第10話 揚村珈琲店の看板娘
その日、少女が学校から店に戻ってきたのは、午前十一時半だった。
ちょうどランチの営業が始まる時刻で、既に店内にはお客の姿があった。本当はもっと早く帰るつもりだったのだが、ついつい友達と長話をしてしまったのだ。
少女はカウンターに鞄を置きながら、店の奥に向かって声を掛けた。
「ただいま、お父さん。遅くなってごめんなさい」
キッチンに立つ、口髭にエプロン姿の中年男性が、涼やかなテノールでそれに答える。
「おかえり、ユナ。早速だけど手伝い入って」
「はーい」
ここはハママツ自治区の東端にある『
暖色系のペンダントライトで照らされた店内は、壁やテーブルセットなど全体的に深い色の木目調で統一されている。カウンターに置かれたコーヒーサイフォンからは、挽きたてのコーヒー豆の芳醇な香りが漂う。決して新しくはないが隅々までよく手入れされていて、人を安心させるような落ち着いた雰囲気の店である。
廃地区に隣接した地域にあるため、周辺の治安はあまり良いとは言えないが、マスターの人柄と美味しい料理のおかげで、この店はいつも常連客で賑わっていた。
「ユナちゃん、今日は早いんだね」
お客の一人から声を掛けられた。ユナは制服のブレザーを脱ぎ、ブラウスの上からエプロンを付けながら答える。
「今テスト週間なんです」
「へぇ、テストどうだったの?」
「あはは……」
笑って誤魔化すユナに、マスターは呆れ顔をする。
「あははじゃないでしょ、ユナ。こんな時代でも高校くらいは出ないと」
「いいの、あたしはこのお店を継ぐんだから」
「この前のテストで赤点取って、補習でぶつくさ言ってたのは誰なの」
「もーうるさいなー、お父さんは」
父娘のやりとりに、常連客が口を挟む。
「まぁまぁマスター、そんなこと言って本当は嬉しいくせに」
「勘弁してよ。ちゃんと自立してもらわなきゃ」
ユナは聞こえないふりをして、店の手伝いに入った。
正午を少し回った頃、からん、と店の扉を開けて、一人の客が入ってきた。背の高い、三十歳前後の男性だ。
ユナはぱぁっと表情を輝かせ、ひときわ明るい声で出迎える。
「クオンさん! いらっしゃいませ!」
クオンと呼ばれた男は小さく手を上げると、カウンターの端の席に腰を下ろした。それが彼の定位置なのだ。
クオンは四年ほど前から店に来るようになった、常連客の一人だった。セキュリティサービスの仕事をしているらしく、肩幅が広くてがっしりした体格だ。精悍な顔立ちだがその目にはどこか陰を湛えており、一見すると話し掛けにくい雰囲気を纏った男である。
ユナはショートボブの髪をさっと手櫛で整えてから、クオンにお冷を出しにいった。
「クオンさん、今日はお休みなんですか?」
「あぁ、そうだよ。珍しいな、この時間にユナちゃんがいるのは」
「テストだったから、早かったんです」
ユナは空になったトレイを両腕で抱えた。長身のクオンが店の椅子に腰掛けると、小柄なユナとは目線の高さが同じくらいになる。この距離感に、ちょっとドキドキする。
「テストか。どうだった?」
「もう、クオンさんもそれ訊くの?」
ユナが口を尖らせると、クオンが「ははっ」と声を上げて笑った。
不意に目にした笑顔。心臓が高鳴り、顔が一気に熱くなった。寡黙な印象のクオンだが、たまに見せる笑顔がとても素敵なのだ。
照れ隠しで早口に尋ねる。
「ご、ご注文は何にしますか?」
「じゃあ、カレーで」
「かしこまりました! 少々お待ちください」
そしてカウンターの向こうに立つマスターに向かって叫ぶ。
「お父さん! カレーを一つ!」
「うん、聞こえてたよ」
父から返ってきたのは乾いた笑みだった。
その後はランチタイムのピークとなり、ユナもキッチンに入って調理を手伝ったり、でき上がった料理を運んだりと、忙しなく動き回っていた。しかし食事を終えたクオンが席を立とうとするのを目ざとく見つけ、父より先にレジに入った。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、ご馳走さま」
「いえ、またお待ちしてます!」
会計を終えた客に対していつも言う挨拶の言葉。しかし今、ユナは社交辞令ではなく本心から発していた。意外にも、定型句のようなそれにクオンから返答がある。
「そうだな、また今夜来るよ」
マスターに軽く右手を上げ、クオンは店を出ていった。からん、と音を立ててドアが閉まるのを見届けた後、ユナは跳び上がりたい衝動を抑えるのに必死だった。
一日に二回もクオンに会えるなんて、今日はラッキーデーだ。正直テストの出来は最悪だったが、もうそんなことどうでもいい。夜は何を注文するのかな。できれば他のお客さんは少なめで、ちょっとでも話をする暇があるといいな。そうだ、お気に入りのワンピースに着替えておこうかな。
ユナはあれこれと妄想しながら、今にも踊り出しそうな足取りで仕事に戻った。
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