第21話 絶体絶命

 キッカは国道一号線を東へ上っていた。行きはそこそこ交通量のあった道だが、この時間帯ともなると車の姿はほとんど見られない。

 人の住まなくなった夜の街は闇と同化していた。行く先を照らすのは、黄色の点滅信号と車のヘッドライト、そして空の高い位置に貼り付いた満月のみである。

 助手席には、ショルダーバッグとマスターからもらったグレネードランチャーが置いてあった。『スワロウテイル』で見送りを受けた時の、三人の顔を思い出す。たった数時間、共に過ごしただけであったが、長年の知己に別れを告げたかのような不思議な感覚だった。

 特にユナには、どうしても妹の面影を重ねてしまう。自分たちが孤児になった時、妹はまだ二歳で、親の顔すら覚えてはいなかった。キッカによく懐いて、いつも後を付いて回っていた。僅か十歳で命を落とすまで。

 先ほどユナと約束を交わしたことを思い返すと、自分でも驚くほどの鋭い痛みが胸に走った。理由は分かっている。でも、今はそんなことを考えている場合ではない。キッカは深く息を吐くことで、気の迷いを霧散させた。

 思考を川島博士の救出作戦へと戻す。データの公開は、順調に進んでいるだろうか。あのクオンという男には信用が置けそうである。

 不思議な男だった。自衛隊員として非人道的な戦闘に参加させられ、手足を失った。ようやく掴んだ幸せも、たったの三年で引き裂かれてしまった。

 それなのに、クオンには歪んだところが一つも見受けられなかった。物腰も穏やかで、突然の敵襲にも冷静に対処していた。川島博士も、彼だからこそ想いを託したのかも知れない。

 今キッカがすべきなのは、一刻も早くシズオカ統治区まで戻ることだ。会社への侵入経路には心当たりがあった。以前の任務の際に通った道を使えば、敷地内へ入り込むことは容易い。

 あのデータが公開され、それが知れれば、社内でも何らかの動きがあるはずである。そうなればモリノもきっと抜け出しやすくなる。それまでに、可能な限り会社に接近しておくべきだろう。

 クオンと会話をしている時に胸の奥で生まれた冷たいしこりは、今やすっかり鳴りを潜めている。身の内に宿り続けるあの熱が、まるで暗闇に沈んだ海路を照らす燈台の光のように強く灯っていた。


 ダッシュボードの時計をちらりと見やる。時刻は午後一時四十七分。このまま順調に行けば、二時半頃には会社の近くまで行けるだろう。

 視線を前方に戻したその時だった。

 突如、ヘッドライトの光の中に人影のようなものが現れた。一瞬にして背筋が凍る。

 咄嗟にブレーキペダルを踏み込み、左に急ハンドルを切る。ドンという鈍い音と、激しい振動。右のフロントバンパーで引っ掛けてしまったらしい。

 車は止まり切れず、一回、二回とスピンする。タイヤがアスファルトと摩擦する耳障りな音が、鼓膜に鋭く突き刺さる。

 気付けば目の前に電柱があり、そこへめり込むように正面衝突した。瞬間的に膨らんだエアバッグで視界を塞がれる。

 キッカがエアバッグに阻まれてシートベルトを外すのにもたついていると、突然ドアが開き、何者かに右腕を掴まれて身体ごと車外へ引き摺り出された。乱暴に地面へと投げ付けられたキッカは、反射的に受け身を取りつつその相手を見やった。

 するとそこには、大柄な体躯の男が一人、仁王立ちで彼女を見下ろしていたのだった。

 これまで襲ってきた兵士たちとは違ってヘルメットは被っていないが、迷彩服と暗視ゴーグルは同じものだ。ここへ来て、三たびの刺客である。すうっと体温が下がった。

 なぜ、こんなところに。

 深く考える暇もなく、すぐさま起き上がって男から距離を取る。さっと目を配った限りでは、今回はこの男一人のようだ。

 車の右側のヘッドライトは粉々に割れ、バンパーも大きく凹んでいた。キッカが撥ねた人物は影も形もない。あれは確かに人間のように見えたのだが、違ったのだろうか。だとしたら一体何にぶつかったのか。辺りにはそれらしきものすら見当たらない。

 ただ、目の前に大柄な男が立っているだけだ。

 その男はにやりと笑うと、拳をかざして殴り掛かってきた。動きがやけに大振りだ。身体をひるがえし、それを難なくかわす。

 しかし次の瞬間、視界に飛び込んできた光景に、キッカは自分の目を疑った。

 なんとつい先ほどまでキッカのいた場所に打ち込まれた男の拳が、アスファルトをやすやすと突き破り、地面に穴を開けていたのだ。

 当然、普通の人間ではできない芸当である。キッカは動揺を隠しながら、構えを作って男に向き合った。

 大股で助走を付け、右脚で男の太い首へとハイキックを叩き込む。硬い衝撃が脛骨に響く。相手はしかし、そびえ立つ大木のようにびくともしない。

 逆に男はキッカの足首を掴み、そのまま彼女を振り回して宙へと放り投げた。どうにか空中で体勢をコントロールし、道路に着地した。

 立て膝を突いた低い姿勢のまま、男と対峙する。

 アスファルトを突き破る拳、戦闘用義足による蹴りにも動じない頸部。そして恐らく——時速約八十キロメートルの車と衝突しても、傷一つ付かない身体。動きに機敏さこそないものの、その頑丈さはとても人間とは思えない。

 こいつは一体、何者なのか。

 キッカは左脇から銃を抜き、躊躇ためらいなく引き金を引いた。続けて二発、三発と急所に撃ち込む。放たれた銃弾はそれぞれ男の眉間、左頸部、喉仏に命中する。しかしそのどれもが、皮膚を一切傷付けることなく弾かれてしまった。

 こいつ、銃も効かないのか。

 驚愕のあまり、思わず後退あとずさる。それが一瞬の隙となった。

 これまでとは一転、男はその体躯に似合わぬスピードで走り出した。あっという間に距離を詰め、キッカの鳩尾にボディーブローを叩き込む。強烈な衝撃に、一瞬意識が飛んだ。

 気付くと受け身も取れないまま、背中から地面に叩き付けられていた。喉の奥で呼気が詰まる。まともに息ができない。鳩尾と背中に喰らったダメージで、キッカは横たわったまま身体をくの字に曲げてせ込んだ。

 呼吸を整える間もなく、左腕を掴まれた。最初の戦いで負った銃創にびりりと痛みが走る。

 男はキッカを同じ目線の高さまで軽々と吊るし、左手で顎をくいと持ち上げた。

「へぇ、なるほどね」

 男の口許が、嫌な形に歪む。暗視ゴーグルの向こう側の目に下卑た色がちらりと映ったように見えた。

 次の瞬間、キッカは急に解放され、どさりと地面に崩れ落ちた。すぐさま男が上から伸し掛かってくる。細身の身体はいとも容易く仰向けに倒され、そのまま組み敷かれてしまった。

「なっ……!」

 キッカが抵抗しようとすると、すかさず両腕を押さえ付けられた。腰の辺りに男がまたがっているため、下半身も自由が効かない。

 男がにやにやしながら言う。

「どうせなら俺もハニートラップに掛けてもらいたいところだったがな」

 巨軀の下でもがきながら、キッカは相手を睨み付けた。しかし男はそれすらも嘲笑う。

「悪くねぇ」

 考えてみれば、アスファルトを貫く拳が人間の骨を砕けないはずはない。お前など殺そうと思えばいつでも殺せる。そういうパフォーマンスをした上で、凌辱するために敢えて手加減したのだろう。

 男はキッカの両手首を左手一つで押さえ付け、空いた右手でTシャツと下着を引き裂いた。白い素肌が呆気なくさらけ出される。柔らかな曲線を描くそれを舐めるような視線で眺め、男は荒い吐息を漏らした。

 ごつごつした感触の手によって、乱暴に身体をまさぐられる。どうにか逃れようと必死に抵抗を続けるが、腕の拘束が緩む兆候は微塵もなかった。無理やり暴れようとする度、傷がずきずきと痛む。

 左肩に巻かれた包帯に目を留めた男が、傷のある部分を親指で抉るように掴んだ。鋭い痛みが全神経にほとばしる。キッカの表情は大きく歪み、身体がびくんと震えた。

「——んあぁ……っ!」

 思わず、喉から悲鳴が漏れた。

 嗜虐的な笑みを浮かべた男が、至近距離に顔を寄せ、掠れた声で囁く。

「……いい声で鳴くじゃねぇか」

 ぞっと、悪寒が背筋を這い上がった。

 普通の相手であれば、こんな状況になってもすぐに跳ね除けられるのに。

 キッカが無駄な抵抗をしては嬌姿を曝すのを、この男は心底愉しんでいるようだった。もがけばもがくほど、相手の汚い欲望を増長させることになるのだ。

 キッカの頭の中では、凄まじい怒りと焦燥が轟々と渦を巻いていた。

 異常な力で一方的に捩じ伏せられ、自分の身体を相手にもてあそばれる屈辱。力の差、体格の差、雄の本能の前に屈服せざるを得ない現実。それらを覆す手段は、何一つとてない。

 このまま無理やり犯され、そして殺されるのか。

 言い知れぬ悔しさに視界が震え、滲んでいった。

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