第23話 仕組まれた罠

——お姉ちゃん!


 びくりと身を震わせ、キッカは瞼を開けた。慌ててあちこち見回す。

 古いアルミサッシの窓から、月明かりが射し込んでいる。机は全て教室の後方に寄せられており、その上に乗った椅子の脚が乱立する細いシルエットを形作っていた。

 遠くで虫の声がする。横向きに腰掛けた木の椅子の背もたれが右の腋に当たって痛い。先ほどから状況に変化のないことを確認して、ほっと息を吐いた。

 打ち棄てられた小学校の校舎。その最上階である四階の教室に、キッカは身を潜めていた。襲われた地点から程近い場所にこの小学校があったのは、不幸中の幸いと言えるだろう。建物に高さがあり、目の前は広いグラウンド。明かりに乏しくとも見張りがしやすく、おまけに夜風も凌げる。

 膝の上には携帯端末が置きっ放しになっている。時刻を確認して、ぞっとした。午前三時七分。重い身体に鞭打ちながらこの学校に辿り着いたのが、確か二時二十分頃だった。

 校舎の最上階まで上がって、見張りをしやすいようにこの教室の窓際に椅子を置いた。そこに腰を下ろした途端に泥のような睡魔が襲ってきて、気絶同然に眠り込んでしまったらしい。それにしてもずいぶん長いこと。改めて胸を撫で下ろす。

 右手には拳銃を握ったままだ。足許にはグレネードランチャー。左肩の傷に障らぬようショルダーホルスターは外し、埃の積もった床に置いてあった。バッグは右肩から斜め掛けしている。

 左腕を動かそうとすると、傷はまだ鈍く痛む。しかし『アニュスデイ』のおかげか、出血はひとまず止まったようだ。血で湿ったレインコートは乾きつつある。包帯を交換して着替えもしたいが、今は我慢する他ない。

 身体には重石のような疲労が伸し掛かっていた。傷口が熱を持つ一方で、背筋にぞくりと薄ら寒いものを感じる。軽い動悸が、胸の奥に巣食う不安を掻き立てている。

 視界の片隅で何かが動き、ぎくりとする。よく目を凝らすと、校庭の樹木が風で大きく揺られただけだった。大きな溜め息をつき、目頭を揉んだ。

 絶え間なく鳴り響く虫の声が神経に障る。

 未だかつて、これほどまでに過酷な任務があっただろうか。今までにも、法に触れるような危険なことならたくさんやってきた。しかしそれらは全て、与えられた作戦に沿って行動していただけのことだ。キッカは歯車の一つであり、決まったタイミング、決まったペースでくるくると回っていれば問題なかった。

 ところが今はどうだ。昨日の夕方からの連戦による疲労と、何かにつけて不自由を強いられる左肩の銃創。車を失い、孤立無援となってしまったこと。今もなお、いつどこから敵が襲ってくるのか分からないこと。自分を取り巻く状況の全てが、じわじわと精神を蝕んでいた。

 組織を離れ、追われるということは、こういうことなのだ。せめて誰か頼ることができれば——。

 そこでようやく、はっと思い出す。自分はクオンに連絡しようとしていたのだ、と。

 この椅子に座った後、そのためにバッグから携帯端末を取り出したおぼろげな記憶があった。自分でも驚くほど頭の回転が鈍っている。しっかりしろ、と頬を打つ。

 現状の報告と、可能であれば救助の要請。必ず川島博士を救出すると宣言した手前ではあるが、モリノから連絡がない今、頼れるのはクオンだけなのだ。

 ハママツからこの場所まで、車で一時間半くらいだ。眠り込んでしまった時間が悔やまれるが、もうどうしようもない。

 時刻は三時十五分。キッカは携帯端末を操作し、クオンの番号を表示させた。

 発信ボタンを押そうとした、まさにその時だった。

「動くな」

 背後から突然、男の声がした。

 誰かがこの建物に侵入したら、僅かなりとも物音や空気の動きがあるはずだ。だが、ぼんやりしていたとはいえ、そのようなものは一切感じなかった。

 背筋が凍り付いた。その人物は、完全に気配を消してキッカの背後に立っているのだ。

「手を上げて、ゆっくり立て」

 聞き覚えのある声だった。しかしその声は、いつもとは違う色を孕んでいる。キッカは言われた通り、両手を上げて椅子から立った。

「そのままこちらを向け」

 そろりと、声の主を振り返る。

「ソウマ……」

 キッカの目の前に銃を構えて立っていたのは、一人の若い男。同じ特別情報課のメンバーであり、もう一人の戦闘用生体義肢の被験者——相馬ソウマ 要二朗ヨウジロウだった。

 いつものスタイリッシュなスーツ姿ではなく、今日は暗い色のモッズコートを身に纏っている。黒っぽいワークパンツの右太腿にはレッグホルスター。足許はがっしりした革のコンバットブーツだ。

 月光に照らされた端正な顔には、人を揶揄する普段の表情はない。刃のような鋭い眼光がキッカを射抜いている。

「武器を下に置け。それから手を頭の後ろで組んでひざまずけ」

 キッカは大人しくソウマの指示に従った。床に置いた拳銃は蹴り飛ばされ、机の下の、手の届かないところに滑っていってしまう。握っていた携帯端末も奪われ、電源を切られる。

「データはどこだ」

 ソウマは感情を殺した声で問うた。キッカは視線を落としたまま黙っている。

「答えないなら勝手に探させてもらう」

 ソウマはそう言うと、右手で銃を構えたまま身を屈め、空いた左手でレインコートやジーンズのポケット、ショルダーバッグを探った。続いて、床に置いたホルスターのマガジンポーチの中身をあらためる。メモリーチップはクオンに預けてあるので、当然出てくるはずもない。

「……まさかとは思うが、下着や身体の中に隠してるんじゃないだろうな」

 さすがに目の付け所はいい。

 キッカは軽く首を傾げ、睫毛の下からソウマを見上げて、艶を含ませた声で囁く。

「裸にして調べてみたら?」

 ソウマは一瞬ぴたりと動きを止めたが、僅かに眉をひそめただけで、低い声で静かに言い募った。

「同期のよしみで言ってるんだ。お前には銃殺命令が出ている。データの在り処を言わないなら、お前を殺す」

 この手の揺さぶりが通用する相手ではない。

 そもそも、昨日キッカが会社を後にする際この男に見つかったせいで、今このような状況に陥っているのだ。だがそれ故に、ソウマが川島博士たちの現状を知っている可能性は高い。

 キッカは表情と声の調子を元に戻した。

「……ソウマ、川島博士はどうしてる?」

 ソウマがキッカを睨み付ける。

「お前……博士を裏切っておいて、よくそんな口が聞けるもんだな」

「裏切った? 私が、博士を? 一体どういう……」

「黙れ」

 銃口が額に押し当てられる。ソウマの眼差しはこれまでに見たこともないほど冷たく、険しかった。

「もう一度訊く。データはどこだ。答えろ、タチバナ 菊花キッカ

 キッカは口を引き結び、ソウマを見据えた。二人の視線がまともにぶつかり合い、膠着状態となる。

 やがてソウマはコートの内ポケットから自分の携帯端末を取り出し、電話を掛け始めた。教室内を満たす静寂の中に、漏れ出たコール音が小さく響く。

 その間も、ソウマはキッカから視線と銃口を外さなかった。電話は三コール目で相手と繋がった。

「ソウマです。タチバナを確保しました。データはどこかに隠したようです。……えぇ、そうです」

 キッカはその会話に耳をそばだてていた。相手の声はよく聞き取れないが、恐らく社内の誰かだろう。

「……そうですか。分かりました、モリノさん」

 一瞬、耳を疑った。今、ソウマは何と言った?

「了解。また連絡します」

 ソウマは携帯端末を内ポケットに仕舞い、再び両手で銃を構えた。

「ソウマ、今の電話の相手は誰?」

「答える必要はない」

 キッカは強張った表情でソウマを見上げる。彼は今確かに、モリノの名を口にした。

「今のは……モリノさん? モリノさんはこの計画の協力者なんだ。ちゃんと話を聞けば……」

 その言葉は、ソウマの放った威嚇射撃によって遮られた。キッカのすぐ足許から糸のような硝煙が立ち登っている。あと数センチで膝を撃ち抜こうかというところだった。

「黙れ。裏切り者の弁は聞くなという命令だ。これが最後のチャンスだ、タチバナ。データはどこだ。答えないなら、今度はお前の頭を撃ち抜く」

「ち、ちょっと待って……私に、モリノさんと話をさせてほしい。一体何がどうなってるのか……」

 その瞬間、ソウマの表情が怒りに歪んだ。左手でキッカの胸倉を掴み上げる。

「タチバナお前……モリノさんが協力者だと? 何を出鱈目言ってやがるんだ! お前がそういう奴だったとは、本当に見損なった……!」

 互いの鼻先が触れてしまいそうな至近距離で、ソウマの瞳が怒りにうち震えていた。その剣幕に気押されそうになるが、キッカは唇の内側をきゅっと噛んで睨み返す。そして掴まれたレインコートの襟ぐりを引き寄せて正しながら、苛立ち混じりの声で言う。

「……さっきの携帯はモリノさんからもらったんだ。昨日の午後、博士から任務を受けた時に、緊急連絡用にとモリノさんから……」

 言いながら、はっとした。キッカの脳裏に信じたくない可能性がよぎる。

 キッカはあの携帯端末を、肌身離さず大切に持っていた。モリノと繋がる唯一の連絡方法だったからだ。

 そしてキッカが単独行動を開始した直後から、追手はピンポイントでこちらの居場所を特定し、襲撃してきた。道を先回りされ、待ち伏せされていた。

 それはなぜだ?

「え……?」

 思わず右手で口許を覆った。

 もし——モリノが初めからキッカを追跡する目的で、あの携帯端末を渡したのだとしたら。

 端末は電源をオンにしている限り、微弱な電波を発信し続ける。それをGPSで辿れば、キッカの居場所を掴むことくらい容易い。全く疑いもしなかったが、あの端末にはそのための設定がなされていたのだろう。

『何かあったら連絡する。電源入れといてくれよ』

『また隙を見て連絡する』

 そうしたモリノの言葉を信じて、キッカは電源を入れたまま連絡を待ち続けていたのだ。

 腰からすとんと崩れるように座り込む。指先が痺れ、震えていた。

 自分はモリノにめられたということなのだろうか。これだけ執拗にキッカを殺しに掛かっているのは、本当にモリノなのか。

 信じられない。信じたくない。だが、そう考えれば辻褄が合う。

 なぜ? 一体なぜ? 激しい困惑が頭の中で砂嵐のように吹き乱れていた。心臓がざわざわと騒ぎ、冷たい汗が背中を伝っていく。

「言う気になったか?」

 へたり込むキッカを見下ろし、ソウマが落ち着きを取り戻した声で言った。既に戦意を喪失したように見えるキッカに対して、もはや銃口も向けてはいない。ソウマは腰を落として、目線の高さを合わせた。

「データがどこにあるか教えろ。お前だってこんなところで死にたくないだろ」

 キッカは顔を上げ、ソウマを見た。彼の表情からは感情が読み取れない。

「ソウマ……違うんだ、これは……私、モリノさんに……」

 唇が震えていた。喉が詰まり、舌がもつれてうまく言葉にならない。目の奥が熱くなり、視界が揺らぐ。

「……泣き落としのつもりか。最低の女だな」

 ソウマは冷ややかにそう言うと、立ち上がって銃を構えた。

「もういい、お前は殺す」

 向けられた銃口が、再びキッカを捉える。覚えのない罪に裁きを下そうとする闇よりくらい深淵が、その小さな穴の向こうに拡がっている。

 世界から、音がすうっと遠のいた。

 ソウマが引き金に掛けた人差し指に、ゆっくりと力を込めていく。

 キッカはぎゅっと目を瞑り、自分自身を抱き締めて身を固くし、その瞬間を待った。

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