第12話 逃亡劇の始まり

 国道一号線は順調に流れていた。その流れに乗って、キッカの運転する車は西へと向かう。

 幹線道路を進む列に乗用車の数は少ない。運送業者のトラックが多く走る中に、自衛隊員を乗せた軍用トラックがちらほら混ざっていた。情勢が落ち着いた今でも、彼らは自治区域を見張るため各地に駐屯しているのだ。

 激しい内戦の時代には、テロを警戒して統治区への出入りは制限されていた。現在そうした規制は解かれ、基本的に街から街への行き来は自由となっている。しかしそれでも、一般市民の多くは自分たちの居住地区内でひっそりと暮らしていた。まるで、見えない影に縛られているかのように。

 旧静岡市内をしばらく進んでいくと、『藤枝市』と書かれた案内標識に出会う。国道沿いには様々な飲食店や遊興施設が建ち並んでいるが、見たところ廃墟ばかりだ。争いの爪痕か、崩れかけているものすらある。

 傾いていく太陽に照らされた物寂しい街並み。その半身は色濃い陰に沈んでいる。

 日の暮れるスピードは思いのほか速く、赤く燃えるような斜陽がフロントガラスから射し込んでくる。サングラスを持ってくるべきだったと、キッカは目を細めながら車を駆り続けていた。


 異変に気付いたのは、旧島田市、旧掛川市を抜け、旧磐田市に差し掛かった時だった。日が落ちて夜の帳が下り始めた頃合いだ。

 バックミラーに映るトラックの合間に、時おりちらつく黒い車。キッカの心臓が不穏にざわめいた。

 見覚えのある車だった。直方体のような、角ばったフォルムの外国車。あれは確か、帝国軍が使っている車種だったはず。軍関係の車両は珍しくないとはいえ、その硬質な黒色は妙に目に付いた。

 血の温度がすうっと下がった。あの車はいつから後ろにいたのだろう。視界を灼く夕暮れの陽光ばかりに気を取られて、まるきり覚えがなかった。

 キッカは試しに、車のスピードを落としてみた。何台ものトラックがキッカを追い越していく中、あの黒い車だけはこちらとの距離が変わらない。反対に加速してみても、それは同じだった。

 嫌な予感が、確信に変わった。

——尾行されている。

 鼓動が足を速める。『不測の事態』を想定していなかった訳ではないが、それにしてもまさかこんなに早いとは。

 キッカは運転を続けながら、頭をフル回転させていた。

 一体どの段階からバレていたのだろうか。

 研究棟に呼び出されてから今までのことを振り返っても、特段おかしなことはなかったはずだ。それに、キッカ個人の動きから作戦の内容がつまびらかになることは考え難い。彼女とて、つい数時間前に任務を受けたばかりなのだ。

 だとしたら、川島博士とモリノが作戦を立てていた時点で既に情報が漏れていた可能性が高いということだ。

 今日キッカが退社する際に、声を掛けてきたソウマ。あの男はモリノを探していた。もし会社側が事前に二人の動きを察知して、彼にモリノを監視させていたのであれば。

 ソウマに、早退する時の様子を不審に思われたかも知れない。それで計画の始動に勘付かれ、こうして追っ手が差し向けられたということならば、タイミング的には腑に落ちる。——やはり自分のミスだ。

 二人の身が心配だった。キッカは懐を探って携帯端末を取り出し、片手でハンドルを握ったままモリノに電話を掛けた。

 受話口から響く呼び出し音は、二コール目の半ばで途切れる。それから約三十秒後、折り返しの着信があった。

「タチバナです」

『おぉ、悪い。……何かあったか?』

 こちらからの着信を一旦切ったことを詫びたモリノの声には、緊張の色があった。

「尾行されています」

『今、どこにいる?』

「一号線の旧磐田市辺りです。帝国軍らしき車が私の後ろに」

 バックミラーにちらりと目をやる。例の黒い影は、やはり先ほどと同じ距離に付けていた。

『そうか……実はこっちも、ちょっとまずくてな。さっき博士が会社側に拘束された。多分そろそろ俺のとこにも奴らが来るはずだ』

 キッカは息を呑んだ。

「すみませんモリノさん。早退する時、ソウマに話し掛けられました。恐らく、それで」

『いや、敵の動きが早すぎる。元々バレてたってことだろ。お前のせいじゃねぇ。ところでどうだ、逃げられそうか』

「撒いてみます」

『おう、気を付けろよ。こうなった以上、お前だけが頼みの綱だ』

「はい」

 一瞬の間が空く。

『……っと、すまんタチバナ。お迎えが来た。また隙を見て連絡する。悪いが、頼んだぞ』

 キッカが返事をする前に、通話は切れた。

 予想以上に、事態は深刻だった。

 時刻は六時を過ぎたところだ。既に辺りは随分暗くなってきている。ハママツ自治区はもう目と鼻の先だ。

 キッカは信号が青から黄色へと変わるタイミングで差し掛かった交差点でハンドルを切り、旧市街地へ続く脇道へ入った。

 例の車は赤信号で停止する他の車に阻まれて、動きを止めた。それをバックミラー越しに確認し、アクセルを踏み込む。

 ヘッドライトが宵闇を緩め、寂れた街を朧げに照らし出す。主要道から一本入っただけだが、付近に明かりとなるものは何もない。ところどころに街灯は立っていても、電気の点いているものは一つもなかった。この辺りの区域には、もう人は住んでいないらしい。

 ある程度進んだところでキッカは車を停めた。メモに記された住所まではまだ一キロほどの距離がある。しかしあまり店に近づき過ぎると、車の位置から目的地が割れる可能性がある。

 キッカはそっとドアを開け、車を降りた。念のため、自動拳銃の安全装置は外しておく。ショルダーバッグを斜め掛けにし、すぐに銃を取り出せるようコートの前は開けたままで、周囲を警戒する。今のところ異変はない。

 このまま無事に指定された店まで辿り着けるだろうか。キッカはできるだけ静かな足運びで、打ち棄てられた街に紛れていった。


 チェーンの引かれたガソリンスタンドに、伽藍堂がらんどうのコンビニエンスストア。外壁に大きくひびの入った市営団地に、トタンの錆び付いたあばら長屋。目に付く建物の窓という窓は割られ、塀や壁にはスプレーで文字とも記号とも判別できない落書きがなされている。

 この辺りは元々低所得者層の居住区だったらしい。道は狭く、滞留した水路からは腐った生ゴミのような悪臭が漂っていた。

 どこからともなく虫の鳴く声が聞こえてくる。ひんやりした風が首元を掠めていった。不意に、心の表面が粟立つような感覚に襲われる。

 そっと忍び込んでくる宵口の闇、朽ちかけた街に漂うよどんだ空気、そして追われているという事実。嫌悪感にも似た不安が、胸の奥底で渦を巻いている。

 東の空に昇り始めた丸い月が、身を隠そうとするキッカの姿を照らしていた。心の内を見透かされているようで落ち着かない。

 ふと、キッカの耳が微かなエンジン音を拾った。外国車特有の、腹に響くような重低音だ。それが次第にこちらへと近づいてくる。

 精神がピンと張り、先ほどまでの不安は一瞬にして掻き消える。キッカは民家の壁に身を寄せ、懐の銃に触れた。

 やがて、エンジン音はキッカのいる場所から一区画離れた辺りでぴたりと止まる。偶然か、かなり近い距離まで詰められてしまった。

 再び訪れる静寂。

 ドアが開く音。靴が地面に当たる音。追っ手は二人であるらしい。ドアが閉められ、二人分の足音がこちらに向かってくる。

 キッカがそろりと後退し、移動しようとしたその時だった。

 何かが、左足首を掴んだ。

 心臓が跳ね上がり、思わず声が漏れそうになる。見れば薄汚ない格好をした年齢不詳の男が、地面に這いつくばるような姿勢でキッカの足許に縋り付いていた。男は酩酊状態で、低く呻き声を漏らしている。浮浪者だろうか。

 キッカは男を脚から振り落とした。その身体が民家の壁にぶつかる。物音を聞き付けた追っ手が、足を速めた。

 まずい。

 地面を蹴って駆け出す。戦闘用義足の人工筋肉がしなり、一気にトップスピードに乗る。

 キッカが壁に沿って角を曲がり切るのと、追っ手が姿を現わすのと、ほぼ同時だった。

 耳をつんざく発砲音が、空っぽの街に響き渡る。

 ブロック塀に背を預け、息を詰めようとした。しかし胸の鼓動が、周囲に漏れ聞こえてしまいそうなほど激しく騒ぎ立てていた。それを抑えるために浅く短い呼吸を繰り返しながら、物陰からそっと様子を伺う。

 ヘルメットと迷彩服に身を包み、銃を手にした男が二人。片方が、倒れた浮浪者を爪先で転がしていた。その身体の下には血液が拡がりつつある。

 男たちは合図を交わすと、こちらへ顔を向けた。彼らの足が、一歩二歩と接近を再開する。

 身体を塀から離す。垂れ込めた闇を振り払うように、キッカは走り出した。

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