ch.2 逃亡劇の始まり

第9話 極秘任務

 それから約一ヶ月後の、ある日の午後。キッカは研究棟への呼び出しを受けた。

 研究棟はシミズ支社ビルのすぐ隣にある。普段は用事がないため、あまり立ち寄らない建物だ。

 その連絡は、直接キッカの携帯端末にメールで送られてきた。正式な指令であれば必ず課長から話がある。つまり、今回は正式ルートではない呼び出しということだ。

 キッカは指定された時刻に、研究棟の中のとある一室の扉を叩いた。中から「はい」という男性の声が聞こえる。

「タチバナです」

「どうぞ」

「失礼します」

 扉を開けて中に入ると、正面のデスクに白衣姿の人物が座っていた。銀縁眼鏡に白髪交じりの頭。還暦に届かないくらいの年頃の男性である。

 その傍らにはモリノが立っている。どうやら呼び出されたのは自分一人ではなかったらしい。

 キッカは心持ち背筋を伸ばし、モリノに目礼してから、小さく口角を上げた。

「お久しぶりです、川島博士」

「あぁ、一ヶ月ぶりだったかな。わざわざ出向いてもらってすまないね、タチバナくん。その後、体調に何か変わりはないかな?」

 川島博士は眼鏡の奥の目を僅かに細めて言った。先日受けた、怪我の回復速度を早める細胞エキス『アニュスデイ』の注射のことを訊いているのだろう。

「えぇ、特に問題はありません」

「それは良かった」

 この川島博士こそが戦闘用生体義肢の開発責任者であり、キッカとソウマに移植手術を施した、プロジェクトの第一人者であった。

 キッカはほんの少しだけ首を傾け、仄かな笑みを作る。

「ところで博士、今日はどういったご用件でしょうか」

「あぁ、そうだな」

 川島博士は硬い面持ちで、顔の前で手を組んだ。

「まず……今からする話は、この三人の中だけの極秘ということにしてほしい。君の上司や、特別情報課の他のメンバーにもだ」

 ちらりとモリノを見ると、小さな首肯が返ってくる。キッカは川島博士に視線を戻した。

「分かりました」

「私がこうして君を呼び出したことも、内緒にしてもらえると助かる。ちなみにここへ来る途中、誰かに会ったりしていないかな?」

「えぇ、大丈夫です。誰にも言わずに席を外してきました」

 モリノが口を挟む。

「防犯カメラの映像は、後で処理しておきます。私もタチバナも、ここへは来なかった」

「あぁ、悪いな、モリノくん」

 只ならぬやりとりに、キッカは緊張した。一体、何の用事だろう。

 川島博士がキッカに向き直る。

「タチバナくん。実は君に、一つ仕事を頼みたいんだ」

「はい」

「これを、ある場所に運んでもらいたい」

 デスクの上に差し出されたのは、一枚のメモリーチップだった。親指の先ほどの小さなものである。表面には少し掠れた銀の手書き文字で『Aファイル』と記されている。

「これは?」

「詳しくは言えないが……私の研究に関わるデータが入っている」

「これを、どこへ?」

「このメモの場所だ」

 手渡されたメモに目を落とし、キッカは一つ瞬いた。視線だけを川島博士に向ける。

「……ここへ?」

「そうだ」

 キッカはもう一度、そのメモ書きを見た。

『ショットバー"スワロウテイル"』

 見知らぬ店の名前と、その下に書かれた住所。

 それはなんと、ハママツ自治区の住所だった。

 このナショナル・エイド社は、本社、支社を含めて全ての事業所が統治区域にある、帝国軍政府と繋がりの深い企業だ。特に川島博士の関わっている研究は全面的に帝国の支援を受けており、社内でもトップクラスの機密事項である。

 そうでありながら、軍政府の管理に属さない自治区域へ、研究データを持ち出すのだと言う。

 キッカは困惑していた。つまり、川島博士は造反しようとしているのだ。そしてこの話を受けるということは、自分も会社を裏切ることを意味する。

 一瞬のうちに、様々な思考が頭の中を駆け回る。今、自分はどういう状況にいるのか。どのように返事をすべきなのか。逡巡しゅんじゅんした末、言葉を選んで口にする。

「すみません博士、まず教えてください。一体なぜ、このようなことを?」

 本来であれば、任務の意義に疑問を挟むようなことはしない。与えられた指示に従って仕事をするだけだ。だが今回ばかりはそうもいかない。

 川島博士は表情を変えずに口を開く。

「簡潔に言うと、今私が関わっているプロジェクトの進行を、阻止したいのだ」

 キッカはもう一度、静かに瞬きをする。

 確か先日の潜入作戦も、そのプロジェクトのためのものだったはずだ。入手したデータがどのように活用されるのか知らされてはいないが、やはり生体義肢に関係するプロジェクトだと聞いている。

「その理由も、お訊きしてよろしいでしょうか」

 川島博士は小さく息をついた。そして軽く顔をしかめながら、呟くように言う。

「私はもう、耐えられそうにもないのだ……自分のしていることと、置かれた立場に。このままでは、間違いなく恐ろしいことが起こる」

 声が震えている。眉間には切り付けたような皺が刻まれ、深い苦悩と疲労が見て取れた。

「それは、具体的にどういうことですか?」

「……申し訳ないが、それを話すことはできない。君は知らない方がいい」

「……分かりました」

 川島博士は話を続ける。

「十日ほど前、外部ネットから私に接触してきた者がいた。詳細は省くが、私は相手と交渉し、この研究データを世に公表してもらうよう依頼した」

「それによって、博士が危惧していることを回避できる、ということでしょうか」

「その理解で問題ない」

「そうですか……」

 更にキッカは躊躇ためらいがちに、普段なら絶対にしない質問を重ねる。

「あの、それで……なぜ、私にこのお話を?」

「今回のことについて、私は付き合いの長いモリノくんに相談した。これまでにもモリノくんには、色々なことを手伝ってもらっていたからね。そのモリノくんが、タチバナくんなら適任だと……」

 モリノが引き継ぐ。

「秘密裏に動くためにも、どうしてももう一人、協力者が必要です。タチバナは常に沈着冷静で、これまでの任務で不測の事態が起こった場合にも、適切な判断で確実に勤めを果たしてきました。口も固いですし、何より博士を信頼している。そうだろ、タチバナ」

「えぇ……あの、はい……」

 確かにモリノの言う通り、キッカは川島博士を信頼していた。戦争孤児である彼女はむしろ、いつも親切で穏やかな物腰の博士にどこか父親の影を見ているような自覚すらあった。今までどんなに危険で違法な任務でも指示通りにこなしてきたのは、それが彼の助けになると思っていたからだ。

 だからこそ、川島博士が造反しようとしている事実には酷く混乱していた。また、仮にデータの流出元が会社にバレたら、彼の立場は一体どうなるのか。それを考えると、容易に返事のできることではなかった。

 キッカの動揺を汲み取ってか、モリノは落ち着いた、しかし淀みのない口調で言う。

「会社は最重要事項として例のプロジェクトを進めていますが、開発者である川島博士の意思に反したことはすべきではないと、私は思っています。会社が博士に無理を強いているような今の状況は、どう考えても間違っている」

「ありがとう、モリノくん。本来であれば、私一人で行動を起こすべきなんだが……私の動きは本部に監視されていて、自由に動くことができない。君たちを巻き込む形になってしまうということは重々承知している。しかし君たちを頼る他に手立てがないんだ」

「博士が信念に従って行動すると仰るなら、私はご協力しますよ。タチバナは、どうする?」

 キッカに水が向けられる。確かに、モリノの言うことは理解できる。それに川島博士の力になりたいと思うのはキッカも同じだ。

 川島博士は更に言い募る。

「タチバナくん、君にお願いしたいのは、メモリーチップをこの場所に届けることだけだ。それが終わったらすぐに帰ってきて、明日からはまたいつも通りの生活に戻る。今後誰かに何かを訊かれても、知らないふりを通してもらえばいい。もちろん謝礼はする」

 縋るような眼差しがキッカに注がれる。

「頼む、タチバナくん。こんなことに巻き込んでしまって心苦しいが、君にしか頼めないことなんだ」

 そう言って、深く頭を下げた。切羽詰まったような声。川島博士のこんな様子は今までに見たことがなかった。

 心がぐらぐらと揺れていた。自分にしか頼めないこと。その言葉はキッカの耳に甘く響いた。

 川島博士が、自分を頼っている。他の誰でもなく自分を、しかも秘密裏に。

 胸の奥に熱が生まれるのを感じた。いけないことを内緒で行なうために、限られたメンバーで秘密を共有するという高揚感もあった。

 この任務を遂行すれば、川島博士を真の意味で助けることができる。それはキッカにしかできないことだと言う。指示されたのは、この小さなメモリーチップを目的の場所に届けて帰ってくることだけだ。実に容易たやすい話ではないか。

 キッカはついに首を縦に振った。

「分かりました。ご依頼の品をお預かりします」

「……ありがとう、タチバナくん。本当に、ありがとう。申し訳ない」

 川島博士はキッカの手を握って、痛み入るように礼を言った。大きくて温かい手だ。心臓が、とくんと脈を打つ。

 キッカは頬を緩め、唇に微笑みを作った。

「いいんです、博士。お役に立てるのなら。ところで私は、どなたを訪ねていけばいいですか?」

「その『スワロウテイル』という店の主人に言えば、分かるようになっているそうだ」

「承知しました」

「あぁ、良かった。お前が引き受けてくれなかったらどうしようかと思ってたぜ」

 モリノがいつもの調子で、軽く笑いながらそう言った。

 一方、川島博士はまた神妙な面持ちに戻っている。そして二人の顔を交互に見た。

「モリノくん、タチバナくん。仮にこの件が会社に知れた場合、全責任は私にある。その時は二人にも何らかの迷惑を掛けてしまうかも知れないが、絶対に君たちには処分が及ばないようにするつもりだ。だが、できれば他の人間に動きを悟られないように、くれぐれも気を付けてほしい」

「はい、その心づもりで動きます」

「約束は今日の夜七時。急な依頼で申し訳ないが、よろしく頼むよ」

 キッカは左手首の腕時計に目をやった。今は午後二時十分を過ぎたところだ。

「承知しました。今夜七時に、ハママツ自治区の『スワロウテイル』」

 モリノがキッカに向き直る。

「タチバナ、今から課に戻って早退届を出せ。余裕持って準備しろよ。ここからハママツなら車で一時間半くらいだな。移動は社有車じゃなくてレンタカーを使え。念のため、偽造の免許証で借りろよ。お前がいない間の隠蔽いんぺい工作は任せてくれ」

「了解」

「それから、これを持ってけ」

 そう言ってキッカに一台の携帯端末を手渡す。

「会社に知られてない携帯だ。何かあった場合はこれで連絡をくれ。こちらも何かあったら連絡する。電源入れといてくれよ」

「分かりました」

 携帯端末とメモリーチップを受け取ったキッカは、川島博士に尋ねる。

「博士、もし、万が一ですが……任務の途中で不測の事態が発生した場合は、何を優先すればいいですか?」

 実働部隊としては、その想定は不可欠だ。いざ緊急事態となった時にいちいち連絡を取って指示を仰いでいては、手遅れになる可能性だってある。その時に任務を断念するのか、それとも何が何でも全うするのか。その方針は重要である。

 川島博士は強張った表情でキッカを正面から見据えた。

「何があったとしても、可能な限りデータをハママツまで届けてほしい。これは私にとって最後の賭けだ。会社に知れてしまったら、二度とチャンスは巡ってこないだろう。本当に恐ろしいことが起こる前に、どうしても食い止めたいのだ」

 真摯な眼差しがキッカの瞳に注がれている。胸の奥は、まだ熱を持ったままだ。その熱に動かされるように、キッカは強く頷いた。

「承知しました。必ず届けます。何があっても」

「……ありがとう」

 その声は少し掠れていた。キッカはもう一度、美しく微笑んだ。

 モリノが表情を引き締める。

「さぁ、そうとなれば早速任務開始だ。タチバナ、気を抜くなよ」

「はい」

 キッカは凛と返事をした。

「じゃあタチバナくん、よろしく頼む。何事もなく君が無事に戻ってくれることを願っている」

「ありがとうございます。それでは行って参ります」

 キッカは一礼すると、川島博士の部屋を後にした。


 研究棟を出て、キッカは特別情報課の執務室に戻った。早退届を提出するためだ。

「すみません、どうしても頭痛が酷くて」

 しおらしい表情を作り、伏し目がちにそう言った。

「そうか、大丈夫か? まぁ、今日はもう大した仕事もないしな。早く帰って休め」

「ありがとうございます、課長」

 しずしずと自分の席に戻って、帰り支度をする。パソコンをシャットダウンし、荷物を持って、席を立った。スーツの襟を正すふりをして、内ポケットにあるメモリーチップと携帯端末、そしてメモ用紙に触れる。それらはそこに入れた時のまま、きちんと収まっていた。

 体調が悪い時の声で他のメンバーに挨拶をし、部屋を出た。

 エレベーターホールへと続く廊下。ヒールの床を叩く音が、やけに大きく響く。

 その時だった。

「おい、タチバナ」

 突然背後から声を掛けられ、どきりとした。

 ゆっくり振り返ると、先ほどは執務室にいなかったソウマが立っていた。

「なんだ、出掛けるのか?」

「……いや、早退。ちょっと頭痛くて」

 表情を変えずに短く答えつつ、心の中で舌打ちする。どうしてこの男はいつも無駄に話し掛けてくるのか。

「珍しいな。大丈夫か?」

「うん、まぁ」

「そうか……ところで、モリノさん見なかったか? 席にはいないみたいなんだが」

「さぁ……ごめん、知らない」

 キッカは逸る気持ちと苛立ちを抑えながら言った。

 ポーンと、エレベーターの到着を知らせる音が耳に届く。

「……じゃあ悪いけど、お先に」

「あぁ、気を付けて帰れよ」

 ソウマと別れて、エレベーターに乗り込む。

 一階に着くまでの間、一階ロビーからビルを出るまでの間——キッカはさざめく心臓を身の内に隠しながら、その時間をまるで永遠のように感じていた。

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