ミズコシ編

弔いの雨の降る①

 彼は煙を吐き出しながら、ディスプレイに映し出された電子カルテを眺めていた。

瀧本タキモト 咲季サキ 女性 24歳』

 患者情報の一番上に書かれたその文字に、そっと視線を這わせる。二十四歳というのは九年前当時の年齢だ。

 画面をスクロールさせる。発症した当初の病状からその後の経過や投薬などの記載が、ゆっくりと流れていく。もう何度見たかも分からないその内容は、句読点の位置まで正確に記憶していた。

 最後は簡潔な一文で、こう結ばれているのだ。

『血圧の異常低下により死亡』

 すっかり見慣れたその文は、それでも心の奥底をちくりと刺す。——九年経った今でも、なお。

 メッシュチェアの背もたれに身を預け、今度は上向きに煙を吐く。それは黄ばんで薄汚れた天井にぶつかり、四方に散って見えなくなった。空になど届くはずもない。

 古臭いマンションの一室。壁際には不要物が積み上げられ、床のそこかしこにはゴミや脱いだままの衣服が散乱していた。窓は閉めきったままなので、滞留した空気が煙草の煙で霞んでいる。近隣からの物音はなく、聞こえるのは部屋の片隅に並んだコンピュータの作動音だけだ。

 パソコン画面の右下に表示された時刻は、午後二時五十五分。作業に没頭して、昼食を摂りそびれてしまった。腹は空いているはずだが食欲はあまり感じない。ただ、少し頭がぼんやりするので、血糖値が低下しているのだと思う程度である。

 そろそろ約束の時間だ、と気付いた次の瞬間、ピーンポーンと前時代的なインターホンの音が鳴った。三つ並んだディスプレイのうち向かって左側の一台が、玄関前に佇む来訪者の姿を映し出している。

 白いロングコートの若い女。——と、その後ろに目を留めて、彼は盛大に顔をしかめた。

「……は?」

 思わず声が出てしまう。

 まだ長い煙草を灰皿に押し付け、席を立つ。山になった吸い殻からいくつか転げ落ちたが、気にも留めない。ゴミを器用に避けながら玄関まで辿り着き、鍵を回して重いスチール扉を開けた。

 入り口の隙間から、黒髪をポニーテールに結った美女が顔を覗かせる。

「こんにちは、ミズコシさん」

「おう、キッカちゃんいらっしゃい」

 涼やかなアルトの声に頬を緩めるも、すぐさまその背後に向かって苛立ち混じりの声を投げ掛ける。

「つーか、なんでソウマまで居やがんだよ」

 キッカの後ろには、カジュアルながらも小綺麗な格好をした優男が不遜な表情で立っていた。

「人手が足りないんだろ? 手伝いに来てやったんだよ」

 ソウマはいけしゃあしゃあとそんなことを言った。キッカは軽く俯き、視線を逸らしながらぽつりと呟く。

「……すいません」

 大方、いつものように金魚の糞よろしく、キッカを心配して付いて来たのだろう。——というか、これは自分に対する牽制か。

 ミズコシは小さく溜め息をつく。

「まぁ、とりあえず上がれよ」

 二人を招き入れて部屋へと戻る。床に転がったものを足で退けながら、人の通る一応のスペースを確保した。

 上がり込むなり、ソウマが憎まれ口を叩く。

「相変わらずの汚部屋だな」

「うっせぇな、文句あんなら帰れよ」

「せめてゴミくらい出せよな。臭うだろ」

「生憎、可燃ゴミが何曜日かすらも知んねぇんだわ。でも弁当のゴミだけはわざわざコンビニのゴミ箱まで捨てに行ってるんだぜ」

「偉そうに言うなよ……」

 そこへキッカが遠慮がちに口を挟む。

「あの、ミズコシさん……少し窓開けていいですか?」

「……やっぱ臭うか?」

「いえ、煙がちょっと……」

 キッカは口許に手を添え、そっと目を伏せる。仕事の手伝いを頼むためではあったが、女の子を呼べる部屋では到底なかったようだ。

「んじゃまぁ、換気くらいはすっか」

 後ろでニヤニヤするソウマを一睨みしてから、窓際に寄る。

 久々に開けた窓は、軋んで嫌な音を立てた。途端に冷たい風が吹き込んできて、思わず身震いする。空にはどんよりと暗い色の雲。この温暖な地域にしては珍しく、雪でも降り出しそうな天気だ。いつの間にこんなにも季節が進んだのか。

「……すいません。あと、これお土産です」

 キッカから差し出されたのは、シュークリーム店の箱だ。

「おぉ、わりぃな。わざわざ気ぃ遣わなくたって良かったんだぜ」

「いえ、私が食べたかったんです」

 キッカはそう言って、少しはにかむように微笑んだ。

 手土産を受け取ってから、はたと気付く。

「そうだ、来てもらって早々なんだが、俺ちょっとそこのコンビニ行ってくるわ。今、飲み物も何にもなくてよ」

「いえ、お気遣いなく」

「……というのは口実で、ちょうど煙草が切れたとこでな」

 一瞬、キッカの表情が固まったように見えたのは気のせいか。

「……分かりました。その間に部屋を少し片付けてもいいですか?」

 確かに今の状態では、腰を下ろす場所すらない。

「なんかいろいろ悪ぃな」

「いえ」

 キッカは嫌な顔一つ見せない。

——あいつはこういう時、いつもぶつくさ文句言ってやがったな。

 ふと、思い出さなくてもいいことを思い出す。それをすぐに頭から振り払い、ソウマに顔を向けた。

「まぁ、別にソウマもいてもいいけどよ。お前ら、俺が出掛けてる間にイチャつくんじゃねぇぞ」

「……は? この部屋のどこにそんなスペースがあるんだよ」

「スペースがあったらすんのかよ、このスケベめ」

「そんなこと言ってないだろ。いちいちムカつくな」

「あの」

 口を挟んだキッカが、凍て付くような視線でミズコシとソウマを順に見やる。

「私は仕事をしに来たんですが」

 冷ややかな声が背筋をなぞる。ちょうど窓からは強い北風が吹き付けて、キッカの髪をぶわりと攫っていった。

 只ならぬ殺気。二人同時にフリーズする。

「……そ、それじゃ俺はちゃちゃっと行ってくるわ」

「……じゃあ、俺は片付けでもするか」

 キッカが意味ありげな目でソウマを睨み据える。一瞬、おや、と思ったものの、ここは立ち去った方がいいと本能が告げている。

 氷点下の空気に背を向け、ミズコシはいそいそと部屋を後にした。


 コンビニから戻ると、部屋の隅からローテーブルが発掘されていた。ゴミはいくつかのレジ袋に分けて纏められ、汚れた衣服はどこかにあったらしい洗濯カゴに入れられている。

 ペットボトルとシュークリームをテーブルの上に置き、飲み食いしながら仕事の説明をすることにした。

「キッカちゃん、ナショナル・エイド社の抗ガン剤の話は知ってっか?」

「抗ガン剤……十年くらい前に薬害問題で使用禁止になった薬ですか?」

 キッカがシュークリームを手に取りながら言った。皿もフォークもないので、全員手掴みである。

「そう、正確には九年前だな。当時はずいぶん騒ぎになったろ」

 約三十年前に核爆弾が投下された後、放射能汚染の影響でガンの患者数は急増した。

 それ以降ナショナル・エイド社の製薬部が総力を挙げて開発し、十六年前に認可を受けて発売したのが、ガン細胞を直接死滅させる特効薬だった。それは副作用が従来の抗ガン剤よりも少なく、何よりガンに対して劇的な効果を示した。

「発売当初からしばらくは、メディアにも取り上げられたりして持て囃されただろ、『奇跡の特効薬』とか言ってな。だが、その薬には致命的な副作用があった。薬を使用した患者が、異常な低血圧で植物状態に陥って、そのまま命を落とすケースが出始めたんだ」

「うろ覚えなんだが、あの薬は心臓疾患のある患者は使わないように注意喚起されてたんじゃなかったか? 心臓に負担が掛かるからと」

 ソウマの言葉に、ミズコシは頷く。

「もちろん、発売当初からその注意喚起はあった。だから心臓疾患のあるガン患者には投与されなかったんだ。ところが、その副作用で死んだのは、健康な心臓の持ち主たちだった。あの薬を使用した患者のうち、およそ十パーセントにその症状が出た」

「そんなに……?」

「あぁ、そうだ。薬の価格がバカ高いこともあって使用者の母数はそこまで多くなかったものの、その高確率での症例は目立った。もっとも最初のうちは、ガンの合併症として処理されてたみてぇだがな」

「その薬害の話って、いつの間にか下火になってましたよね」

「まぁ、当時は内戦もまだ激しかったしな」

 ミズコシはシュークリームを一口噛った。中からクリームが飛び出してくる。未だにこれの上手い食べ方が分からない。手についたクリームを舐めながら続ける。

「だが、あの会社の混乱に乗じて、このところ薬害患者の会の動きが活発になってきててよ。いよいよ訴訟に踏み切るってんで、そのための情報収集の依頼が俺んとこに回ってきたって訳だ」

 カスタードクリームの甘さが身体に染みる。下がっていた血糖値が回復していくように感じた。

「それでだな。どうやら当時、事件が明るみに出る前から、あの会社と保健省の間で不正なカネのやり取りがあったっつう疑惑があってな。要は、ガンの合併症として処理されてたのは、先に手が回って揉み消された案件なんじゃねぇかってな」

「会社が事前に薬の危険性を認識してたってことか?」

「そういうことだ。前々からその噂はあったみてぇなんだが、九年前の騒ぎの時に保健省が証拠を隠蔽するような動きをしたらしくてよ。だから今回もそうなる前に、あの薬の関連情報を片っ端から入手しろってのが、今回の依頼だ」

「片っ端からと言うと」

「全部。何もかも。あの会社が管理してる情報は一つ残らず、だとよ」

「マジか……」

 ソウマは、やはり不意にはみ出てくるクリームと悪戦苦闘していた。眉根を寄せ、シューの欠片を指に付いたクリームごと口の中へと入れる。

「しかし、ミズコシにしては結構まともな仕事だな。というか、それは弁護士とかがやることじゃないのか?」

「おうよ、俺は真っ当な情報屋だぜ。金さえ積まれりゃ何でもやる。今回の仕事は弁護士のセンセイの下請けでな。コレがいいんだ」

 ミズコシは親指と人差し指で輪を作ってニヤリとする。

「裁判のための証拠を不正アクセスで入手するのが真っ当かよ」

「もちろん弁護士からも資料の提出は要請するんだろうがよ、あの会社が馬鹿正直に全部を差し出す訳がねぇだろ。そんなんで真正面から立ち向かおうなんざ土台無理な話だ。だから俺みたいな情報屋が重宝されんだよ」

 ただし、芳しくない状況になったらすぐに切り捨てられる、言わばトカゲの尻尾である。それゆえ自ら危険な橋は渡らないというのが、ミズコシの信条なのだ。何が危険で何がそうでないのか、嗅覚には自信がある。

「事情は分かりました。私は何をすればいいですか?」

 キッカが、手にしたシュークリームを大胆にも大きく二つに割った。そしてはみ出たクリームを舌先で掬うように舐め取る。その様子を横目で見つつ、ミズコシは言う。

「いつも通りナショナル・エイド社のデータベースにアクセスして、データを漁ろうと思うんだがよ。何しろ時間が掛かりそうだから、サポートを頼む」

「了解です」

 キッカは短く返すと、大きく口を開けて、シュークリーム本体にかぷりと噛り付いた。その甘さを堪能するように、ゆっくりと咀嚼する。そのたびに柔らかそうな唇がふにふにと動く。そして仄かにうっとりした表情で目を細めて飲み下すと、次の一口を同じように食んだ。

 うん、エロい。前にも思ったが、食事をしているキッカは妙にエロい。

 ふと隣を見ると、ソウマもまた何食わぬ顔でキッカを眺めていた。完全にやらしいことを考えている時の目だ。

「まぁ、ソウマも——」

 確信犯的に声を掛けると、ソウマははっとしてこちらを見た。

「どうせ暇だろ。手伝ってくれるんなら助かるぜ」

「……おう、そのつもりで来たんだよ」

 いかにも平静そのものといった表情と口調に、思わずニヤつきそうになる。それをどうにか抑え、残ったシュークリームを口に放り込むと、ミズコシは立ち上がった。

 奥の部屋へと進み、壁際に三つ並んだパソコンのモニターに目を向け、すうっと笑みを消す。

 九年——そう、九年にもなるのだ。今回の仕事は、ミズコシにとって特別なものだった。だが、どんな事情があっても、今までと同様に手抜かりなくやり通すだけである。

 かつて彼女・・と肩を並べて戦っていた頃の、青臭い正義感はとうに忘れた。今のミズコシは、糊口を凌ぐために情報を盗む、ただのコソ泥のようなものだ。

 だが、おかげで外堀は埋まりつつある。胸のうちに宿る炎は、むしろかつてよりもその強さを増している。

 ミズコシはまたいつもの緩い表情を作ると、二人を振り返った。

「よーし、始めるとすっか」

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