ch.2 運命の夜

第4話 忍び寄る暗雲


 それから三年の時が流れた。

 内戦は相変わらず続いていたが、トヨハシ自治区の戦闘は緩やかに収まりつつあった。しかし未だに地雷の被害者はぽつぽつとおり、川島病院には常に十人前後の入院患者がいた。

 現在、ケイイチはスタッフとして『川島病院』で働いている。三年前に移植した人工義肢にもすっかり慣れ、今や元の手足と遜色ないほど自在に動かせるようになっていた。資格がないため医療行為はできないものの、患者の食事や着替えの補助、院内の清掃など、やることは山積みだった。

 時々、戦闘の起きた地区へ赴き、怪我人の捜索に当たった。その際には自衛隊時代に身に付けた応急処置が役立ったし、何より力仕事のできる男手は重宝された。

 忙しくも充実した日々。例え死と背中合わせの日常であっても、この川島病院には常にハルカの笑顔が咲いていた。


 ある日ケイイチが院長室を訪れると、川島医師は通話中だった。遠慮して一旦下がろうとするも、身振りで入るように促される。

 川島医師はケイイチには聞き取れない低い声でぼそぼそと二言三言を話した後、静かな動作で受話器を置き、小さく息をついた。

 ケイイチは軽く頭を下げた。

「すみません、お電話中に」

「いや、大した電話じゃないからいいんだ」

 川島医師はそう言って眉間の皺を指で揉んだ。

 このところの川島医師は、いつも思い詰めたような難しい表情をしている。ひと月ほど前から何となく様子がおかしい。心ここに在らずといった感じがして、何か悩んでいるように見えるのだ。今にしても、言葉の割には無理やり通話を切り上げた印象で、ケイイチは密かに訝しんだ。

 しかし今はそれを追及するような状況ではない。ケイイチは要件を切り出す。

「一◯五号室のアヤメちゃんのことですが……」

 川島医師の眉がぴくりと動いた。向けられた視線が言葉の続きを待っている。

「義手の接続部に異状があります。すぐに来てください」

「分かった。行こう」

 二人は連れ立って院長室を出た。


 三日前、この病院にアヤメという名の十歳の少女がやってきた。人形のようにすっとした目鼻立ちの、美しい少女だった。見たところ外傷などはなく五体満足のように思えたが、川島医師によれば、先天性の異状で右腕がうまく動かせないとのことであった。

 戦闘や地雷による負傷以外の患者は、知る限りでは初めてだった。アヤメが一体どのようなルートでこの無認可の病院にやってきたのか、ケイイチにはよく分からなかった。川島医師に尋ねたが、知り合いの筋からだとだけ言われ、詳しいことは教えてもらえなかったのだ。

 手術室へと向かうベッドに横たわったアヤメは、両手でぎゅっと何かを握り締めていた。

「それ、何?」

 ケイイチが尋ねると、緊張した面持ちのアヤメが、震える声で小さく答えた。

「御守り……」

 細い指を開いて見せてくれたのは、どこかの神社の御守りであった。

 不安な心中を察するのと同時に、この子には待っている家族がいるのだ、と思った。ケイイチはアヤメに笑みを向けた。

「大丈夫、眠ってる間に全部済むよ。終わったらお家の人に会いに来てもらおう」

 その言葉に、アヤメはほんの少しだけ微笑んだ。まだあどけない、可憐な笑顔だった。

 手術は川島医師の手によって速やかに行われた。全ての処置は適切で、何の問題もないはずだった。

 しかしアヤメは、コールドスリープを解除した後もなかなか目を覚まさなかった。以来、スタッフ全員が容態を注意深く気に掛けていたのである。


 一◯五号室の前まで来ると、ちょうど慌てた様子のハルカが部屋から出てきた。

「あ、お父さん、ケイイチさん……大変なの、アヤメちゃんの身体に変な痣が……!」

「何だって?」

 急いで病室に入ると、ベッドには白い顔をした少女が横たわっていた。その右腕に巻かれた包帯からはみ出すようにして、肩の辺りにまで紫がかった黒い痣が拡がっている。

「これは……拒絶反応なのか?」

 川島医師が呟くのとほぼ同時に、アヤメの身体に繋がった心電計のモニターが小刻みに震えた線を描き出し、アラームが鳴り響いた。

「心室細動……!」

 ハルカが蒼褪めた顔でそう言った。

「心肺蘇生!」

 川島医師のひと声で、ハルカは即座に救命措置を開始した。ナースコールを聞いた他のスタッフもすぐに駆け付けてくる。

 手早く除細動器が運び込まれ、アヤメの痩せた胸に電極パッドが取り付けられる。まずは一度、電気ショックが与えられた。しかし細動は治まらない。

 川島医師は至極冷静に、二度、三度と電気ショックを与え続けた。額には脂汗が浮かんでいる。それでも心電図は変わらず震えた線を示している。モニターを注視するハルカが、浅く息を漏らしていた。

 その場の誰もが懸命に措置を続けていた。ケイイチは川島医師のサポートに入りながら、祈るような気持ちだった。このような場面は何度出くわしても慣れることはない。どんな最先端の機器があったとしても、神に縋りたくなる。

 六度目の電気ショックの後だったろうか。川島医師が少女から離れ、深い溜め息をついた。

 心電計はモニター上に真っ直ぐな線を映し、ピーという無機質な音を発している。スタッフの一人が腕時計を見て静かな声で言った。

「午前十時四十八分、ご臨終です」

 ケイイチは静寂の中の耳鳴りにも似た電子音を聞きながら、ただただその場に立ち尽くしていた。全身の血が凍り付いてしまったようだった。

 物言わぬアヤメの右肩は、まるで悪魔にでも喰われたかのように、どす黒く染まっていた。


「ケイイチさん、ちょっと時間いいかな。少し相談したいことがあって」

 ハルカが声を掛けてきたのは、アヤメの遺体の処置が終わって一◯五号室を後にした時だった。その顔には疲労が滲んでいたが、それ以上に切迫したような色が瞳の中にあった。

 ケイイチにも少し思うところがあり、二人は他のスタッフがあまり立ち寄らない非常階段の踊り場まで移動した。

「お父さんのことなんだけど」

 そう切り出されると、ケイイチはやはり、と思った。

「俺も気になってた。最近の先生、ちょっと様子がおかしいよな」

「そうなの。アヤメちゃんのことだって——」

 先ほどのことを思い出したのか、ハルカは声を詰まらせた。ケイイチは頷き、後を引き継ぐ。

「先生がどういう事情で引き受けたか分からないけど、あの子に人工義手はうまく適合しなかった。今まで怪我が手遅れで亡くなった人はいたけど、義肢が合わなかったことはなかったよな」

「そうなのよね……」

 ひと月ほど前から川島医師の様子に不審な点があった。三日前にあの少女がやってきた。そして今日、生体義肢の拒絶反応という今までにないことが起こり、少女は死んだ。それらは全てイレギュラーなことで、それゆえ一連となった出来事のように思えたのだ。

 ケイイチは唸る。

「このところ、しきりに誰かと電話をしてるみたいなんだよな。先生、何かに巻き込まれてるんじゃないだろうか」

 ハルカは自分のナースシューズの爪先を見つめ、じっと何かを考え込むように押し黙っていた。

「ハルカ、大丈夫か?」

「うん、ごめんなさい……」

 弱々しい微笑が返ってくる。ケイイチはハルカの頭にぽんぽんと手を置いた。

「先生が心配なのは分かるけど、ハルカまで思い詰めたらダメだ。ともかく今は、俺たちにできることをするしかないよ。きっと先生は先生なりに考えがあると思うんだ」

 ハルカはじっとケイイチを見上げていたが、やがてゆっくりと視線を落とし、小さく頷いた。

「そろそろ巡回の時間だな。よし、行くか」

 わざと明るい声を出して歩き始めたケイイチの腕が、何かに引っ張られる。振り返ると、ハルカが白衣の袖を摘んでいた。

「ん? どうした?」

 ケイイチが首を傾げると、ハルカは目も合わせず俯いたまま、ぽつりと呟いた。

「……今夜、行ってもいい?」

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