第8話 特殊工作員 橘 菊花

 潜入作戦から数時間後、彼女はとある会社のビルにいた。

 ナショナル・エイド株式会社、シミズ支社。シズオカ統治区の外れにあるここが、彼女の勤務先だった。

 任務時のボディスーツ姿から一転して、細身のグレーのパンツスーツに黒の華奢なパンプスという格好だ。どこからどう見ても一般の会社員である。首から提げた社員証にはこう書かれていた。

『総務部特別情報課 橘 菊花』

 タチバナ・キッカ。それが彼女の名だ。

 キッカは課長の元へと赴き、今日未明の作戦の報告を兼ねて、データの入ったメモリーチップを差し出した。

「よくやった、タチバナ。川島博士もお喜びになるだろう」

「ありがとうございます」

 課長からの賛辞にも、キッカはにこりともせずに平坦な声で言った。

 脱出の際に三名の雇われ警備兵に見つかった上、彼らを殺害したことについては特に咎められなかった。確かに、こちらの身元が割れるようなものは何も残していない。しかし問題にはならなくともミスはミスだ。胸の中にもやもやしたものが残った。

 報告を終えたキッカは自分の席に戻り、パソコンを立ち上げた。社内のイントラネットにログインし、システム管理画面を開く。もう今日のところは『特別任務』がないので、『通常業務』である。

 端末での作業を行っていると、キッカに声を掛ける者がいた。

「よう、タチバナ。今朝はお疲れさま。うまくいったみたいだな」

 振り向くと、熊のような風貌の大柄な男が立っていた。同じ課に所属する守野モリノ 大介ダイスケだ。

 キッカは手を止めて立ち上がった。

「おはようございます、モリノさん。うまくいったというか……」

「聞いたぜ。大変だったみたいだな」

「できれば何の痕跡も残さずに撤退したかったんですが」

「いや、あそこは昼夜問わず警備が堅いから、侵入するだけでもひと苦労だったろ。それにしても、その警備兵をうんも寸もなく瞬殺しちまうなんて、お前らしいな」

 モリノは豪快に笑い声を上げた。

「ま、何にせよ目当てのデータは手に入ったんだし、どうせこちらの素性は特定できやしねぇんだ。気にするこたねぇよ。今日は早めに帰ってしっかり休めよ」

「ありがとうございます」

 キッカはようやく、少しだけ口許を緩めた。モリノは労うようにキッカの肩をぽんぽんと叩き、自分の席へ戻っていった。

 モリノは特別情報課で一番の古株である。年齢は三十代後半で、若手の多い所属メンバーの中でも兄貴分だった。任務の細かな指示を出すのも彼の役目だ。孤立しがちなキッカのことをいつも気に掛けてくれる、数少ない理解者とも言える存在である。

 少し心が軽くなったような気がして、キッカは業務に戻った。


 総務部特別情報課は、特殊任務を行う部署だ。

 今やナショナル・エイド社とは切っても切れない関係にある帝国軍政府からの依頼で、あまり表沙汰にはできない仕事を請け負っている。

 競合他社の機密情報を盗む企業スパイ活動から、政府にとって邪魔な要人の暗殺まで。言わば軍政府の闇部分をも引き受ける隠密部隊である。

 しかし表向きには、イントラネットの調整・管理を行う部署ということになっている。だから彼らが裏で何をしているのか、社内で気付く者はいなかった。


 およそ六年前から、内戦は収束状態となっていた。帝国軍が一つの大きな反乱勢力を潰したことで、その他の組織も急激に活動を縮小させたのだ。

 軍政府は、それまで内戦へ費やしていた予算を技術開発へ回すようになった。統治下に置いた地で新しい技術を試し、本国へ持ち帰って更に軍事力を増強することが、海の向こうの大帝国の狙いだった。

 その一環として、ナショナル・エイド社の特別情報課においてある特別なプロジェクトが始まったのである。

 戦闘用生体義肢の実用化。

 それは人工の筋肉や骨を構成する物質に特殊素材を用い、外観はそのままに本来の数倍のパワーと敏捷性を引き出すことを可能にした生体義肢である。

 その最初の被験者として男女一名ずつの若者が選ばれ、特別情報課のメンバーに加わった。その片割れ、女性の方の被験者が、キッカなのである。


 キッカは内戦孤児であった。

 彼女が十歳の頃、保健省の職員だった両親は反乱軍のゲリラ攻撃に巻き込まれて死んだ。彼女と八歳下の幼い妹は、ナショナル・エイド社の経営する児童養護施設に入所することとなった。

 妹とは、キッカが十八の歳に病気で死に別れた。以来、天涯孤独の身だ。

 二十歳の時、生まれ持った身体能力の高さを見込まれ、ナショナル・エイド社からスカウトを受けた。それから六年、プロジェクトの実戦を兼ねて任務に当たっているのである。


 昼休み、キッカは社員食堂で昼食を摂っていた。今日もライスは大盛りである。本当はいくらでも食べられるのだが、悪目立ちしたくないのでこの程度の量で抑えていた。

 キッカは余程のことがない限り、普段から一人で行動している。機密事項を漏らさないためということも勿論あったが、それ以上に彼女には他人を寄せ付けない雰囲気があった。

 くっきりした二重瞼に切れ長の目、すっと通った鼻筋。ぽってりとやや量感のある唇に、小さな顎。艶やかで癖のない、真っ直ぐな黒髪。すらりとした長身の、均整の取れたプロポーションの持ち主である。

 涼やかな美人ではあるが、社内においてキッカの噂話が人の口の端に登ることは滅多にない。常にモノトーンのパンツスーツに身を包み、メイクは控え目。美しい黒髪も、会社にいる時はいつも低い位置で一括りにしている。華やかな雰囲気の女子社員が多い中では、彼女はあまりに地味だった。加えて表情は乏しく、口数も少ない。伏し目がちの瞳は暗く冷たい印象を与え、彼女を取っ付き難く感じさせる一因となっていた。

 だからキッカに話し掛ける者は、モリノを除いては一人しかいなかった。

「よう、お疲れ」

 そう言って勝手にキッカの正面に腰を下ろしたのは、仕立ての良い細身のスーツを着こなした、垢抜けた雰囲気の優男だった。

 特別情報課の同僚の、相馬ソウマ 要二朗ヨウジロウである。

 キッカは形の良い眉を気付かれない程度にひそめた。

 ソウマはキッカと同い年で、入社したタイミングも同じ。そして彼こそが、もう一人の戦闘用生体義肢の被験者であった。

「相変わらずすごい量のメシだな」

 ソウマは苦笑しながらそう言った。彼自身の盆に載った食事は並の量である。

「今朝の潜入作戦の話、聞いたぞ。撤退の時に見つかって、警備兵に待ち伏せされたらしいな」

 どこか揶揄するような声。キッカは返事の代わりに、ソウマの顔に一瞥をくれた。小馬鹿にしたような目と視線がかち合う。こいつは性格の悪さが顔に出ている。

「お前、最近ちょっと気を抜いてるんじゃないか?」

「うるさいな。食事中なんだけど」

 キッカは顔を上げ、ソウマを軽く睨んだ。任務でミスをし、いけ好かない相手から嫌味を言われる。まったく、冗談じゃない。

 対するソウマは、片手で頬杖をついてにやりとした。

「やっと返事したな、タチバナ」

 いちいちムカつく男である。キッカは苛立ちを吐き出すように、短く溜め息をついた。

「で? 何か用?」

 ソウマは周囲を気にしながら少しだけこちらに身を寄せ、声のトーンを落として言った。

「いや、別に用ってほどじゃないんだけどな。聞いたか? 怪我の回復スピードが上がるっていう新技術の話」

 先日、川島博士から切り出された話題だ。新しい技術が実用可能になった、と。回復力を高める細胞エキスを注射で体内に入れるのだと説明があった。確か、その名前は——

「……『アニュスデイ』だっけ」

「そう、それだ、『アニュスデイ』。なんか大層な名前だよな。お前はどうする?」

「何が?」

「いや、試すかどうか」

 キッカはかぶりを振る。

「どうするも何も、博士がそうしろと言うなら」

 ソウマは鼻を鳴らした。

「お前はいつもそればっかりだな。操り人形じゃねぇんだから」

 こいつは嫌味を交えないと物が言えない病気か何かなのか。

「あ、もしかしてお前あれか、枯れ専ってやつか?」

 反射的に視線を上げる。さすがに今のはカチンときた。キッカはわざと音を立てて箸を膳に置いた。忌々しげにソウマをめ付け、冷たい声で言う。

「用事はそれだけ?」

 ソウマはひらひらと手を振る。

「冗談だ。怒るなよ」

 ふざけるな。もう相手にするのも馬鹿らしい。キッカは椅子から腰を上げ、膳を手に取る。

 立ち去ろうとするキッカの背中に、再びソウマの声が掛かった。

「タチバナ」

 軽く振り返ると、ソウマのにやついた顔が目に入る。

「悪かったよ。今度飲みでも行こうぜ」

 どのツラ下げて。キッカは氷のような視線でそれに答える。そして一言も発することなくソウマに背を向けた。

「相変わらず愛想のない奴だな」

 ソウマの呆れたような呟きを聞きながら、キッカは苛々と食堂を後にした。

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