確認なんだが、ミズコシがあの会社のネットワークに侵入した時、何か異変はあったか?」

「いや、ねぇよ。俺がそんなヘマやらかすと思うか? その後も特に問題は起きてねぇしよ」

「だよな。だとしたらやっぱり、川島先生側で話が漏れたんだろうな」

「何にせよ帝国軍が直接襲ってくるような状況になってるっつうんなら、俺はこんな危険なデータ受け取らねぇぞ」

 結局、メモリーチップはクオンの手に戻された。

「まぁ、このデータのことはひとまず置いといてだな。実は今、彼女にお願いして、川島先生の救出に向かってもらってるんだ」

「彼女?」

「データの運び人だよ。あの会社の社員で、なんと例の戦闘用義肢を付けてた」

 ミズコシが鼻を鳴らす。

「それで帝国軍兵を撃退したって訳か。どんなゴリラ女なんだよ、それは」

「いや、すらっとした美人だったよ。ちょっと色っぽい感じの」

「はぁっ?!」

 ミズコシは勢い込んで立ち上がる。今までで一番大きいリアクションだ。

「クオンてめぇ、なんでその女を連れてこねぇんだよ……!」

「まぁまぁ、彼女が戻ってきたら紹介するよ」

 苦笑するクオンに、ミズコシが軽く舌打ちして椅子に座り直した。

「本当に戻ってくんのかよ」

「……そう信じたい」

 クオンは声のトーンを落とす。

「俺の方でこのデータを公開して、あの会社に混乱を与え、その隙に彼女が博士を助け出すという作戦なんだ」

 ミズコシが真面目な表情になる。

「……その女、信用できるのか」

「あぁ、俺は信用できると思った。社内でこの件を知ってる人がもう一人いるらしくてな。手引きしてもらうと言ってた」

「だとしても、そんなに上手く行くもんかよ」

「……彼女は強い。連携して動けば、先生を助け出せる確率も上がる。こちらはこちらで、やるべきことをやるだけだ」

 それはどこか自分に言い聞かせるようでもあった。

「そうかよ。まぁ、俺もお前の事情はよく知ってるけどよ……」

 ミズコシは背もたれに身を預け、脚を組んだ。

 クオンは手の中のメモリーチップをそっと握り締めた。さて、ここからだ。

 部屋の隅に置いてあった段ボールを引き摺ってきて腰を下ろし、ミズコシを正面から見据える。

「なぁ、ところでミズコシ。このメモリーチップ、中にどんなデータが入ってるか気にならないか?」

 ミズコシがぴくりと片眉だけを上げる。

「オンラインには乗せられない、ナショナル・エイド社の最高機密だ。帝国軍が取り返しに来るくらいだから、相当重要なデータなんだろう」

 ミズコシは黙ったまま動かない。

「もしかしたら、これであいつらの足許を掬うことができるかも知れないんだ。そのつもりで今まで俺に協力してくれてたんだろ」

 眼鏡の奥の目が、僅かに細められる。その瞳に宿る小さな炎を、クオンはじっと見つめる。

「とりあえず中身を確認するだけなら、オフラインで作業できる。実際にこのデータを使うかどうかは、その後で決めればいい」

 そう言って、メモリーチップを目の前にかざす。ミズコシは頬杖を突き、それを斜めに眺めた。反対の手の人差し指がトントンと肘掛けをノックし、そのリズムに合わせるようにして組んだ上側の脚が揺れている。

 既に盟友のようになったこの男を、こんな口車で揺さぶるのには罪悪感があった。先ほど言ったように、ミズコシにも心に抱える事情がある。互いの事情が合致したからこその協力関係であることも確かだ。

 だがこのデータを託されたのは、他でもないクオンなのだ。ミズコシにしてみれば、これ以上の危険を冒してまで自分に手を貸す義理はないだろう。しかし、クオン自身はこのデータを開くための機器を持っていない。ミズコシの協力なしには速やかにデータ公開できないことも、また事実だった。

 しばらく沈黙を守っていたミズコシが、静かに口を開く。

「まったく、ヘッタクソな駆け引きだぜ。思ってもねぇこと言ってんじゃねぇよ。見え見えなんだよ」

「わ、悪い……」

「本当にヤバくなったら、俺はマジで逃げるかんな」

「……ミズコシ」

「高く付くぜ」

 よっ、と反動を付けて身を起こし、クオンの手からメモリーチップを抜き取る。

「ありがとう……」

「どうせ他に宛てがねぇんだろ?」

 ミズコシはにぃっと笑みを作ると、メモリーチップをスロットに挿した。そしてマウスを操作し、データを展開しようとする。しかしモニターに表示されたのは、画面いっぱいに拡がる大量の数列だった。

「何だよ、面倒臭ぇ感じの暗号掛かってんじゃねぇか」

 ミズコシは顎に手を当て、眉根を寄せた。そして何かを思案するように首を捻っている。

「どうした?」

「いや、ちょっとな」

「解けそうか?」

「……おい、俺を誰だと思ってやがんだ」

 そう言ってニヤリと笑った。その目には楽しげな光すら灯っている。

「頼もしいな」

「……まぁ、とりあえずやってみっか。ちょっとそこで待ってろ」

 ミズコシはさっそく作業に取り掛かる。カタカタというタイピングの音が、ハードディスクの作動音に混じって響き始めた。

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