弔いの雨の降る③

 翌日、ミズコシはとある場所を訪れていた。

 そこはちょっとした庭園や芝生の広場などがある大きな公園で、天気が良い日であれば家族連れや犬を散歩させる人などで賑わう。内戦中は自警団の訓練場所にもなっていた。

 しかし今日は朝からずっと小雨が降り続いており、人っ子一人姿が見えない。冷たい雫に全ての音が吸い込まれてしまったかのように、辺りはしんと静まり返っていた。

 ミズコシは遊歩道から公園の裏手に回る。不恰好に枝の伸びた背の低い植え込みの間を分け入るように進むと、開けた場所に出る。

 そこは墓地だった。

 しばらくその入り口に立ち尽くす。右手に持った安っぽいビニール傘の上を、細かい雨が音もなく滑り落ちていく。

 無性に一服したい気分だった。着慣れないジャケットが窮屈で、早くも肩が凝り始めていた。左手に提げたビニール袋もすっかり濡れてしまっている。

 やっぱり帰ろうかと足の向きを変えようとしたところで、背後から声を掛けられた。

「ミズコシ。やっぱり来てたんだな」

 振り返ると、黒い傘を差した背の高い男が立っていた。予想だにしなかった来訪者に、ミズコシは一瞬言葉に詰まる。

「……久しぶりじゃねぇか、クオン。なんでこんなとこにお前が居んだよ」

「いや、今日が命日だって聞いてたからな。ミズコシに会えるかも、と思って来てみたんだ」

 悠然と微笑むクオンの弁に、ミズコシは怪訝な表情をする。

「あのなぁお前、この情報化社会だぜ? 俺に会いたきゃいくらでも連絡手段あんだろうがよ」

「いや、俺も墓参りしようかと思ってな」

「なんで」

「友人の大事な人に挨拶するのに、何か理由が要るか? 事前に連絡したら絶対断るだろ」

 カァ、とカラスの鳴き声が聞こえる。この男はいつもこうだ。恥ずかしい台詞を何の躊躇ためらいもなくさらりと吐く。ミズコシは肩をすくめた。

「……暇な上に物好きな奴だぜ。まぁ、勝手にしろよ」

 ミズコシは再び墓地の方向に向き直り、整然と立ち並ぶ墓石の間の小路へと踏み出した。

「しかし、そういう格好してるとミズコシも真人間に見えるな」

 クオンが実に邪気のない笑顔でそう言う。

「はぁ? 失礼な野郎だぜ。俺はいつだって真人間だってのによ」

「それは知らなかった」

「帰れ」

「酷いな」

「どの口が言いやがる」

 軽口を叩き合いながら、迷いのない足取りで濡れた石畳の上を先導していく。毎年この日にここを訪れているのだが、記憶にある限りいつもなぜか雨が降っていた。

 西洋風の墓がずらりと並ぶ区画に入る。そしてある墓石の前で、足を止めた。

『SAKI TAKIMOTO』

 間違いない。ここだ。

 その滑らかな表面やそこに刻まれた名前を見ても、何の感慨もない。遺骨は確かにこの墓に入れられているはずだが、ここに彼女が眠っているという事実にはピンとこなかった。

 墓前には真新しい花束が置いてある。家族に鉢合わせしなくて良かった。

「サキさんっていうのか」

「あぁ」

 小さく返すと、ミズコシは墓の前にしゃがみ、手にしたビニール袋から小さな花束を取り出す。先客が残していったような大振りの豪華な花束は、自分にも彼女にも似合わない。

 持ってきた花束を横たえると、濡れないように傘を差しかけながら、立ち上がって静かに目を閉じた。

 雨の匂い。頬を、指を刺す空気。傘の表面を撫でるように滑り落ちていく雫の音が、頭の中に細かなノイズを作り出している。

 およそ三十秒ほどで目を開ける。

 黙祷としては短いそれは、しかしミズコシにとっては充分だった。それ以上時間を掛けたところで、死者に伝えられることは何もない。どんなに強く祈っても、過去が変わることなどないのだ。

 しかし振り返ると、クオンは律義に合掌したまま、ずっと頭を垂れていた。見も知らぬ女のために祈りを捧げる友人の姿を、ミズコシは不思議な気分で眺めていた。


 しばらくすると、雨は本降りになった。時おり思い出したように突風が吹き、凍えるような空気を掻き回す。

 二人は墓地の真ん中にある吹き晒しの休憩所に入り、粗末な椅子に差し向かいで腰を下ろした。その木製の椅子には申し訳程度に薄っぺらい座布団が括り付けてあったが、それ自体が酷く冷えていたため、尻を温めるには至らなかった。

「ハルカちゃんの様子はどうだ」

 そう尋ねながら、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、接触の悪い使い捨てライターで火を点ける。

「あぁ、まだちょっとぼんやりしてるときもあるけど、だんだん活動できる時間が長くなってきたよ。筋肉がかなり萎んでるから、日常生活を支障なく送るためにはもう少しリハビリが必要だな。リハビリというか、トレーニングというか」

 クオンは現在ハママツ自治区内に新しくアパートを借り、ハルカと二人で暮らしている。覚醒して以降彼女はしばらく入院していたのだが、最近ようやく自宅療養が解禁になった。

 同じ自治区内とは言え、用がなければクオンがミズコシを訪ねる契機もない。それはミズコシも同じだ。二人ともそれぞれ仕事があり、積極的に連絡を取り合うということもなかった。

「プロポーズとか、したんだっけか?」

 クオンは頭を掻く。

「いや、まだだ。実は川島先生にもまだきちんと話をしてないんだ。まぁ同棲してるんだから、そのつもりだってことは分かってるとは思うんだけどな。やっぱりちゃんとするべきだよな」

「『お義父さん、娘さんを僕にください』」

 ニヤニヤしながら言ってやった。

「酷いな、茶化すなよ。これでも結構真剣に悩んでるんだ。何しろ俺には戸籍もない訳だからな」

 十一年前のゲリラ一掃作戦中に地雷を踏んで負傷したクオンは、川島病院に収容されてから所属の隊には一度も戻らなかった。内戦中に行方不明となった者は、戦闘による殉職として処理されていたらしい。

「相変わらず真面目だな、お前は。このご時世、この辺じゃ誰も戸籍のことなんか気にしちゃいねぇよ。だがどうしてもって言うんなら、戸籍を用意してくれる奴を紹介してやってもいいぜ」

「……いや、遠慮しとくよ。そんな形だけのもの、持ってても意味がないからな」

 ミズコシは鼻を鳴らす。

「そりゃそうだ。ま、精々でっかいダイヤでも準備するこったな」

「そうだな、そうするよ」

 はは、とクオンが軽く笑った。

 不意に沈黙が訪れる。上空ではカラスが飛び回り、カァ、カァと何事かを騒ぎ立てている。間を持たせるため、ミズコシは長く煙を吐き出した。これだけ寒いと、煙なのか息なのか見た目には判別も付かない。

「ところでそっちの様子はどうだ? キッカさんにバイトを頼んだとか、ユナちゃんから聞いたけど」

 今度はクオンから話題が切り出される。どうやらこちら側の事情は、女子のネットワークで伝わっているらしい。

「あぁ、そうなんだけどよ。キッカちゃんはいいんだが、ソウマの野郎がくっついてくるのがちょい微妙でな」

「ソウマくんの気持ちはよく分かるよ。ユナちゃんがミズコシのことを野暮だって言ってたぞ」

「いや、だからってよ……俺の立場にもなってみろって。最近あいつら絶対何かあった雰囲気だしよ。そうなってくると居づれぇだけじゃねぇか。俺ん家なのによ」

 クオンは軽く首を傾げる。

「へぇ、喧嘩か何かか?」

「いや、喧嘩とかそういうんじゃねぇな。なんつうか……ちけぇんだ、二人の距離がよ」

「ん? あの二人、元々仲良かっただろ?」

「いや……? 確かにソウマの奴がキッカちゃんに気があるのは最初から見え見えだったけどよ、明らかに何かあった感じなのは最近になってからだぜ」

 クオンは顎に手を当て、眉根を寄せている。彼はそういうことに関する感覚が大らかなのだ。もっとも、そこがいいところなのかも知れないが。

 いつの間にか煙草が短くなっていた。ミズコシは最後の一口をさっと吸い込み、短く煙を吐き出しながら、灰皿に押し付けた。懐から二本目を取り出そうとして、今のがラスト一本だったことに気付く。このところ、やけに煙草の消費が激しい。

「あー……くそ、この期に及んで『禁煙しろ』っつってんのかよ、あいつ」

「……彼女か?」

「あぁ。いっつも禁煙禁煙ってうるさくってよ。煙の臭いで作業に集中できねぇっつって。そのことでしょっちゅう喧嘩してたんだ」

「……どんな人だったんだ?」

「どうもこうも。別に自慢できるような女じゃねぇよ。気が強くて、いやにサバサバした女でよ。男みてぇな女だったな。本気で世の中変えてやるっつって息巻いてた」

 ミズコシとは高校の同級生で、同じクラスになったことが切っ掛けで仲良くなった。

 変に正義感の強い女だった。初めはゲーム感覚だった官公庁へのクラッキングも、彼女の提案で徐々に過激なものになっていった。

 折しも、内戦の真っ只中という世の情勢。二人はそれを、人々を力で支配しようとする巨大悪に凛然と立ち向かう、勇気ある行動だと思い込んでいた。

「だからあいつが病気で倒れたって聞いた時は、嘘だと思ったんだよ。生命力の塊みてぇな奴だったからよ。でも、病名を聞いて真っ青になった。ガン、なんて——若くて元気であればあるほど、進行が早ぇじゃねぇかよ」

 それ以降、会いに行くたびに痩せていった彼女だったが、それでもミズコシを見ると瞳に炎を宿して次の計画のことを口にしていた。

——あの抗ガン剤を、服用するまでは。

「下手に金持ちの娘だったからよ。あいつの親御さん、あんな一錠で百ン十万もするような高ぇ特効薬を買えたんだよな。だけど、まさか、その薬のせいでおっ死んじまうなんてな」

 あの薬を投与されて数日後、彼女は突然昏睡状態に陥り、そのまま還らぬ人となったのだ。

 再び沈黙が流れた。また遠くからカラスの声が聞こえる。こんな雨の中、カラスは何をしているのだろうか。

 大きな雨粒が休憩所の粗末な屋根を断続的に叩いている。昼が近いというのに、気温が上がる気配もない。

さみぃな」

「そうだな」

 一言ずつ口にして、再び黙り込む。クオンは席を立つそぶりどころか、僅かの身じろぎすらしない。自分が作り出した沈黙は自分で回収する他なさそうである。

 天井を仰いで、大きく息を吐いた。帰るか、と一言声を掛けて腰を上げれば、この時間はすぐにでも終わる。けれども、胸の奥にわだかまった重い何かが、そうすることを拒ませていた。

 朽ちかけた木の梁を見上げたまま、ミズコシはぽつりと口を開いた。

「なぁ、クオン。もしあの薬を使わなかったところで、あいつは助かってたんかな」

 独り言めいた、何気ない口調。こちらに向けられたクオンの目には、肯定でも否定でもなく、ただ返事に迷うような動揺の色が浮かんでいる。

 前々から頭の中にちらついていたことだった。それでいて気付かぬふりをしていたのだ。

 当時二十四歳だった彼女にガンが見つかった時、既に病気はかなり進行していた。仮にあの特効薬を使わなかったとしても、他の手立てで病気を治癒できたかは怪しい。

 だが、そのことを認めてしまったら、憎むべき相手がいなくなってしまう。彼女を失ってなおも戦い続ける理由がなくなってしまう。戦うことを止めたら、彼女の存在そのものを忘れてしまいそうで、それが何より恐ろしかった。

 自分は卑怯者だ。結局のところ避けられなかったかも知れない彼女の死を、あの会社のせいにして。そうすることで、無理やりに前を向いて足を進めようとしていたのだ。それは今もまだ続いている。

 クオンからの無言の返答が、間を満たしていた。どのように答えるべきか、相変わらず思いあぐねているようだった。

「——なーんてな」

 ミズコシはわざとおどけた調子でそう言って、立ち上がった。そして未だに口を真一文に結んで難しい表情をしている友人を見下ろす。

「今日はありがとよ。あいつも喜んでるだろうさ。ハルカちゃんのこと、大事にしてやれよ」

 クオンに向かって軽く右手を上げてから、ビニール傘を広げて庇の下から踏み出す。雨に濡れた砂利が足の下で妙に大きな音を立てる。

「ミズコシ!」

 数メートル進んだところで、後ろからクオンの声が飛んできた。

「今度飲みに行かないか? マスターの店でも、どこでもいいんだが」

 ミズコシは足を止めた。少し躊躇ってから、首半分だけ振り返る。

「お前の嫁さん、飲み歩いて怒ったりしねぇの?」

「いや、どうだろうな。遅くなる時は電話一本入れれば大丈夫だと思うけど」

「そうかよ。じゃあ電話できねぇくらいベロベロんなるまで酔っ払おうぜ」

 にやりと口許に笑みを浮かべて見せると、いつも通りの穏やかな声が返ってくる。

「ほどほどで頼む」

「さぁな。じゃ、また都合のいい日連絡するからよ」

 ミズコシはもう一度右手を上げ、今度こそクオンに別れを告げた。取り交わした約束。まだこの先にも道は伸びている。

 言えば良かったかな、と思った。お前が来なきゃ、本当は墓参りなんかせずに帰ろうと思ってたんだぜ。まぁ、どっちでもいいか。

 雨は降り続いている。いつの間にか、カラスはどこかへ行ってしまったようだった。

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