第22話 女の矜持

 男の手がいよいよジーンズに掛かり、留め具が引き千切られた。それを下着ごと太腿までずり下げられる。

 生温かい息が鼻先を掠める。獲物を捕らえた肉食獣の如く、目をぎらつかせた男がじゅるりと舌舐めずりをした。その口の端から零れた唾液が一筋、頬の上に垂れてくる。

 そこでふと、沸騰寸前の脳裏に冷静な思考がよぎった。

 こいつ、皮膚は確かに恐ろしく頑丈だが——。

 男が、今度は自分のズボンに手を掛け始めた。しかし興奮のせいかベルトを片手で外すのに手間取っている。もたつけばもたつくほど、男が苛立ちを募らせるのが分かった。

 ベルトに気を取られた男が、キッカの両手首を拘束する手を僅かに緩めた。その機を逃すことなく、素早く右腕を抜く。そして男の首をぐっと抱き寄せると、唇を塞いだ。

 力ずくで組み敷いた女から突然キスされたことに、男の身体が警戒を示して強張る。だがキッカはそれを許さない。唇の間からするりと舌を割り込ませ、歯列をなぞった。

 先ほどこの男は、ハニートラップに掛けられたい、などと口にした。ならば今、その望みを叶えてやろう。

 歯茎を甘くくすぐる刺激で弛緩した歯の隙間から、更に奥へと舌を滑り込ませる。相手の舌を捕らえ、わざと音を立てながら絡み付かせた。

 脳髄を麻痺させるような水音は、男の耳にも届いているはずだ。それまでキッカを押さえ付けることに終始していた男の身体が、不意に与えられた快感にぴくりぴくりと反応している。

 長い睫毛の下から濡れた瞳で男を見つめた。この暗闇の中でも、暗視ゴーグル越しなら見えるだろう。男の理性を剥ぎ取って蜜を根こそぎ絞り尽くさんとする、淫魔のような表情をした女の顔が。

 相手の舌の裏側の筋を、ねっとりと優しく舐め上げる。するととうとう我慢できなくなった男が、今度は自らキッカの口内に舌を捻じ込んできた。最奥まで挿入された男の舌。それを逃さぬように吸いながら、きゅっと締め付け包み込む。

 そっと瞼を閉じ、また開ける。その目には既に、いつもの怜悧な光が戻っている。

 侵入した男の舌を、一息に噛み千切る。瞬間的に鉄の味が口の中に拡がった。相手は突然の激痛に身を捩じらせ、思わずキッカを拘束する手を離した。

 その隙に巨体の下から這い出る。ジーンズを引き上げながら身を起こし、口の中に残った舌を吐いて捨てる。そして男が呻いている間に、一目散に走り去った。

 乗ってきた車まで、約三十メートル。その距離を数秒で駆け抜ける。歪んだ助手席のドアを抉じ開け、マスターからもらったグレネードランチャーを探す。座席の下に落ちていたそれを引っ掴み、距離を取るべく再び地面を蹴った。

 更に進むこと数秒。振り返って、銃の柄を右肩に当てて構える。照準器の十字に、ようやく立ち上がった男の姿を捕捉する。

 舌を噛み切られた男は、文字通り舌足らずに何事かを叫びながら、キッカに向かって突進してきた。興奮の限界を振り切り、言葉にならない咆哮を上げるその形相は、まさしく獣そのものだ。

 刹那。

 一時は冷静な思考によって覆い隠されていた激しい怒りが、まるで地面を割って噴出するマグマのように、一気に膨れ上がって爆発した。

——ブッ殺す。

 人差し指が、迷いなく引き金を引いた。重い反動に右肩が弾かれ、思わず蹌踉よろめく。

 ぽんと撃ち出されたグレネード弾は、きゅるきゅると虚空を切り裂きながら弧を描いて飛んでいく。念を込めた一発は、男の上半身に命中した。

 その瞬間、轟音と爆風が巻き起こる。キッカ自身も衝撃波に曝されるが、咄嗟に身を伏せてそれを避けた。

 爆発の余韻が収まるのを待って、身を起こす。着弾地点には、男の腰から下の部分だけがどうにか原型を留めた状態で転がっていた。辺りには人肉の焼ける嫌な臭いが立ち籠めている。

 キッカは男の残骸に大股で歩み寄った。そして今もしぶとく残る相手の股間を、夜叉のような表情で力任せに蹴り上げ、ブーツの踵で思い切り踏みにじった。

 冷たい風がはだけた胸を掠めていく。怒りの衝動が去り、酷い倦怠感が全身を包む。抉られた左肩の傷口はじんじんと痺れるように痛み、そこから血が滲み出てくるのが分かった。今更になって、がくがくと膝が震え始める。

 本当に、いつ殺されてもおかしくなかった。辱められて腹わたが煮え繰り返ったが、そのおかげでどうにか助かったのだ。

 キッカはがくりと腰から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。レインコートの前を掻き合わせ、自分自身を抱き締める。ほどけて乱れた長い髪が顔の前に垂れ、夜風に震えていた。

 どうして自分はこんな場所で襲われたのだろう。あの男は待ち伏せをしていたのだ。キッカがここを通ることを予め知っていたかのように。

 引っ掛かる点はまだあった。奴らはメモリーチップを奪い返しにきたのではなかったのか。思えばこれまで襲ってきた刺客たちは皆、メモリーチップを探すそぶりも見せず、いきなり容赦のない攻撃を仕掛けてきた。

 まるで、キッカを殺すことこそを第一目的としているのではないかと思えるほどに。

 その考えは、首筋を撫でる鋭利な刃物の如く、キッカをぞっとさせた。

 なぜ自分がこうも執拗に狙われるのか。どうして奴らには自分の正確な居場所が分かるのか。そしてつい今しがた倒した人間兵器のようなあの男は、一体何者だったのか。

 何かを考えようにも、キッカはあまりにも疲れていた。一刻も早く川島博士の元へ向かいたかったが、車は破壊され交通手段を失った。ここからシズオカ統治区まで、歩いて行ける距離ではない。

 全くの独りだった。警告のように点滅する黄色信号の遥か上空に、物言わぬ満月が佇んでいる。

 ずっと後を付いてくる月。キッカがいつ野垂れ死ぬのかと、高みの見物を決め込んでいるのだろうか。

 胸の奥から、底意地のようなものが湧き出してくる。こんなところで立ち止まる訳には、ましてや倒れる訳にはいかない。

 キッカは手を突いてゆっくりと立ち上がった。留め具の砕けた腕時計が左手首から滑り落ちそうになる。それは表面のガラスにひびが入っていたが、まだ動いていた。時刻は二時五分。

 重い足腰を引き摺るように、壊れた車まで移動する。助手席の下からショルダーバッグを探し出す。

 前へ、とにかく前へ。進む以外に道はない。疲労でぼんやりした頭の中で、ただその意志だけが冴え冴えとしていた。

 とりあえず今すべきなのは、安全な場所に身を移すことだ。キッカはレインコートのファスナーを上まで上げ、乱れた髪を指で梳いた。バッグを斜め掛けして、外した腕時計を入れ、少し離れた場所に落ちていた拳銃を拾ってホルスターに収める。そしてグレネードランチャーを胸に抱き締めると、ふらつく身体に鞭を打って歩き始めた。

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