第11話 顔のない女
会社を出た後、キッカはバスに乗ってシズオカ統治区内にある自宅へと向かった。平日の昼間ということもあって、乗客は数人だけだ。
最後列の端の座席に腰を下ろして、膝の上にハンドバッグを抱える。重低音で身体に響くエンジンの振動が、現実感を奪っていく。窓の外を、いつもと変わらぬ街並みが、まるで他人事のように流れていた。
途中、バスはいくつかの停留所に停まり、その度に少しずつ乗客の顔ぶれが変わっていった。誰も彼もが見知らぬ人だ。同じバスに乗り合わせたとて、彼らの人生とキッカのそれとが交わることは決してない。
自宅の最寄りのバス停に到着し、降車する。十月も半ばに差し掛かり、この頃は爽やかな天候が続いていた。秋の澄んだ日差しに照らされた
柔らかな陽光が、きっちり結った髪やスーツの背中を温めている。平穏で、何でもないような景色。自分がしている特殊な仕事のことなど、遥か遠い世界のものに思えるほどだ。
これから、極秘任務にあたる。この先の運命を大きく変えるかも知れない、重大な任務。その予感だけが、胸の奥を密かに騒がせていた。
やがて自宅アパートに行き着き、鍵を回して玄関を開けた。ひんやりした室内の空気がキッカを出迎える。ドアを閉めて、再びしっかりと施錠する。
どことなくふわふわしていた頭に、すっと冷たい芯が入る。
パンプスをきちんと揃えて脱ぎ、部屋に上がった。必要最低限のものしかない、殺風景な1Kの部屋。だが今の生活にはこれで充分だった。
キッカはハンドバッグをベッドの脇に下ろし、スーツのジャケットの内ポケットに入れていたメモリーチップと携帯端末、そしてメモ用紙をローテーブルの上に置いた。
クローゼットを開け、スーツを上下とも脱いでハンガーに掛ける。カットソーとストッキングも脱ぎ去り、洗面所の洗濯カゴに入れた。
下着を外して髪も解き、一糸纏わぬ姿になったキッカは、洗面台の前に立って鏡に映る自分をじっと見つめた。控え目だが、隙のないメイクを施した自分の顔。まるで能面のようだ。
時々、自分が誰なのか分からなくなることがある。
表向きはナショナル・エイド社の一般社員。裏では特殊任務にあたる工作員。任務によっては表情を使い分け、別人のように振る舞うこともある。家族はなく、友人と呼べる相手もいない。
本当の自分は、どこにいるのか。
指先でそっと頬に触れ、唇をなぞっていく。顎、首筋、鎖骨。ゆっくりと這わせた指を、肩口で止めた。
そこにある傷。よく目を凝らさないと分からない程度のそれは、川島博士によって施された手術の痕だ。
川島博士。
胸の奥に、熱いものがちらつく。恋愛関係ではない。親子のような関係という訳でもない。研究者と被験者と割り切ってしまっても差し支えない間柄。
それでも博士は、「君しか頼れない」と言ってくれたのだ。
目を閉じて長く静かに息を吐き、ゆっくり顔を上げる。再び鏡越しに視線を合わせた自分の瞳には、一条の光が灯っていた。
キッカは居室に戻り、クローゼットの中のローチェストを開けた。一番上の引き出しには下着類が詰まっている。ターゲットを
そこでふと思い立ち、ローテーブルに置いたメモリーチップを手に取った。それを、ブラジャーの左胸の内側に差し込む。こうしておけば、何かあった時に多少の時間稼ぎができるかも知れない。
続いて、ローチェストの最上段からアンクルソックスを、中段から飾り気のないグレーの七分袖ニットを、一番下の段から濃紺のスキニージーンズを取り出し、素早く身に付けた。襟ぐりに入り込んだ艶やかな長い黒髪を掻き上げて引き抜き、高い位置で結い留める。
キッカはもう一度洗面台の前に立ち、手早く化粧を直した。パールの入ったグレーのアイシャドウを瞼に乗せ、目尻を軽く跳ね上げたアイラインを描く。長い睫毛をマスカラでコーティングすると、クールで硬質な目許ができ上がった。両頬にはローズ系のチークをすっと鋭角に入れ、指でぼかして馴染ませる。仕上げに、鮮やかな色の口紅で形の良い唇を彩った。
視線を上げ、鏡を見据える。そこに映っていたのは、怜悧な美貌を持つ女工作員の姿だった。
念のため武器も装備しておくべきだろう。目立たずに携行でき、尚且つ万が一の場合でもすぐに応戦できるように。
キッカはベッドの下の引き出しを開けた。その中からショルダーホルスターを出し、装着する。次に武器のケースから会社支給のベレッタM92を取り出す。帝国軍で使われているのと同じものだ。マガジンをグリップに填め込んで、左脇に挿す。予備のマガジンは右脇のポーチに入れた。
腕時計に目をやる。時刻は三時四十五分。
クローゼットにあった黒いトレンチコートを羽織り、その内ポケットに携帯端末とメモを収める。現金と偽造免許証が入った小振りのショルダーバッグを肩に掛け、玄関でエンジニアブーツを履くと、キッカは部屋を後にした。
「ご旅行か何かですか?」
キッカがレンタカー店で申し込み用紙を記入していると、四十がらみの男の店員が話し掛けてきた。世間話のような軽い口調だ。
提示した免許証は、以前任務の際に作ったものである。一見して偽物とは分からないはずだ。恐らく、こんな平日の午後に若い女が一人で車を借りにくる理由に興味が湧いたのだろう。
キッカは一瞬上げた視線を少しだけ逸らして軽く目を伏せ、寂しげな笑顔を作った。
「祖父が、亡くなったんです。電車だとちょっと不便なところだから」
ちょっとした好奇心を満たしてやりつつも、相手にしてみたらあまり突っ込んでは訊きづらい内容の返答だ。
仮初めの自分の、架空の家族。全てが虚構に塗れている。
「あぁ、そうだったんですか」
店員の声には同情の色が混ざっていた。
口許だけに僅かな笑みを残したまま、書類の続きに戻る。もう会話をするつもりはないという控え目な意思表示だ。狙い通り、それ以上に話を振られることはなかった。
手続きが終わったところで、時刻は四時半近くになっていた。これなら余裕を持って目的地まで行くことができそうだ。
キッカは街でよく見掛ける白色のコンパクトカーに乗り込み、ハママツ自治区へ向けて出発した。
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