第33話 川島博士の告白

——タチバナ 絢芽アヤメさんを殺したのは、この私なんだ。

「え……?」

 時が、止まった気がした。その言葉の意味を、咄嗟に理解できなかった。

 なぜ川島博士の口から妹の名が出てくるのか。妹は手術後のウイルス感染で死んだのではなかったのか。

「君の妹さんは右手が不自由だっただろう。私は彼女を……アヤメさんを、実験台にしたんだ。当時開発途中だった、戦闘用生体義肢のな」

 心臓が、鋭い痛みを伴ってどきりと跳ねた。

「今から八年前——私がまだトヨハシ自治区の『川島病院』にいて、内戦で負傷した人々を治療していた頃のことだ。ナショナル・エイド社からの依頼で、アヤメさんをうちの病院に受け入れた」

 キッカはただ呆然と立ち尽くしていた。鼓動が足を速めていく。

「手術は失敗だった。アヤメさんの身体はまだ技術が不完全だった戦闘用義肢に拒絶反応を起こして、心肺停止した。腕の継ぎ目はどす黒く腐敗していたよ」

 果たして、そうだっただろうか。施設に戻ってきた妹の遺体は、きっちりと服を着せられていた。無言の面会は理事長とナショナル・エイド社の担当者が同席して、十分足らずで終わった。そんなことを確認する隙などありはしなかった。

「その後、私がこの会社に来てから戦闘用義肢は完成し、プロジェクトが本格的に始動した。私は、被験者に選ばれた君があの子のお姉さんだということを知らされていた。知っていながら、君を手術した。私は君たち姉妹の人生を奪ったんだ」

 キッカの胸の奥には、いつの間にか小さなしこりが現れていた。クオンに自分の仕事のことを説明しようとした時にできた、あの氷の塊のようなしこりだ。そこから漏れ出た冷たい血潮が、瞬時に全身を駆け巡る。

 人生。

 戦闘用生体義肢の被験者として生きる人生。

 法や倫理に悖る、決して表沙汰にはできない任務を淡々とこなす人生。

 紛れもない、『人間兵器』としての人生だ。

「それにも関わらず、これまで私は何食わぬ顔で君と接してきた。自分を偽って、君に対する罪から目を背けていたんだ。あまつさえ君を私の我儘に巻き込んで、命を危険に曝している。その私が君と一緒に逃げ出すことなど、どうしてできるだろうか」

 川島博士が再びこうべを垂れた。

「タチバナくん、どうか一人で逃げてくれ。何なら君の手で殺してくれても構わない。君から大切なものを奪った、この私を」

 手が、足が、おののいていた。頭の中には砂嵐が吹き荒れ、思考を麻痺させている。

 妹を喪った時の哀しみを、悔しさを思い出す。まるで眠っているようだった妹。キッカの知らないうちに物言わぬ存在となってしまった、幼い、愛しい、たった一人の妹。

 無意識に、右ポケットの拳銃に手が伸びる。握り締めたグリップは身体を巡る血と同じぐらい冷え切っていた。安全装置を外し、項垂うなだれる川島博士へと銃口を向ける。

 人差し指が、引き金に掛かる。狙いを定め、ゆっくりと、力を込めていく。

 酷く震えていた。銃口が。指が。腕が。

 心臓は激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。耳の中は雑音で満たされ、視界が揺らぐ。

 頬を、一筋の涙が伝っていった。

——できない。この人を撃つなんて、私にはできない。

 そっと銃を下ろして安全装置を掛け、ポケットに戻す。細く長く息を吐き、顔を上げた。

「……博士、教えてください。何が理由で、そんな人体実験のようなことをしたんですか。信念に反した研究を強要されて、拒めなかったのはなぜですか。データを外部に漏らしておきながら、今もここを動こうとしないのは、一体どうしてなんですか」

 川島博士が少しだけ頭を持ち上げる。しかし相変わらず視線は落としたまま、沈黙を保っていた。

 キッカはなおも言い募る。

「答えてください、川島博士」

 口を開きかけては閉ざし、首を振る。何度かそうして逡巡した末、川島博士はようやく掠れた声を発した。

「……会社に、人質を取られている」

「人質?」

 博士は僅かに視線を動かした後、瞼を閉じた。そして眉間に一層深い皺を寄せ、搾り出すように言った。

「……妻だ」

 その瞬間、全ての感覚がすうっと遠のいた。冷え切って凍て付いた心に、アイスピックで一突きされたような痛みが走る。初めのうちはほんの点でしかなかったそれは、ぴしりぴしりと小さな音を立てながら、徐々に大きな亀裂となって見る見るうちに拡がっていった。

 川島博士は三たび顔を伏せる。

「本当にすまない、タチバナくん。私など見捨てて、早く逃げるんだ」

 芯を失った思考回路が動きを止める中、キッカによく似た誰かが言葉を発する。

「できません」

 唇から滑り落ちたその声は、まるで他人のもののように聞こえた。ひび割れた氷のスクリーン越しに響く、どこか無機質な女の声だ。

「川島博士、私の話を聞いてください。あなたの娘さん——ハルカさんが、『川島病院』でコールドスリープ装置に入ったまま、ずっと眠り続けているそうです。クドウさんはそれを博士に伝えようとしていたんです」

 川島博士が身を起こし、目を見開いた。その表情が、動揺で満ちていく。

「ハルカが……?」

「博士、このままここにいても何も変わりません。奥様を助けることだってできない。でもここから出れば、ハルカさんを救うことはできるかも知れません。研究のことはデータを公表すれば世間に暴けます。そうとなれば会社も下手な動きはできないでしょう。奥様を助け出すチャンスもあるはずです」

 女は随分と饒舌だった。真に迫る懇願の表情まで浮かべ、川島博士を説得にかかっている。

「しかし……」

「博士を連れて帰ると、クドウさんと約束したんです。早くここを出ましょう。警備員に気付かれる前に」

 川島博士はなおも躊躇ためらっていた。キッカの中に焦りと苛立ちが募っていく。

 この期に及んで、なぜ動こうとしないのか。

 先ほどキッカに述べた言葉は、何に対する謝罪だったのか。

 どうあってもこの人は——キッカを選んではくれないのか。

 スクリーンの奥の自分と、平然とした表情を顔に貼り付けた自分が、不意に重なる。亀裂の入った心がきりきりと軋み、どうにか保っている正気を掻き乱そうとする。

 そしてとうとう、胸の奥底に押し込めていた本心の一部が、ぽろりと零れ出た。

「……博士がここを動かないなら、私も動きません」

 そう言ってから一瞬、しまったと思った。なんて見苦しいのだろう。そんなことを言えるような立場でもないのに。

 しかし同時にこうも思った。こんな我儘を言わせるあなたが悪いのだ、と。

 その心中を知ってか知らずか、川島博士はしばらくじっとキッカを見つめていた。そしてようやく、決意を固めた瞳で頷いたのだった。

「……分かった、一緒にここを出よう。私をケイイチくんのところへ連れていってもらえるかな」

 キッカは小さく息をつく。何に対してほっとしたのかは、考えないことにした。

「ありがとうございます。追跡を避けるため、携帯の電源は切ってください。それから……少し失礼します」

 川島博士に歩み寄り、襟元やポケットに発信機の類がないかを確認した。

「大丈夫ですね。……少々お待ち頂けますか」

 キッカは扉の前に倒れ伏した同僚の脇腹を足で小突いた。意識がある時であれば、何らか反応のある敏感な箇所だ。彼はまだ気絶しており、その身体は力なく揺れただけだった。デスクの上にあるパソコンのコードを引き抜き、それを使って男の手足を拘束した。

「お待たせしました。では参りましょう」

 二人で連れ立って廊下に出た。静かな、しかし素早い足取りで階段へと向かう。その途中で、川島博士がぽつりと呟いた。

「タチバナくん……すまない……」

 もう何度目の謝罪だろう。その言葉を聞く度に、少しずつ心の亀裂が深くなる。

「いいんです、博士。お役に立てるのなら」

——私は上手く笑えているだろうか。

 階下へと下っていくのと同時に、キッカ自身もくるくると円を描きながら、暗く深いところへと堕ちていくような気がした。

 吹き抜けの階段ホールには、二人分の足音だけが小さくこだましていた。社員の多くは別の階へ移動するのに大抵エレベーターを利用する。そろそろ出勤の時間帯ではあるが、ここを通る者は今のところいない。

 階段の出口からあのマンホールに一番近い裏手の非常口までは、トイレと管理室の前を通るだけだ。このまま行けば無事に建物の外へと脱出できるだろう。

 しかし、三階から二階へ向かって階段を駆け降りている時のことだった。

 突然、けたたましい非常ベルの音が、静寂を切り裂いて辺りに響き渡ったのである。

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