第13話 後戻りできない
入り組んだ狭い道を縫うように、キッカは走り続けていた。背後からは二人の男が追いかけてくる。
あの浮浪者が誤射されたことで、一つはっきりしたことがあった。奴らはキッカを殺すつもりで来ているのだ。姿を捉えられたが最後、弁明の
予想以上に容赦がない。廃地区で車を降りて正解だった。自治区の中だったら、どれだけ一般人を巻き添えにするかも分からない。
不意に長い直線の道に出た。ようやくトップスピードで駆け抜けるも、すかさず背後から発砲音が響いてくる。発射された銃弾が頭のすぐ横を通過していった。
次々と撃ち込まれる弾を避けて細い路地に飛び込み、くるりと前転しながら着地する。その勢いのまま身を起こしつつ、ひと時も動きを止めることなくまた走り出す。
人一人がやっと通れるほどの通路を行く。側溝に
その通路の出口である正面に、男の一人が姿を見せた。反対側から回り込まれていたのだ。背後からはもう一つの足音が追ってくる。
一本道で
キッカが跳んだ。
右足での踏み込みから、反対の足で左側の壁を蹴り上がって、宙高く舞う。右側のブロック塀を軽々と飛び越え、民家の敷地へ転がり込む。すぐさま身を起こして、表の道へと抜けた。
しかし少し進むと、男たちは再び後ろに付けてくる。間断なく動き続ける脚が、徐々に重さを増していく。既に息は上がり、胸が苦しくなり始めていた。
埒が明かない。このまま無事に逃げ
応戦し、倒す。そうでなければ、この任務を果たすことはできない。
相手は二人。恐らく、よく訓練された帝国軍兵。いくら戦闘用義肢の力があっても分が悪い。せめて一人ずつ相手にすることができれば、あるいは——
走りながら辺りにさっと目を配った。二つ先の四つ辻の向こうに、二階建ての古いアパートが見える。
ちらりと後ろを振り返り、男たちの姿を確認すると、キッカはアパート目掛けて疾走した。
アパートの外階段を二段抜かしで駆け上がる。案の定、一人はキッカの後を追ってきた。もう一人は別方向に回っていく。
二階の外廊下を進み、一番手前の部屋のドアノブを力任せに引く。掛かっていた鍵は呆気なく壊れ、扉が大きく開く。それが追っ手の視界を遮る隙に、部屋の中へと入り込んだ。
玄関の扉を閉めると、一気に闇が色濃くなった。
正面には開けっ放しの扉。六畳ほどの部屋が縦に二つ並んだ間取りらしい。天井は然程高くない。
キッカは大股で進むと、二つの居室を繋ぐ扉を後ろ手に閉めた。入り口の方向に背を向けたまま、奥の部屋の中央付近に立つ。
深く長く息を吐き、騒ぐ心臓を制する。目を瞑り、自ら作り出した完全な闇の中で神経を研ぎ澄ます。追っ手の行動をイメージし、受容する感覚でそれを補う。
一瞬のチャンスを逃してはならない。
奴は今、玄関の扉の外から銃を構え、部屋の中の物音に耳をそばだてているはずだ。壊れたノブを片手で引き——キィ、という小さな音を聴覚が拾う——銃を構えたままさっと中に入る。素早く周囲を警戒。手前の部屋に誰もいないことを確認し、正面の扉に銃口を向ける。
一歩、二歩。イメージの中の男が、できるだけ音を立てない歩き方で扉へ近づく。そしてドアノブに手を掛け、ひと息に押し開ける。
肌が、ほんの微かな空気の動きを感知した。
——今だ。
刹那、右足首をぐっと踏み込んでしならせたキッカは、その反動で宙へと跳躍した。大きく背を逸らし、天井すれすれで後方に身を
虚空を舞うしなやかな身体が美しい放物線を描く。瞼の暗幕から解き放たれた視覚が、目標を定め切れず大きく隙を作った追っ手の姿を捉えた。
膝を抱えて宙返りしながら、相手の頭上ぎりぎりを通る軌道で下降していく。男のすぐ背後に着地したキッカは、立ち上がりつつ相手の頭部に両腕を伸ばした。
右手を顎に、左手をヘルメットの頭頂部に添え、渾身の力を込めて瞬間的に頭を捻り上げる。ごきり、と鈍い音がして、男の頚椎が砕けた。
力を失った男の身体が床の上に
それとほぼ同時に、ガラスの割れる音が鼓膜に突き刺さった。正面の窓が破られ、もう一人の追っ手が部屋に飛び込んでくる。間髪入れず、敵の銃口がキッカに向けられる。
屋根からワイヤーロープを伝ってこの部屋に侵入することで、挟み討ちを狙ったのだろう。しかし、ひと足遅かった。
キッカは死体となった一人目の男を相手に向かって蹴り飛ばし、素早く懐から銃を抜いた。
闇の中で、視線がぶつかる。
向かい合う二つの銃口が火を噴いた。交錯する銃弾が、
勝敗は、瞬きの間もなく決した。
左肩に強烈な衝撃が
対峙した男は、膝からその場に崩れ落ちた。キッカの放った銃弾が、眉間に命中していた。脳漿が飛び散り、溢れ出た血が床を汚す。鼻を衝く悪臭が、あっという間に部屋を満たした。
再び静寂が訪れ、囁くような虫の音さえ戻ってくる。割れた窓からは月明かりが射し込んでいる。
足許に転がった敵の拳銃は、キッカと同じベレッタM92——帝国軍兵に支給されているものだ。
追っ手の正体には、もはや何の驚きもない。それ以上に、今は物言わぬ存在となった二人が向けてきた明確な殺意——戦闘のプロによって自らの命が脅かされる感覚——を思い出すと、臓腑が凍り付いた。
ともあれ、取り敢えずの危機は去ったのだ。キッカは愛銃をホルスターに収め、脈打つように痛む左肩を押さえながら部屋を後にした。
アスファルトの地面に足を着けると、ようやく人心地ついた。ひんやりした夜の空気を胸に深く吸い込む。やや高度を上げた満月が、キッカのことを見下ろしていた。
敵の銃弾は骨を避けて貫通したようだ。体内に残らない九ミリ弾で良かった。
だが傷口からは止め処なく血が溢れ、トレンチコートの袖を濡らしている。左肩全体が燃えるように熱を発していた。太い動脈が傷付いているのかもしれない。早く止血しなければと思ったが、もしそうなら自力でどうにかできるものではない。
およそ半時間休まず駆けずり回った疲労が、思い出したかのように重く身体じゅうに伸し掛かってくる。姿も見えない虫の声が、今や頭の中で絶えず反響している。意識の焦点がぼやけ始めていることに気付き、はっと我に帰った。
コートの内ポケットから携帯端末を取り出し、画面を表示させる。時刻は午後六時五十分。モリノからの着信はない。
独りだった。
川島博士とモリノは拘束された。追っ手として差し向けられた帝国軍兵はキッカを殺そうとした。だから返り討ちにした。
目隠しをしたまま命綱も着けず、細いロープを渡っているような気分だった。少しでも気を抜いたら、たちまち足を滑らせて奈落の底へと堕ちてしまうだろう。
今キッカの前に置かれた選択肢は、たった一つだった。川島博士から託されたデータを、無事に届けること。
左胸に触れ、メモリーチップの存在を確かめる。その奥にある心臓が、強く脈を打っている。垂れ込める霧のような不安の下、さざめく心の真ん中には、キッカを突き動かしたあの熱が今も確かに宿っていた。
もう後戻りはできない。目的を遂げたその先のことだって、まだ分からない。だが今は、とにかく前に進むより他はない。
それでもいいと思えた。なぜなら自分には、そもそも何もなかったのだから。
約束の時刻まであと十分。キッカはふらつく身体を引き摺るようにして、ハママツ自治区に向けて歩き出した。
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