弔いの雨の降る②

「しかし、怖いくらいにガバガバだな」

「こいつ、最初はキツかったんだぜ。ガードくっそ堅くてよ。もう今じゃ俺の思いのままだけどよ」

「まぁ、中も乱れてるだろうしな。それにしてもチョロすぎるだろ」

「何にせよ、この後ろの穴は俺専用だぜ」

「ミズコシは結構いやらしい攻め方好きだよな」

「見てろよ、今日もぐっちゃぐちゃに掻き回してやるぜ」

 男二人の会話を、その間に座ったキッカの咳払いが遮る。

「私を挟んで下品な会話をしないでください」

 蔑むような氷の視線が突き刺さる。背筋がぞくりとした。ちょっと癖になりそうだ。

「いやー、だってソウマが最初にガバガバとか言うからよ」

「そういう意味で言ったんじゃねぇよ。俺のせいにするなよ。何が『後ろの穴』だ、バッカじゃねぇの」

 無論、ミズコシがナショナル・エイド社のシステムに侵入するために作ったバックドアのことである。

 一同は今、例の抗ガン剤の関連資料を求めてイントラネット内のデータベースを探っていた。

「しかし、さすがにもうモリノさんの社員番号は無効になってるな」

「まぁ、あれからしばらく経ってるから」

 キッカとソウマの所属していた特別情報課は、表向きにはイントラネットの管理を担当していた。社内システムを管理モードで操作するためには、社員番号でのログインが必要だった。生体肺奪取作戦の準備をしていた時には、モリノの社員番号はまだ有効だったのだ。

「でもソウマ、どうして課長の社員番号なんて知ってたの」

「……ほら、ちょっとした手直しの時とか、いちいち決裁者の承認もらうのも面倒だっただろ?」

「呆れた……不正してたのか」

「たまにだけどな。『通常業務』は本当にかったるくてやってられなかったんだよ。もう時効だろ、こうして役にも立ってる訳だし」

「何にせよ、ソウマが案外セコい奴だってことはよく分かったぜ」

 ミズコシが口を挟むと、ソウマは顔をしかめた。

「あんたに言われたくねぇよ」

「上等上等。この世界じゃセコくなきゃやってけねぇんだよ。ところでソウマ、そっちはどうだ?」

「……まず医薬開発部の共用フォルダをざっと覗いてみたんだが、やっぱりここには例の薬に関する情報は大したものがない。ホームページに載せてる程度のことぐらいだな。開発当時の記録なんかを探すなら、研究室のデータベースに侵入しないと駄目だと思う。抗ガン剤は確か第三研究室の担当だったな。そっちを見てみるよ」

「おう、頼んだぜ」

 キッカが、あ、と声を上げる。

「治験についてのことだったら、臨床薬理部の方に記録があるかも知れません。認可を得るための情報と考えるなら、むしろそっちかも」

「あぁ、なるほどな。んじゃ俺はそこのデータを探すとすっか」

「禁止薬のデータは、大抵どの部も機密事項フォルダに放り込んでるはずです。そこに入るためにパスワードが要るんですが、面倒なので三人分のアクセス権限をフリーにしときます」

「よろしくな、キッカちゃん」

 その言葉を皮切りに、無言の作業が始まった。いつの間にか陽は傾きかけ、部屋の中は暗くなりつつある。

 ミズコシは、隣のキッカと、更にその向こうのソウマの様子をそっと伺った。真剣な眼差しでモニターを見つめる横顔。

 二人はよく似た空気を纏っている。こんな時は、特にそう思う。

 共に特殊な手術を受けて特殊な仕事をしていたから、当然と言えば当然なのかも知れない。目の前のタスクに対する姿勢——ミスを犯さぬよう神経を張り巡らせ、完璧に遂行しようとする姿勢が、ぴたりと重なるように同じだった。

 それにしても。最初にナショナル・エイド社のシステムに潜った時はずいぶん苦労したし、いつログを辿られるかと冷や冷やしながら侵入をごく短時間で切り上げたりしていたのだが。元社員がいるだけで、様々な作業が実にスムーズである。

 部屋に響く自分のもの以外のタイピング音を奇妙に心地良く感じながら、ミズコシは作業に戻った。


 部屋の電気を点けるために、一度ミズコシが席を立ったのが午後五時頃。それ以降、二言三言の言葉を交わした以外は誰も口を聞くこともなく、それぞれの作業に没頭していた。

 午後七時を回った頃、マーケティング部のデータベースを探っていたキッカが、独り言のようにぽつりと言った。

「お腹空いた」

 やや間があり、ソウマが軽く噴き出す。

「まぁ確かに……いつの間にかこんな時間か。俺はちょっと眠くなってきた。怪しいところは粗方探したぜ。保存したデータが膨大な量になってるんだが、まさかこれ一つ一つ精査する訳じゃないよな?」

 ミズコシも顔を上げ、首の骨をこきこきと鳴らした。

「んー……一応ざっと確認すべきだな、不正の証拠になるようなもんがあるかどうか。でもまぁ、そうだな、ちょっくら休憩すっか。コンビニで何か食うもん買ってきて……」

 そう言って、立ち上がったその瞬間。景色がぐるりと回った。

「ミズコシさん!」

 キッカの声が聞こえた。パイプベッドの縁でごん、と頭を打ち、気付けば床に倒れていた。

「大丈夫ですか? 起きられますか?」

「あ、あぁ……悪ぃ……」

「顔色悪いですよ」

 手を借りて、身を起こす。良い匂いがふわりと鼻先を掠めた。キッカの顔が近い。

 その後ろに、憮然とした表情のソウマが見える。わざとじゃねぇんだと、言い訳めいた視線を返した。

「ミズコシ、あんたどうせロクなもの食べてないんだろ。自己管理くらいしっかりしろよ」

「そうだな……」

 今日は朝にエナジーゼリーを飲んでから、手土産のシュークリームを食べただけだ。その前にちゃんとした食事を摂ったのはいつだったか、思い出すことすらできない。

「何か食べる物を買ってきて……いや、食べに出ましょう。少し外の空気を吸って、気分転換した方がいい。近所にラーメン屋ありますよね。そこに行きましょう」

 キッカが真剣な眼差しで、妙にすらすらと言った。ソウマは呆れた顔をしている。

「タチバナ……来る時もラーメン屋のこと言ってたよな」

「うん、今日はすごくラーメンの気分なんだ」

「お前が食いたいだけじゃねぇか」

「そう、私が食べたい」

 ミズコシは苦笑して、ゆっくりと立ち上がった。

「んじゃあ、ラーメン食いに行くか」


 食事を終えてラーメン屋を出ると、時刻は九時近くになっていた。店先にはまだ行列ができている。

「あぁ、美味しかった」

「いつもながら食い過ぎだ」

「替え玉三回ならそんなに多くない」

「お前の基準はおかしいんだよ。一杯目なんて噛まずに飲み込んでるんじゃないかってぐらい早かったしな」

「まぁ……ラーメンは汁ものだから、感覚としては飲み物に近いかも知れない」

「飲むなよ! よく噛んで食え」

 軽く言い合いをするキッカとソウマに声を掛ける。

「とりあえず今日はこれでお開きにすっか。バスの時間もあんだろ。続きはまた明日ってことで」

「分かりました。何時頃伺えばいいですか?」

「そうだな……じゃあまた三時で」

「了解です」

「んじゃ、気ぃ付けてな」

「おう」

「はい、おやすみなさい」

 軽く手を上げて、二人を見送る。彼らは取り留めのない言葉の応酬を再開しながら、バス停へと向かっていく。

 軽い足取り。肩の触れ合いそうな距離。ちょっと前まで、二人の間はもう少し離れていたはずだ。

 ほう、と白い息を吐く。不意に凍り付くような風が吹き付けてきて、ぶるりと身を震わせる。空を見上げればどんよりした雲が垂れ込めていて、どうにも景気が悪い。

「あー……くそ」

 思わず呟く。あんな風に誰かが隣にいることを、羨ましいと思うのはいつぶりだろうか。

 明日で、あの日からちょうど九年だ。

——今回の仕事をやり切ったら、何か変わるのだろうか。

 そんな考えがふと頭を過り、心がひやりと冷たくなる。

 小さく首を振る。迷いは無意味だ。判断を鈍らせる毒にすらなり得る。

 ミズコシは懐から煙草を取り出して火を点けた。一口目を深く吸い込み、ひと息に吐き出す。そしてきびすを返すと、帰路へ着いた。

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