第6話 その選択の覚悟

 そろそろと廊下を進んでいく二人の目には、病室の入り口のところに倒れている女性看護師の姿が映っていた。彼女の身体の下には大量の血液が拡がっている。

 彼女は今夜の見回り担当だった。恐らく、物音に気付いて様子を見ようと外へ出たところを撃ち殺されたのだろう。仕事熱心で、患者想いのスタッフだったのに。せ返る血の臭いに、思わず胃液が逆流しそうになるのをぐっと堪える。

 一階の中央には玄関ロビーがある。ケイイチはその付近に、闇に紛れるような男の姿を捉えた。

 男が銃を抜いた。プシュンという発砲音と共に、こちらに向いた銃口が火を噴く。その弾はケイイチの上腕すぐ横の空間を掠めていった。

「ハルカ、走れ!」

 ケイイチの合図で、ハルカは廊下の西端、川島医師がいるであろう院長室を目掛けて走り出した。

 その一瞬、駆け抜けていくハルカに気を取られてできた男の隙を、ケイイチは見逃さなかった。

 一発目の銃弾を、僅かの躊躇ちゅうちょもなく発射する。それは薄闇を切り裂いて飛び、男の左大腿を貫いた。男は小さく呻き、その場に膝を突く。

 ケイイチは間髪入れず続けざまに二発目、三発目をはなった。それぞれが右頸部と眉間に命中し、ぱっと花が散ったように血が噴き出す。相手が帝国軍兵ならば着用しているであろう防弾ベストを避け、確実に仕留められる箇所への狙撃だった。男の身体はそのまま崩れ落ち、床には血だまりが拡がっていく。

 ケイイチは重く静かに、肺の中の空気を残らず吐き出した。

 かつて内戦に参加し、自らの手で人の命を奪ってしまったことを、心から悔いていたはずだった。この病院のスタッフとして生きると決めた時に、もう誰も傷付けまいと誓ったはずだった。

 しかし今、自分の身と、何よりもハルカを守るため、ケイイチは迷うことなく引き金を引いていた。ハルカを失うことに比べたら、それ以上に怖いことなどなかった。義手となった利き手にはいささかの不自由さが残っていたが、研ぎ澄まされた神経がそれを凌駕していた。

 ケイイチは今しがた殺した男の死体に一瞥もくれずに、先に院長室に入っていったハルカの後を追った。


「川島先生?」

 院長室に、川島医師の姿はなかった。もしこの部屋にいたのであれば既に殺されていてもおかしくないが、死体すらもない。よもや今夜に限って別の場所にいたのだろうか。だとしたら、もう助けに行くことは不可能だ。

 ハルカはへたりと床に座り込み、自分自身を抱き締めた。そして今にも泣き出しそうな顔で、かたかたと震え始める。

 殺された入院患者やスタッフ、ケイイチが殺した二人の侵入者。看護師という仕事柄、人の生き死にには常に関わってきたハルカだが、今夜の出来事はそれまでの日常から余りにかけ離れていた。加えて、父親は行方知れずだ。

 怯えるハルカを、ケイイチは思わず抱き寄せた。肩に腕を回し、そっと髪を撫でる。

「ハルカ、大丈夫だ。俺が守るから」

 川島医師が見つからない以上、一刻も早くこの建物から脱出しなくてはならない。しかしそうこうしているうちに、再び複数の足音が一階に降りてくるのが聞こえた。三階まで制圧し終えた犯人たちが戻ってきたのだ。

 まずい。奴らはすぐに、仲間が死んでいることに気付くはずだ。そして彼らを殺した者がどこに潜んでいるのか、建物じゅうを隈なく探すに違いない。間もなくこの院長室にも奴らが踏み込んでくるだろう。ここには脱出できるような窓もないのに。

 焦る気持ちとは裏腹に、打つ手は何もなかった。足音が、徐々にこちらへ近づいてくる。

 庇うようにハルカを抱き締めたその時だった。ケイイチの目に、信じられないものが映った。

 床の木製タイルの一部が、なんと独りでに動いたのだ。

 ごとりと音を立てて外れた床から、川島医師がひょっこりと顔を出す。

「ハルカ、ケイイチくん。早くこの中に入るんだ」


 隠し階段を降りた先は、バスケットコート半面ほどの広さの地下室になっていた。

 まず目に留まったのは、部屋の中央付近の、右寄りに位置する手術台だ。その傍らには可動式の無影灯が佇むように置かれている。

 向かって右側の壁際には生体義肢の培養装置。筒状の培養槽の中には、一対の腕が浮かんでいる。その隣は人の背丈ほどある実験用保冷庫と、腰の高さほどのスチールキャビネット。いずれも病院内にあるのと同じものだ。

 部屋の中央、左寄りの位置には、作業台と事務机が並んでいる。机の上には一台のノートパソコン。そして左の壁際に整列したスチール製の棚には、ホルマリン漬けの瓶がぎっしりと詰め込まれていた。

 広い床面に高い天井、コンクリート打ちの壁。機械や什器が置かれていてもまだ空間に余裕があり、蛍光灯の寒々しい色調とも相まって妙に殺風景に感じる部屋だった。

「二人とも無事だったか」

 川島医師は安堵したような表情を見せながら、そう言った。

 ハルカは戸惑いがちに辺りを見回す。

「お父さん、この部屋は……?」

「ここは私の研究施設だ。人工義肢の精度を上げるため、ここで密かに研究を重ねていたんだ。今日はたまたまこの地下室にいたから、侵入者から見つからずに済んだようだ」

 川島医師の言葉に、ケイイチはおずおずと口を開く。

「先生、そのことなんですが……」

 ケイイチは侵入者が帝国軍兵に支給される銃を所持していたことを説明した。また、彼らが着用しているサーモグラフィ内蔵型の暗視ゴーグルのことも付け加えた。先ほどは運良く見つからずに済んだが、院長室を隈なく熱感知されれば、この地下室が発見されるのももはや時間の問題である。

 ケイイチの話を聞いて、川島医師は唸った。

「そうか、それは厄介だな。恐らく奴らは私を探しているのだろう。それにしても全員を手に掛けるとは」

「先生、あいつらは本当に帝国軍なんですか? アヤメちゃんの姿がなくなっていました。あいつらの狙いはあの子ですか? 一体、何が起こってるんですか?」

 ケイイチが立て続けに質問を連ねたその時、上の部屋の扉が開け放たれる音が聞こえた。

「説明したいところだが、時間がないようだ。あいつらはサーモグラフィを使っているんだろう。私にいい考えがある」

 川島医師はそう言うと、地下室の奥にある大きな装置の前まで二人を案内した。それは棺桶のような形をしていて、天面はガラス張りになっていた。同じものが横に並んで二台置かれている。

「これは昔使っていたコールドスリープの装置だ。古いものだがまだ動く。君たち二人はこれでしばらく眠りに就きなさい。そうすれば奴らのゴーグルにも熱反応が映らなくなるだろう」

「しかし先生は……」

「私のことは心配いらない。私一人であれば、どうにか切り抜けられる」

 ケイイチとハルカは顔を見合わせた。訊きたいことは山ほどあるが、川島医師の言う通り時間がない。選択の余地はなさそうだった。

「私が自由の身ならば、危険が去った後でコールドスリープを解除しに来る。しかしそうでない場合は、最長一年でタイマーが切れるようになっている」

「い……嫌よ、お父さん……あんな怖い人たちに捕まったりしたら……」

 ハルカの瞳からは涙が零れていた。

「大丈夫だハルカ、私を信じろ。ケイイチくん、ハルカを頼む」

 久しぶりに、川島医師の目を真正面から見据えた。そこにはここ最近の浮かない色はなく、どこか肚を決めたような意思の光が灯っていた。

 ケイイチは力強く頷き返した。

「分かりました。先生、どうかご無事で……」

「あぁ、ありがとう。ケイイチくんがいてくれて助かったよ」

 銀縁眼鏡の奥の目が僅かに細くなる。川島医師は装置の傍にしゃがみ込むと、開閉スイッチを押して蓋を開けた。

「さぁ二人とも、早く入るんだ」

 ハルカは少しだけ渋るような様子だったが、素直に装置の中へ入った。それを見届けてから、ケイイチもその隣の箱に寝転がった。

「おやすみハルカ、ケイイチくん」

 川島医師は再び開閉スイッチを押した。ややあって、ゆっくりと蓋が閉まっていく。

 装置の中は完全な密室だった。天面がガラス張りとはいえ、さすがに圧迫感がある。真横にいるはずのハルカの様子は全く分からない。

 すぐに内壁の噴出口から霧状の冷却麻酔剤が出てきて、狭い箱の内部を満たしていった。足の先、手の先から順に冷えて、徐々に全身の感覚が遠くなる。心臓の鼓動も速度を落とした気がした。

 もはや身体の輪郭すらも曖昧に感じる。自分とそれ以外のものとの境界線が消え去ってしまったかのようだ。幾ばくもしないうちに、思考は眠気にも似た気怠さに支配されていった。

 疑念も、恐怖も、不安も、後悔も。心の中にあった何もかもが霧散していく。

 最後まで残っていたのは、ケイイチの名を呼び、生への希望を繋ぎ留める、あの天使の声の記憶だった。

 まるでパンドラのはこだ。自分たちの横たわる、この冷凍睡眠装置は。ぼやけた頭でそんなことを考えた。

——また、逢えるだろうか。

 ケイイチは微睡まどろみの中で呟く。

「ハルカ……目が覚めたら、俺と結婚してくれ」

 その言葉が、ハルカに届いたかどうかは分からない。だが、微かにくすりと笑う声が聞こえた気がした。

 いつもと変わらないハルカの優しい笑顔を、瞼の裏に見た。そして意識は、暗闇の中に融けていった。


——前章・了——

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