第3話 ケイイチとハルカ

 川島カワシマ ハルカは、入院患者の間ではアイドルのような存在だった。

 年齢はケイイチより一つ下の二十歳。美人というほどではないが愛嬌のある面立ちで、笑うと顔全体がくしゃっとなり、口許にえくぼができた。ややふっくらとした女性らしい体つきに、いつもきっちりとサイドで纏められた柔らかな栗色の髪。そして何より、皆が安心感を覚える優しく美しい声の持ち主だった。

 戦場近くの病院であるにも関わらず、ハルカがいるだけでぱっと花が咲いたように空気が色付いた。その明るい笑顔を目にすると、誰もがつられて笑顔になった。

 ケイイチもまた、ハルカの丁寧な看護やちょっとした気遣いに、疲弊していた心が徐々に癒されていくのを感じていた。まるで粉塵と硝煙に隠れていた太陽が顔を出し、凍て付き荒れ果てた大地を温めるように。

 毎日、ハルカが病室を訪れるのを待ち侘びた。身体に触れられると胸が高鳴った。もっと近づけたらいいのにと、ケイイチは思っていた。


 ケイイチがようやく立ち上がれるようになったのは、手術から三ヶ月が経った頃だった。

 この頃には生体義肢の形状も元の手足に近くなり、力も入れやすくなっていた。そしてとうとう、向かい合ったハルカの腕に支えられた状態で、どうにか直立することができたのだった。

「ケイイチさん、おめでとう! 最初はバランスが取りにくいかもしれないけど、大きな第一歩ね。きっとすぐに自由に歩き回れるようになるわ」

 ハルカは心から嬉しそうにそう言った。

 今まで気付かなかったが、立ち上がってみるとハルカは思ったよりも小さかった。これまではベッドに横たわった状態か、良くても腰掛けた状態でしか接していなかったので、見上げてばかりだったのだ。「看病される」という状況がハルカを大きく見せていたのかも知れない。だからこうして見下ろすのは、何だか新鮮だった。

 ハルカの身長は女性としては平均的だ。長身でがっしりした体格のケイイチから見れば、大抵の女性は小さくて当然である。

 しかしケイイチが感じたハルカの小ささは、もっと感覚的なことだった。自分より二回りも大きなケイイチを懸命に支える姿が、健気で可愛らしい。こうしていると、ハルカのことを看護師としてではなく、一人の女性として意識してしまう。

 今までよりもずっと距離が近い。優しい笑顔が目の前で揺れる。触れ合った腕が熱い。

 気付いた時には身体が勝手に動いていた。

 支えられて立った状態から、両腕を小さな背中に回す。ハルカがびくりと身を緊張させたのが分かった。

「ケ、ケイイチさん……あの……」

 ハルカが身じろぎするのにも構わず、ケイイチは唯一生来のものである左腕に力を込め、その肩をぐっと抱き寄せた。

「や、やめ……」

 くぐもった小さな声が、胸に押し付けられたハルカの口から漏れた。腹の辺りに、量感ある二つの膨らみの柔らかな感触があった。髪からは甘い匂いがした。心臓の鼓動が嫌でも早くなる。

 一瞬のような永遠のような時間の後、ケイイチはゆっくりと身体を離した。すると途端にバランスを失い、背にしたベッドにすとんと腰を下ろす格好となった。

 視線を上げると、ハルカが硬直した顔で立ち尽くしていた。ケイイチはきまりが悪くなり、頭を掻いた。

「ごめん、つい……」

 ハルカは震える唇でどうにか言葉を紡ぐ。

「なんで……どうしていきなり、こ、こんなことを……」

「なんでって……そりゃ、君が好きだから」

 ケイイチは躊躇ためらうことなくさらりと言った。するとハルカは泣き顔と怒り顔が入り混じったような複雑な表情を作り、思い切り首を横に振った。

「か、からかわないでください!」

 そう言い放つと、病室から走って出ていってしまった。

「からかってなんかいないんだけどな……」

 ケイイチはそう独りごちた。しかしふと、病室、白衣のナース、手足が不自由な患者の男——と冷静に状況を鑑みた結果、からかったと思われても無理はないかも、と思い当たったのだった。少なくとも、好意を寄せる相手に対して、いきなりあの行動はまずかっただろう。

 ハルカを怒らせてしまった。どうやって誤解を解こうか。もしかしたら、もうここへは来てくれないかも知れない。

 ケイイチは盛大に溜め息をつき、ベッドに倒れ込んだ。


 翌日、ハルカはいつもの時間に病室へとやってきた。ケイイチはほっとしつつ、そっと様子を伺った。

 ハルカに笑顔はなく、警戒しているのか目を合わせようともしない。義肢のマッサージの間もずっと怒ったような顔をしていた。

 ケイイチは気まずさを感じながらも、ハルカのそういう表情を新鮮だと、こっそり思った。


 次の日も、更にその次の日も、ハルカはやってきた。しかし相変わらず硬い表情を崩さず、必要以上の言葉も発しなかった。

 このままでは、さすがにまずい。

 ケイイチが内心焦っていると、不意にハルカが「あ」と小さな声を漏らした。

「どうした?」

 会話の糸口を探していたケイイチは、ほぼ反射的にその呟きを拾った。

「……体温計を忘れちゃって」

「そっか」

「取ってこなきゃ」

 良かった、ちゃんと会話できた。ほっとした勢いで、ケイイチは気になっていた疑問を口にした。

「そう言えば、ずっと不思議に思ってたんだけど」

 ハルカがケイイチを見る。久々に視線が合った。

「この病院の物資、どこから調達してるんだ? 表向きは大学の研究施設ってことにしてるって話だけど。治療や手術にどうしても必要な機械や消耗品ってあるだろ」

「……私の母が、ナショナル・エイド社にいるの。ここの物資はうまく母に工面してもらっているんです」

「なるほど、医療一家ってわけだ」

 ナショナル・エイド社は国内最大手の医療系メーカーである。

 元々は小さな製薬会社だったが、内戦が始まったのを契機に帝国軍へ医療物資を提供し、一気に規模を拡大させた。今や薬品だけでなく、様々な医療機器の開発も行っている。まさに戦争特需の恩恵を受けた企業だ。

「じゃあ、お母さんの立場は結構微妙なんじゃないか?」

「そうよ。それを承知の上で、私たちをここへ送り出してくれたの」

 ケイイチは、いつかハルカが内戦で兄を失ったという話をしていたことを思い出した。一人の若者の死が、家族を強く結び付けたのだろう。

 考え込むケイイチをよそに、ハルカはてきぱきと処置を終え、片付けを始めた。

「体温計、また後で持ってきます」

 その冷ややかな声に、ケイイチはどきりとした。恐る恐る、顔色を伺う。

「えーと……まだ怒ってる?」

「さぁ、何のことかしら」

 ハルカは視線を手許に落としたまま、淡々と言った。

 まいったな。ケイイチは頭を掻いた。

「あのさ……この前はごめん。いきなりあんなことして」

 返答はない。

「誤解させたかも知れないけど、君のこと、決して軽い気持ちじゃないんだ」

 ハルカは黙ったままだ。顔を上げようともしない。

「自分でも無神経だったと思うよ。本当に、ごめ——」

 その時、用具箱を勢いよく閉める音が部屋じゅうに響き渡った。

 ケイイチはびくりとして口を噤む。一瞬遅れて、静寂が訪れる。

 沈黙が耳に痛い。かちこちと時計の音がする。ややあって、ハルカの小さな声が聞こえた。

「何が?」

「え?」

「何に対しての『ごめん』なの?」

 そう言ってケイイチを見据えた。

 きゅっと心臓が縮む。答えられずに黙っていると、ハルカが先に口を開いた。

「あのね、ケイイチさん。あなたが私を好きだと言ってくれたことは、嬉しかったです」

 揺らいだ眼差しが、じっとケイイチに注がれている。やがてハルカは少しだけ目を伏せた。

「でも、あんなふうに突然、一方的にされたら、力じゃとても敵わないから……」

 その言葉に、鈍器で思い切り頭を殴られたかのような衝撃を受けた。時間が止まった気がした。呼吸がうまくできなかった。

 その時になって、ケイイチはようやく理解したのだった。

 病室という、二人きりの密室で。こんな大男に、何の前触れもなくいきなり抱きすくめられて。

 いくら相手が怪我人でも、無理やり押し倒されたら女性の力ではひとたまりもない。ハルカは「やめて」と言ってはいなかったか。それにも関わらず、ケイイチは彼女を離さなかったのだ。

——怖かっただろう。

 ケイイチは左手で額を押さえた。

「ごめん……俺、最低だな」

 ハルカは俯いたままだ。

「君は命の恩人なのに、その恩を仇で返すようなことをしてしまった」

 二人の間に、再び沈黙が横たわる。すん、とハルカが洟を啜った。胸がきりりと痛む。泣かせてしまった。そんなつもりはなかったのに。

 ハルカはケイイチのことを、兄に似ていると言った。もしかしたら、ケイイチに兄の姿を重ねていたのかも知れない。だとすれば、ケイイチの行動はその気持ちをも穢したのだ。

 途端に自分が汚れた存在のように思えてくる。

 そもそも、釣り合うはずがないのだ。片や傷付いた人々を癒し、命を救う看護師。片や内戦で多くの人々を傷付け、命をも奪った自衛隊員。まるで正反対だ。

 だがそんなケイイチに対して、ハルカはいつも親切だった。そして酷いことをしたにも関わらず、逃げることなく向き合ってくれている。

 ハルカが好きだった。彼女に見つめられても、恥じない自分になりたかった。

 その時ふと、ケイイチの胸の中にある想いが芽生えた。それはすぐに大きくなり、一つの決意となってしっかりと根を張った。

「ハルカさん」

 その名を呼ぶ。ハルカが顔を上げ、ケイイチを見た。

「俺に君の手伝いをさせてくれないかな。この病院で働きたいんだ。もちろん、元通りに動けるようになってからだけど」

 ハルカが呆れたように目を細める。

「……また、随分と唐突なのね」

「俺、こうだと決めたらすぐ行動に移さずにはいられないタチなんだ。でもそうやって取ってきた選択肢を、今まで後悔したことは一度もない」

「生半可な気持ちでできる仕事じゃないわ」

「分かってる。酷い光景なら今まで散々目にしてきた」

 爆風で吹き飛ばされ、原型を留めない死体。逃げ惑う力なき人々の怯えた瞳。敵も味方も傷を負い、無念のままに命を落としていった。その中には、ケイイチ自身が手に掛けた人々もいたのだ。

「……もう、この手で誰かの命を奪うことも、死にゆく命を見過ごすこともしたくない」

 広げた両の掌に視線を落とす。汚れた自分の左手と、新たにもらった真っさらな右手。その二つを重ねて、ぎゅっと握り締める。

「せっかく、綺麗な手をもらったから。生まれ変わったつもりでやり直したいんだ」

「ケイイチさん……」

 ハルカがじっとケイイチを見据える。その濡れた瞳に映る、自分の姿。ケイイチの目には強い光が灯っている。

「君が俺にしてくれたように、俺も人の命を助けたい」

「……こんな無認可の病院で働き始めたら、他にどこにも行けなくなるわよ」

「他に行きたいところなんてないさ」

 家族とは、赤ん坊の頃に核爆発直後の混乱で生き別れた。所属していた自衛隊では、恐らく死亡扱いになっているだろう。

「本当に後悔しない?」

「もちろん」

 即答だった。迷いなど、一切なかった。

 白い頬を、一粒だけ涙が伝っていく。それがぽとりと落ちる瞬間、光を弾いてきらめいた。

「……じゃあ、明日から、リハビリをもっと厳しくしてもらわなきゃ」

 柔らかな声が耳朶を打つ。泣き顔の天使が、ごく淡い微笑みを浮かべていた。それは今まで見たどんな表情よりも愛おしくて、ケイイチは思わず見入ってしまった。

「……お手柔らかに頼むよ」

 照れ隠しの言葉に、笑みを乗せる。

 柔らかい夕陽が病室に射し込む。二人の密やかな笑い声が、風の囁きのように響いていた。

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