本章
ch.1 橘 菊花という女
第7話 その女、危険につき
彼女はその薄暗い部屋で、ゴーグル越しにパソコンのディスプレイを見つめていた。
作業の進捗を示すプログレスバーは、三十三、三十四パーセントと少しずつ伸びていく。ぴったりとした黒いボディスーツがモニターの明かりを反射し、彼女の身体のラインを淡く浮かび上がらせている。五十五、五十六パーセント。
彼女は部屋の外を警戒しながら、この永遠のような時をじっと耐えていた。入り口の扉に付いた小窓から、くぐもった常夜灯の明かりが漏れている。
焦りは禁物だ。このデータのコピーを無事に持ち帰らなければ、綿密に練った計画が台無しになる。川島博士の研究も完成が遠くなることだろう。だから失敗は許されない。八十九、九十パーセント。
廊下の方から足音が近づいてくる。彼女は身を緊張させ、右大腿のホルスターに挿した銃のグリップに手を伸ばす。警備員だろうか。懐中電灯らしき光が、扉の小窓の曇りガラスをちらちらと掠めている。九十八、九十九パーセント。
『データの保存が完了しました』という文字がモニターに映し出される。警備員が鍵を開けるのに手間取っている間に、彼女は素早く端末からメモリーチップを抜き取り、端末の電源を落とした。
扉が開けられるが早いか、彼女は右の足首をぐっとしならせ、反動で高く跳躍した。虚空に舞い上がった細身の身体は、そのまま天井の通気口へと吸い込まれていった。
彼女は暗い通気ダクトの中を
道すがら、通気口の金網から真下の部屋の様子を伺った。複数の警備員がばたばたと走り回っているのが見える。どうやら警備体制が強化されたらしい。侵入者を探しているのだ。
彼女は心の中で舌打ちした。撤退が一歩遅かったのだ。目的のデータは手に入れたものの、これはとんだ失態である。
彼女は焦ることなくダクトから建物の外へと脱出し、敷地内のマンホールから地下水路へ潜った。
降りたところは、天井が低く幅も狭い支流だった。つんと鼻を衝くような独特の臭いが纏わり付く。彼女は軽く身を屈めながら、足を滑らせぬよう用心深く進んでいく。
ちょろちょろと細い溝を流れる水はすぐ先で本流と合流していた。一段低くなっているその広い道へと降り立つ。
その時、彼女の耳はかちゃりという小さな音を捉えた。
彼女は反射的に拳銃を抜いた。しかし突然強い光を当てられ、目が眩んでしまう。気付けば男が三人、彼女に対して銃口を向けていた。
「手ェ上げな」
三対一。この状況で抵抗するのは
「武器も捨てろ」
抵抗することなく、拳銃を下に落とす。
「ほら、俺の言った通りじゃねぇか。脱出するとしたら水路だってな」
リーダーらしき男が、下品なダミ声で言った。懐中電灯の光の陰になった顔ははっきりと視認できない。
「これで手柄は俺たちのもんだぜ」
その男が大きな声で笑うと、他の二人もそれを真似る。
彼女は手を上げたまま、目だけで辺りの様子を伺った。この柄の悪い三人の他に気配はない。先ほどの言い草からすると、こいつらは雇われ警備兵のようだ。大方、手柄を立てようと指示から外れた行動を取っているのだろう。
彼女に銃口を向けるリーダー格の男以外の二名は、既に銃を下ろして周囲をきょろきょろと気にしていた。動きがまるで素人である。
「しかしまさか侵入者がこんなお姉ちゃんとはな。単独犯とはやるねぇ」
リーダー格の男は、彼女の身体を舐め回すように眺めて、唇を歪ませた。汚い乱杭の歯がちらりと見えた気がした。
「あんた、何を盗ったんだ。ちょっと調べさせてもらうぜ」
男がいやらしい手つきで彼女の身体に触れようとした、その刹那。
彼女が、動いた。
銃を持つ相手の腕を払い退けつつ半歩を踏み出し、その顎に掌底を喰らわせる。衝撃で脳震盪を起こして上体をぐらつかせた相手の
他の二人は一瞬にしてリーダーがやられたことに驚き、大きく隙を作った。
彼女は向かって左手にいた男の方へと距離を詰めつつ、地を蹴って跳躍する。右膝が勢いよく相手の顔面にめり込んだ。鼻梁の砕ける鈍い音がして、二人目の男は仰向けに倒れていく。
地下水路に、銃声が響き渡る。最後の一人が発砲したのだ。
彼女は着地と同時に素早く身を翻し、銃弾を背中ぎりぎりで
ほんの、五秒程度の間の出来事だった。彼女を取り囲んだ三名の警備兵は、反撃の
彼女は鷹揚に愛銃を拾い上げた。最初に倒したリーダー格の男の小さな呻き声が耳に届く。彼女はその男の頭部を
彼女は拳銃をホルスターに戻し、ナイフを回収すると、小さく溜め息を零した。そして倒れた男たちには目もくれず、先を急ぐのだった。
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